六話 鬼
クーラーバッグを肩から降ろし、チャックを開け、ビニール紐を取り出す。奈緒ちゃんの肩と腕の付け根にしっかりと巻きつけた。出来るだけ血が飛び散らないための配慮だけど、素人のわたしがこんなことをしても大して意味はないのかもしれない。しかし、やらないよりはマシだと思い、もう片方の腕にも同じように強く紐を巻いた。
バッグから雨ガッパを出す。おぼつかない手つきながら、なんとかわたしの腕は通った。前ボタンを全て止める。やっぱりブカブカだけど、なんとか作業は出来そう。
樫の木板と捌き包丁をバッグから出した。
もうゴム手袋を着けることすらもどかしくって、わたしは素手のまま作業を始めることにした。奈緒ちゃんの左手を持ち上げ、その下に木板を敷く。上腕の肘あたりを中心に置けるよう、速やかに板の位置を調整した。
わたしは手探りに捌き包丁を探した。しかし一向に包丁の感触が来ない。いよいよわたしは地面に目を落とす。よく見ればここの石畳はところどころ草が伸びきっていた。バッグから包丁を出したあと、わたしはそれを無意識のうちに雑草の中へと放り投げたらしかった。
鼓動がさらに高鳴る。わたしは死にもの狂いで包丁を探した。それは間もなくして見つかったが、わたしはそれでもかなり急いていた。捌き包丁を手に立ち上がり、奈緒ちゃんのもとへと歩み寄る。
そこで雨ガッパの裾に足をかけ、わたしは大きく転倒してしまった。その勢いで、奈緒ちゃんのお腹の上に頭から倒れ込む。それによって彼女の傷ついた内臓がさらに圧迫されたのか、奈緒ちゃんはかすかに痙攣し、少量ほど吐血した。
わたしは体育座りになって雨ガッパの裾を確認する。足を引っかけた分だけ少し破れていた。でも、足もとがちょっと破れたくらいじゃ問題ないだろう。
半立ちになり、捌き包丁を両手で握った。頭上で思い切り振りあげ、奈緒ちゃんの上腕へと狙いを定めて叩き落とす。鈍い音が響き手がじんと痺れた。腕を縛ってもやっぱり血の飛沫は上がり、数滴ほど雨ガッパに染み付く。
刃の落ちた場所は狙い通り肘の間接あたりだったが、半分ほど食い込んだだけで止まってしまった。一発で切断できるものと思っていたのに、予想以上に骨が固い。
一度刃を引き抜こうとしたが腕がぶらりと付いてきて、なかなか離れない。焦りで無茶苦茶に包丁の柄を動かしたが、それでも抜けなかった。
額の汗を前髪ごと拭う。手の甲がべったりと濡れた。深呼吸を二回して、刺さったままの上腕を木板に乗せなおす。
もう一回だけ、深呼吸。
包丁の柄を握ったまま、刃の背中を思いっきり踏みつけた。だん、という断絶音がして、肘から先の部分が奈緒ちゃんから独立する。
深い息吹をし、わたしは冷静に奈緒ちゃんの左腕を拾い上げる。クーラーバッグに入れて、いくつかのドライアイスの小袋で丁寧に腕を包み囲んだ。
こつこつと積み上げるように、わたしの思考が冷めていく。秋の乾いた空気が頬の産毛をなでる。捌き包丁は、先端から木板に突き立ったまま。
作業を中断し、廃墟邸宅の門へと目を向けた。
門の鉄格子に両手をかけ、こちらをしげしげと覗き見るものが居た。あの卑しい鬼だった。黒く大きな図体を揺らし、獣のような息を吐きながら、鬼は物欲しげに奈緒ちゃんを見下ろしていた。わたしはそいつの、ぎらぎらと光る赤い眼をにらみつける。
「なにか用?」
鬼は何も言わない。赤い眼でこちらを見つめ返している。口の端からだらだらと涎が滴る。
それを見下すように、わたしは口元に笑みをたたえる。可哀想な鬼。鬼というだけで迫害される惨めな存在。やられるだけやられて、見返りと呼べるものは何ひとつないんだもんね。そりゃ、飢えるよね。でもわたしは違う。そう思うと、高揚にも似た優越感に包まれた。
「一生、そこで指をくわえて見てなよ」
わたしは嘲笑混じりに言つけた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます