さよならサオリン
「頼む、急いでくれ!」
気ばかり焦るとはこの事だ、運悪く、朝の通勤ラッシュに重なってしまった、
合宿場所の天照寺から、市街地に続くルートは一つしか無い、
俺を乗せたリムジンは渋滞の最後尾で停止してしまう。
「差し出がましいとは思いますが……」
苛立ちを隠せない俺を見かねたのか、
運転席のルームミラー越しに声を掛けられる。
「こんな格言があります、
焦ることは何の役にも立たない。
後悔はなおさら役に立たない。
焦りは過ちを増し、後悔は新しい後悔を作る」
「焦りは冷静な判断を狂わせます、過去、何人もの偉人が、
一時の激情で己を見失い、その身を滅ぼしています、
追い込まれた時ほど冷静になり、最善の着地点を考えるのが得策です……」
そうだ、俺は自分を見失っていた……
皆川さんの助言に冷静になることが出来た。
「すみません、大切な人か心配で、取り乱してしまいました……」
「さよりお嬢さまの時も、本多会長に背くことは無理だと、
諦めてた我々に勇気をくれたのは、貴方なんですよ……」
本多会長の逆鱗に触れ、無理矢理、転校させられそうになった
さよりちゃんを救いだした時の事だ、
予想外の言葉に驚きを隠せなかった、それは逆だ、
皆川さん達の協力で、無事さよりちゃんを救い出せたんだ。
「皆川さん……」
感謝の気持ちで一杯になる、
「無駄なおしゃべりが過ぎました、さよりお嬢様に叱られますね……」
男同士だけに分かる気持ちを共有して、自然と笑みがこぼれる、
あれっ、男同士と言えば、俺はどんな格好をしている?
リムジンの座席に備え付けられた鏡に映った姿は……
服装は急いで飛び出したため、合宿用のジャージのままだが、
肩までの長い髪は後ろで結わえて、ポニテにしてある
最近は顔まわりにアレンジで長い髪の毛を出して、
触覚ヘアにしている、これだけで小顔に見えるだけでなく、
より女の子らしさを醸し出せる、これも天音達に教えて貰ったんだ、
さらにモーニングルーティーンで、ばっちりメイクを仕上げて、
どこへ出しても恥ずかしくない女装男子が鏡の中で微笑んでいた。
「このままじゃ、駄目だ、宣人にもどらなきゃ!」
そうだ、萌衣ちゃんのお願いは宣人じゃなきゃ叶えられないんだ。
だけど変身する時間が無いぞ、どうする?
「ご安心ください、こんなこともあろうかと用意は出来ております」
皆川さんの言葉と同時に、運転席との間に仕切りカーテンが降りる、
「さよりお嬢様の言いつけで着替えを用意しております、
さあ、お急ぎください……」
さよりちゃんが…… でも宣人に戻ることを何故、予測していたんだ?
疑問は残るが今は考えている暇はない、
電動でせり出してきたドレッサーに向かい、フェイスオフ開始だ
鏡の中には柔らかな印象の美少女が映っていた……
「猪野 沙織……」
その桜色の唇に思わず手を伸ばす、指先でそっと触れてみる。
ぷっくりした感触、指先に薄くリップが付着する。
女装男子になってからの出来事が思い出される、
僅かな期間だったかも知れないが、非常に濃い日々だった……
俺の中で百八十度、考えが変わってしまう位、カルチャーショックを
与えてくれたんだ、ちっぽけな自分、枠にはまった日常、
代わり映えのしない毎日、全て沙織ちゃんが壊してくれたんだ、
鏡に向かって問いかけてみる、
「ねえ、沙織ちゃん、俺は頑張れたのかな?
誰かの役に立ってるんだろうか……
男に戻る事が間違ってないかどうか、教えて欲しい」
俺は馬鹿げたことだと分かっていた、
沙織ちゃんに問いかけている自分が……
だけど、自分の中で沙織ちゃんの存在が
どんどん膨らんでいる事に俺は気付いてしまった。
「沙織ちゃん、しばしのお別れだね、本当にありがとう……」
鏡の中で、彼女が微笑んでくれた気がしたのは
俺の幻想だったのだろうか?
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