同姓同名探偵法水麟太郎犯罪ノ本質ヲ指摘シ捜査方針ヲ決スルコト
新出既出
1.法水麟太郎北原白秋『桐の花』ヲ読ミ解クコト
玉熊刑事が振り向くと、同姓同名探偵法水麟太郎は、雪原と化した武蔵野の山林を背にして、マホガニーのテーブルに寒禽のごとく覆い被さり、現場に残された北原白秋『桐の花』の肉筆本を捲っていた。
「法水君。こんなときに感傷に浸ろうだなんと、君もよほどロマンチストと見えるね」
と、玉熊警部がテーブルを指先でトントンとたたいた。だが、そこは麟太郎である。悪びれもせず、句集のある部分をしなやかに指指して、
「―フム、『チョコレート嗅ぎて君待つ雪の夜は湯沸(サモワル)の湯気も静こころなし』(Ⅲ雪 八)とか言うぜ」
と、玉熊の質問を軽くいなした後で、
「だから、極寒の内に衰弱した被害者に、居る筈の無い人間を感知させる道理は、湯沸(サモワル)へと帰納されるという訳じゃあないか」
と、その場限りの詭弁としか思われぬ発言をする。
これには玉熊もあきれて、
「おいおい、いい加減現実社会へ帰還してはもらえないかね。大体、ヤカン一つで人間が拵えられるっていうんなら、即席ラアメンなんぞ数百年も昔から出来ていなけりゃ、十露盤に合いやしないだろうじゃないか」
と、逆襲に転じた。だが、麒太郎は、
「この際、瞬間乾燥技術を殺人に応用する方法のレクチュアは先のこととしてだね」
と、玉熊をあっさりやり込め、
「つまりは『ああ冬の夜ひとり汝がたく暖炉(ストオブ)の静こころなき吐息おぼゆ』(同 八)となれば、殺害以前にもう一人、暖炉へ火を入れた人間がなきゃならない訳でね。おまけに二人は『雪の夜の赤きゐろりにすり寄りつ人妻とわれと何とすべけむ』(同 九)なんですからな」
と、あくまで『桐の花』に拘泥している。
「だからと言って、悪夢の後の朝明に、『狂ほしき夜は明けにけり浅みどりキャベツ畑に雪は降りつつ』(同 十)では、あまりに単純すぎやしませんかね」
と、玉熊が、同じ『桐の花』から引用して言い負かそうと試みるも、麟太郎は、
「いや、むしろ『雪ふるキャベツを切ると小男が段段畑をのぼりゆく見ゆ』(同 十)の方でしょう」
と、煙草の煙をプウプウ吐きながら澄ましている。
「すると、君は、山狩りをしろと言うのかね!」
と、玉熊が仰天すると麟太郎は、
「出来有ればね。だが、手遅れかもしれぬ」
と、一瞬鎮痛な面持ちを見せ、
「なにしろ、『わかき日は赤き胡椒の実のごとくかなしや雪にうづもれにけり』(同 十一)だからね」
と、煙草を捨てた。
「不吉なことを言うね」
玉熊は百年も前の歌集が現代現実の殺人事件をそのまま描写するという異常に、背筋の凍る思いがしていた。だが、麟太郎はすぐにこれまでの 冷徹な眼と諧謔を湛えた唇を取り戻して、
「『つつましきひとりあるきのさみしさにあぜ菜の香すら知りそめしかな』(Ⅳ 早春 三)
『あはれなるキツネノボタン春くれば水に馴れつつ物をこそおもへ』(同 三)か… 誰か、この付近の地図を!」
と、凍てつくガラスを振るわせるほどの声で命じ、卓上にバサリと地図 を広げると、「猫柳、猫柳」 とつぶやきながら、コンパスや、細引き紐で、なにやら測定を始めた。
ああ、この、遅い雪に閉じ込められた武蔵野の密室におこった一件の自然死と思われた出来事を、麒太郎の超絶的頭脳は、百年の時を経た有名歌集をもって読み解こうというのだろうか!?
玉熊は、ただ傍らに立ち尽くし、今では 完全に事件解明の原動力となった麟太郎の一挙手一投足を見守っている。
ほどなくして、糸巻きをコロコロと転がした麟太郎は、
「『細葱の光をかなしむと真昼しみらに子犬つるめる』(同七)と行こうか」
と玉熊の方を叩いた。
玉熊は頷いて、警察犬の手配を済ませ、
「さて、犬が来るまで間があるから、『ふくれたるあかき手を当てハシタメが泣ける厨に春は引かれり』(同 八)とあることでもあるし、女中の話でも聞いてみようじゃあないか」と、麟太郎に声をかけたが、麟太郎は
「その方面は君に任せるよ」
とそっけなく言って、傍らのソファーにどっかりと腰を下ろすと、新しい煙草に火をつけ、沈思黙考 に入ったのだった(未完)
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