十話 食性

 しばらくして男の子が公営図書館に入った。

 わたしもたまに行く図書館だ。数分の間を置き、わたしも入館する。


 この図書館はあまり広くはない。市の中心街にあるし、施設内に喫茶店や民族資料館を併設してあるからだ。

 少し歩くだけで館内を見て回れるけど、しかし、何故かあの男の子が見当たらない。

 念のため喫茶店や資料館も覗いてみる。やっぱりどこにも居なかった。お手洗いにでも入ったのだろうか。

 図書スペースに戻る。適当に参考書コーナーなどを眺めて時間をつぶす。男の子がここに入ったのは間違いないので、ときおり館内中を調べ回ったりもした。


 そんな中、わたしはある本に目移りしてしまう。

 フランシスコ・ゴヤの画集だった。なんとなく、わたしはこの人を知っていた。たしか美術の教科書にも数作品載っていたはず。教科書の説明に戦争の悲惨さだったり、人間のうちにある野蛮性を表現する画家と書かれていた。

 画集のページをめくっていき、はたと手を止める。

 それはわたしがこれまで見てきたどの西洋絵画より衝撃を受けた絵だった。目を逸らしたくなるほどの戦慄とおぞましさを知った作品。

 描かれているのは老年を思わせる長身の怪物。怪物は人を喰らっていた。それも幼児ようにいたいけな小さな身体を。幼児の頭部はすでに怪物に喰いちぎられており、生々しい色をした血液が喰われた箇所から流れていた。

 わたしが一番苦手なのは、この怪物の光を感じられない目だった。渇望し、何かに怯えているようで、なのに諦めを知らない執念深い目。死に際の老人が惨めたらしく生にしがみついているように見える。

 醜い、と直情的に思った。手が汗ばみ、自然と眉根にしわが寄る。しかしわたしは本を閉じなかった。

 愕然としていた。わたしは今、この絵を通してわたし自身を見ていたのだ。自分と重ねていた。現在のことはもちろん、強制的に過去のことまで想起させられる。

 途端に吐き気がおそってくる。しかし、わたしの胃は逆流を許さなかった。身体が覚えている。あのときの味も、あのとき感じた恍惚も、涙を流しながら覚えた感動さえも。


 本を取り落とす。硬質のハードカバーが図書館の床とぶつかり、乾いた音が館内に響く。わたしは後ずさり背後の本棚にぶつかった。周りから向けられる好奇な視線もやがて希薄になっていく。

 どうして今になって思い出してしまうのだろう。思考が倒錯する。どうして今まで忘れたままでいられたのか。

 やだ、わたし、こんなはずじゃなかったのに。

 これは劣等感じゃない。わたしはもともと醜いやつだった。わたしが最も嫌悪すべき存在は、わたし自身だった。

 床に落下したゴヤの画集は、なおもあのページが開かれたままだった。怪物の真っ黒な双眸がわたしを捉える。悲鳴を上げそうになるのを必死でこらえる。


 そのとき、ある手が画集へと伸びた。その手は丁寧にほこりを払うと、事も無げに本を拾いあげる。

 わたしは少しずつ視線を上方へと向けていく。

 そこに立っていた少年を見た瞬間、わずかばかりだけど、身体の中の毒気が中和された気がした。

「サトゥルヌスの絵。そんなに恐かった?」

 彼は瞳を細める。あの男の子だ、とすぐに思い出す。パーカーのポケットに手を入れ、ナイフを抜き出そうとしたが、骨を抜かれたように上手く力が出せない。

「この絵をおぞましいと思うのは、いたって普通の感覚だね。本来人肉食とはおぞましい行為でなければいけないから。だけど僕は、食人行為をひと括りにして差別したくはない」

 男の子が一歩あゆみ寄る。わたしは背中を本棚にはばまれ、それ以上後退できない。

 彼が画集を差し出した。わたしは立ちすくんだまま、ためらいながらもそれを受け取る。恐る恐る画集の表紙を見つめるわたしに、男の子は柔和な笑みを向けた。

「たとえそれがどんなに非人道的な行為だって、僕らの理解にすら及ばなくたって、その中に人間性を垣間見ることが出来たなら、僕はそれで満足だ」

 わたしは唾を飲み込み、彼を見上げた。

「……わたしに、何か用ですか」

「別に。ただのナンパ」

 意味の分からない返答をされ、わたしは言葉を失った。これがナンパって、いったいどういう口説き文句だろう。

「実は僕、ロリコンなんだ。どうかな、その辺でお茶でも」




 男の子は吉村浩介と名乗った。わたしもその場で簡単に自己紹介をすると、そのまま流されるように彼に連れられた。

 吉村さんは迷いのない足取りで施設内の喫茶店に入っていく。そのお店は半分ケーキ屋さんのような品ぞろえになっていた。

「好きなものを頼みなよ」

 ほんとうは遠慮したかったけど、わたしは断れなかった。お腹が空いていたし、気のせいか、強制をあおるような雰囲気が吉村さんにまとわりついていた。

「このバッグ、気になる?」

 窓際の四人用テーブルに着くと、吉村さんがいきなりそう言った。右手にあのクーラーバッグを持ち上げる。

 わたしは、無意識のうちにバッグへと視線を向けていたのだろうか。いや、そんなはずはない。むしろ努めてバッグから注意を逸らそうとしていた。

「べつだん、気にしていません」

 わたしは試されているのだ。咲子さんがわたしを犯人と疑い、このバッグを奪ったように。吉村さんもわたしの揚げ足を取ろうと目を光らせている。


「ところで、この近所で殺人事件があったことは知っているかな」

 吉村さんがバッグを膝の上に置いた。わたしは落ち着いた口調で答える。

「全国ネットでも大きく取り上げられていましたね。特にこの町では、知らない人の方が珍しいと思います」

 奈緒ちゃんは天才ピアニストとして、一時全国的に話題となった著名人だ。こんな田舎町で起きた事件だとはいえ、奈緒ちゃんが被害者ならば話は違う。

「両腕がまだ見つかっていないらしい」

「みたいですね」

 吉村さんはにこりと微笑むと、窓の外に目をやった。

「僕ね、こういう話題にはすぐ飛びついちゃうんだ。趣味が悪いってよく言われるけど」


 そう言うと彼は黙し、窓際の人通りの流れを観察するように視線を止めた。わたしはその横顔を眺める。

 作り気のない端正な顔立ち。柔和に細められた瞳は咲子さんとは対称的で、万人に好印象を与えそう。いい加減に切り詰めたような髪型なのに、それでも爽やかに見えてしまうのはどうしてだろう。これが草食系ってやつなのかな。


 ときに、と彼の薄い唇が開く。

「小夜ちゃんは、人間の『しょくせい』って信じる?」

「しょくせい?」

 聞き慣れない単語に首を傾げる。しょくせい。まっさきに変換出来そうな漢字でいえば、『食性』だろうか。

「君がいま想像している通り、食べるに性と書いて食性。草食性だとか、肉食性とかっていうあれ」

 会話の意図がつかめない。わたしは慎重に言葉を選ぶ。

「それなら、人間はみんな雑食性だと思いますけど」

「大別してしまうとそうだけど、僕はそうは思わない」

 変なことを語る人だな、と思ったが、わたしは大人しく聞くことにした。

「人間は、もとを辿れば穀菜食動物だったという話がある。たとえば、ガンやその他生活習慣病への主な原因が消化に深く関係していることは有名だよね。極端な話、消化さえスムーズにいけば病気にはかからない。穀菜食は全般的にこの消化プロセスを円滑にしてくれるんだ。ほら、ダイエットにも最適だし」

「ダイエット……」

 ちょっと気にしていることなので思わず反復してしまった。吉村さんは笑いながら、小夜ちゃんにはダイエットなんて縁のない話だろうけど、とお世辞を挟む。どこまでが本音か分からない。

「言ってしまえばさ、病気になりたくないなら、最初から肉なんか食べなければいいんだと思う」

 乱暴な考え方だ、とわたしは思った。しかし、こちらが口を挟む隙もなく彼は続ける。

「そもそも、人は穀物や野菜だけでも充分生きていけるはずなんだよ。身体のほとんどがアミノ酸で出来てるって言われるくらいだし、突き詰めれば、穀物だけでも生きていけそうだよね」

「お肉からしか得られない栄養もあるんじゃないですか? たとえば……」

 ちゃんと言い返せない。こういう常識をくつがえすような話なんか、今までしたことない。

「強いて挙げればたんぱく質か。でも、大豆にだってたんぱく質は多く含まれてるよ」

「吉村さんは、人がみんな穀菜食主義になればいいって、そう言いたいんですか?」

 吉村さんはゆるい動作で首を振る。

「人は穀菜食で生きられる生物なんだって話をしただけで、なにも僕は、みんなに穀菜主義を勧めたいわけじゃない。皆が皆そうなら、とてもつまらないと思う」


 やがてアイスティーが二つ運ばれてくる。店員さんが、チーズトーストはもう少々お待ちください、と告げた。

 わたしは渇いた口内を潤すように一口すすった。吉村さんは手をつけず、優しげな目つきでわたしを見つめるばかりだった。

 恥ずかしくなってわたしは視線を落とす。そうだ、わたし今、ナンパされてるんだっけ。彼には咲子さんがいるし、名目上だってことは分かってるけど、でも、なんだか緊張する。


「人間は単純じゃないし、何に対しても面白みを求めるから。食べなくていいものをわざわざ好んで食べる。生きる術ですら、娯楽へと昇華できるんだ」

「結局、なにが言いたいんですか……」

 そう問い返しつつも、わたしにはだんだん、吉村さんの主張が読めてきていた。

「人が雑食性になったのは、人間が自ら望んで多様の食性を生み出した結果だと思わない?」

 わたしは押し黙り、吉村さんの言葉を促す。

「さっきの絵。食人もまた、人の望んだ食性の一つだと僕は思う」


 ゴヤの絵が脳裏によみがえる。瞼を閉じると怪物の目を思い出してしまいそうで、わたしは目が乾くのを我慢してアイスティーを凝視した。

「ただの肉食性とは違う、ってことですか」

「近いと言えば近いけど、でも、根本が違うからね。どの食性とも違う。とくに食人の場合は」

 何故、食人が禁忌とされるのか。頭で考えなくても本能で分かる。だからわたしはあの絵に嫌悪感を覚えた。


「子孫繁栄に対する冒涜なんだ。人が人を喰らい、同種族を減らしていくという行為そのものが。だからみんなあの絵に生理的な不快感を抱く」

 否定したい。さっき、吉村さん自身の口から「人間は単純じゃない」という言葉が出た。いくら本能だからとはいえ、そんな原始的な倫理に縛られるのだって安易だ。わたしだって子孫繁栄の冒涜だなんて大それた理由で奈緒ちゃんを食べようとしたわけじゃない。


「草食性でも、肉食性でも、雑食性でもない。人肉食だなんて、それこそ鬼のような食性じゃないか」


 違う。やっぱりわたし、鬼なんかじゃない。邸宅の中で獰猛な息をまき散らし続ける野蛮な鬼なんかと、一緒にしてほしくない。

 わたしは反論したくなる気持ちを堪えるように、膝の上で両手を握った。

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