向日葵

「人は理屈では動かない。感情で動く。」



何処かの本でこんな言葉を目にしたことがある。



例えば何らかの不祥事が露見したとき。


普段あれだけ偉そうにふんぞり返って世間のことを説いていたジーサンが、その不変的事実から逃げ隠れするように行方を眩ます、なんてことがある。


その時、無邪気な我々は、主にSNSと呼ばれる半公共施設と言っても良いようなその場所で、言葉の投石をするのだ。

まるでひたすらに孤独と、その罪の大きさを自覚させるかのように。



また例えば、そんな大仰な話に限ったことではない。

友情においてもそれは言える。

そいつと過ごしてて何か不都合が生じたとき、それまでの過程がどんなに素晴らしいものであっても、あっさりと関係が壊れたりする。



そもそも他人に期待する方が間違っているのだ。

安易に他人を信用するから、小さなことで痛い目を見る。



そしてそれはもちろん、人の死を前にしても然り、と言える。

むしろ、この事象こそこういった事態を引き起こす。



そもそも人間はそうやって出来ていて、この世界はそうやって静かなる戦争を常に戦っていくのだ。

俺達はその生き残りに過ぎない。










奇跡なんて、起こらない。









「お待たせしました、ソルティードッグでございます。」


しっとりとジャズの響くお洒落なバー。

深夜だからか俺以外に客がおらず、控えめな照明の店内はなんだか寂しげだった。


そんな中でマスターから徐に差し出されたそれを、どこか虚ろな心持ちで啜る。味気がしない。

むわりと鼻につくアルコールの不快な香りと、喉がひりひりと軽く焼ける感覚があるだけで、いつも好んで頼んでいたカクテルのはずなのに今日だけは、全く別物の得体の知れない薬液のようだった。





姉が死んだ。

人が死ぬ、という大きな波はこんなにも唐突にやって来て自分を襲い、しかしその波はあっさりと自分を通り抜けてしまうことを知って、ぽかんと拍子抜けしてしまった。

だからこそ上手く、その事を飲み込めない自分がいた。


生まれつき体が弱く、毎日を病室で過ごしていた姉だったが、死因は決して病気などではない。

人工呼吸器が外れていたのだ。

そして外れたそれは、姉の手にあった。

それを見た人々が次に考えうることは、故意に外したんだ、ということ。

姉の死因は、患った病に対する絶望からの紛れもない自殺として片付けられた。



また、人工呼吸器が外れたことで病室のアラームが作動したが、その時は深夜で、当直の看護師の対応の遅れが招いた事態から、この一件は医療事故としても問題視されている。


連日、姉の死がまるで病院側が引き起こしたかのように報道され、年寄りの顔も知らない医師らしき男の人がフラッシュの中で頭を下げていた。

そして自分のスマホからSNSを開いてみれば、そこは火の海と化していた。


あくまで姉と縁があるという意味での当事者としては、名前も素性も知らない人達に我が家の事情についてあれやこれやと論じられるのは、それがどんなに正しくてまっとうな内容であっても、何だか土足で勝手に家に這い上がられてるような気分がして気持ちの良いものではなかった。



はあ、と一つ嘆息する。

薬液のようなカクテルをちびちびと飲む。

量はけして多くは無いのだが、どこか精神がやられていることもあってか、飲み切るにはかなり時間がかかりそうだった。

灰皿には孤独な一匹の芋虫のような、前の客のものであろう吸殻がぽつんと落ちていた。




カラン、とドアノブに掛けられたベルが鳴った。


「いらっしゃいませ」


もう一人客が来たようだ。

そしてその気配はゆっくりと俺に近づき、静かに隣のスツールへと腰を掛けた。


「よお」


俺は目を見開く。

隣に座ったそいつは、田島という大学からの友人だった。

元気があっても普段から目の下に隈があり、疲れ切ってるような目付きをした年齢プラス5歳くらいの顔をしている奴だ。

就職してからはお互い離れ離れになってしばらく会っていなかったから俺は驚いた。


「元気にしてたか、お前」

「あぁ…ぼちぼちだよ」

「嘘つけ、死にそうな顔してる。まあ…、無理もないけどな」

田島に、ふ、と悲しげな笑みが溢れる。

恐らく、これだけ世間が大々的にドンチャン騒ぎしてるものだから何があったのかくらいは知っているんだろう。


「大丈夫なのかよ」

「まあ、大方その後の手続きとかは親がしてくれたし、うちの状況自体は落ち着いてるよ」

「そうじゃなくて、お前がだよ」

「俺?」

田島はその隈のある目元を微かに細めて俺を心配そうに見ていた。


「俺は…まあ…うん、あの人はどうせ、長くなかったと思うし。いつかはやって来ることだったんだよ。…だから、大丈夫だよ」


そう、だから、仕方がないことなのだ。


姉は一言で言えば、何に対しても悲観的な人であった。

実をいえば姉と弟である俺は、血が繋がっていない。

姉は養子として、我が家に連れられてきた。

姉の実の親は、金銭的理由から、姉を手放した。

先天性の病気の治療費のこと、その他もろもろ養育費のことが積み重なって面倒を見きれないと判断し、そうせざるを得なかったのだそうだ。

そういった確固たる理由があったとしても、実の親から手放されたという事実は姉の中に深く根付いており、少なくとも…姉の心のどこかでは、自分は親に捨てられた子供、という意識があったようだ。

だから時たま、姉はこんなことをこぼした。


「誰が何と言おうとも、誰よりも私は、私のことが嫌いなの」


姉はよく、自己否定をした。

自分を否定すると、自分が正しいと思えてくるのだそうだ。

一見すると全く矛盾している、相反するその考えが俺には微塵も理解出来ないながらも、姉の境遇を考えるとその言葉に、なんだか無性に同情できるような気がした。






「…そうか。マスター、俺にはウーロン茶を貰えるか」

田島は俺の言葉に納得したような、していないような、どちらともとれる表情をしていた。

「畏まりました」

マスターは手際よくボトルを取り出してウーロン茶をグラスに注ぎ、田島の前に置いた。

「乾杯、て気分でも無いだろうけど」

ソルティードッグの入った俺のグラスに、カチン、と小気味良い音を鳴らしてこちらに傾いた田島のグラスがぶつかる。


それから俺達は出された飲み物を、お互いに黙りこくって少しずつ飲んでいた。

数年ぶりにこうして会ってみると、逆に久しぶり過ぎて何から話せば良いか分からなかった。


思えば大学時代、何かにつけてこのバーに田島と飲みに来ていた気がする。

最後に来たのは…確か、大学を卒業する直前の頃だったか。


「これから俺らは離れるけど、何か困ったら言えよ」

田島は優しくそう言ってくれたけど、自分の仕事の忙しさと、だったら田島自身はもっと多忙だろうという根拠のない俺の勝手な推測から、なんとなく連絡するタイミングを失っていたのだ。




ソルティードッグがあと1/4くらいになったところで、ようやく口火を切ったのは田島の方だった。

「ずっと心配してたんだぞ」

「…すまん、忙しいだろうと思って」

「忙しくても話くらいは聞いてやれたのに」

「悪い…。どうしても…出来なかった」

「なんでだよ」

「なんでって……」



その時ふと、目があった田島の…大学時代のそれとは違う、力のこもった俺を射抜くような目付きを見て、

俺はなんとなく…いや、確信を持って、田島という身の上の人物が、ここに来た理由が分かった気がした。


分かって、そして何故だか、ほっとした。











「………今、お前、しんどいだろ」

「………。」

「泣いてるよ、お前は」





そう言った田島の唇が微かに震えているのが見えた。

そして一息付いて、田島はまた、昔とは違ったその強い目で再び話す。


「俺はお前の友達だ。それはこれからもずっと変わらない。だけどそれ以前に俺達はもう大人だ。俺達は…もう…、情だけではやりきれないところまで来てしまったんだ………この意味が、分かるか?」



分かっているに決まっていた。




「現実からけして逃げてはいけない。対象が誰であろうと、提示された事実に準ずる。それが俺の仕事なんだ。」



田島は来ていたジャケットのポケットから黒い手帳を取り出す。それをぱかりと開いて中身の印刷された顔写真と紋章を俺に向けた。





「近藤、お前に殺人の容疑が掛かっている。署まで同行してもらう。」




俺はグラスに僅かに残ったソルティードッグを見つめていた。


「念のため、人工呼吸器に付いていた指紋を調べたんだ。そのときに、明らかにお前の姉とは異なった比較的新しい指紋が検出された。周囲の監視カメラを病院外に至るまで調べさせてもらった。その後は…恐らく、お前の想像してる通りだよ」




観念して、俺はそっと目を閉じた。




「お前の姉が望んでいたとしても、それはやってはいけないことだったんだ」






田島は長年の友人なだけあって、俺のことを、それから姉のことを、大体どんな奴か知っていた。



自分を否定したがる姉は、極度の死にたがりでもあった。

でも、生まれてからこの方ずっとそういう奴だった訳じゃなくて、ある一つの大きなきっかけがあった。


以前、まともに外出すら出来ない姉に、恋人がいた。

同じ病で入院している、姉と歳がそう対して変わらない男だった。

姉はその男の存在が、まるで自分が今、生きている理由の大部分を占めているかのように、それほどに大切にしていた。


自己否定したがる姉も、その男の前でだけは、希望に満ちた恋をしている女の顔をしていた。

一緒に本を読んだり、病院内を歩いたり、色んなことを話したりするのが心底楽しそうだった。


だが、その男は、割りと―いや、かなり、姉より患っていた病気が進行していた。


ある時からぱったりと二人で会っているところを目にすることがなくなり、しばらくしてから、姉はぼうっと腑抜けのように、窓の外を眺めていることが多くなった。

そしてそれからは、こんなことをよく口走った。





「みんな、嘘つきなんだ」


「私が本当に死にたくなったときは、あなたが殺してね」




冗談とも本気とも取れるトーンで、俺に何度もそう言った。



そんな悲劇にまみれてしまった姉を見て、

俺は―――少なくとも同情はしつつも、また、どうしてか、安心していた。



姉はそんなメンヘラみたいな奴だったが、それでも俺に色んなことを教えてくれた。

人生の内で、病院の季節感の欠片も無い景色しか見たことが無いはずなのに、姉はまるでこの世の全てを見透かしてるような…特別な視点を持っているかのような人だった。人々に審判を下す神様のような。


「人を信用してはいけない。きっと後悔するから。人と出会ったときはまず疑ってかかるの。いい?」


そういうことを話す姉は、なんだかこの世の全てに対して諦念を抱いているかのようで、でも全部分かってるぞって言う一種の意地のようにも思えた。



そんな姉を俺はどこかで、病院という箱に閉じ込められた健気な宝石の一つのように思っていた。



今思えば姉は間違っていた。

いや、その言葉自体はあながち間違ってはいなかったと思うが、話す相手を姉は間違えた。


姉は俺を疑うことをしなかった。

姉は多分、想像以上に俺が汚い奴だと言うことを知らなかったのだ。






その日は、雨が降っていた。

深夜にようやく仕事を終えた俺は、一人で姉の見舞いに行った。

姉の誕生日だった。

だから、俺は姉が好きだった小さな向日葵を一つ、昼休みにあらかじめ買っておいたそれを持っていった。

どうしてもその日じゅうに会いたかったので、こっそりと俺は病院に忍び込んだ。



病室に着いたとき、姉は眠っていた。

それもそうか、と俺は思ったが、ふと、姉が何かを力強く握り締めていることに気づいた。


なんとなく気になった俺は、その手を開かしてみた。

見た目に反してあっさりと解けたその小さく柔らかな手のひらの中央に、それはあった。思わず、俺は持っていた向日葵をぼとりと落とした。






指輪だった。あたかも姉を象ったような、小さな宝石を付けた綺麗な、高そうな指輪だった。










それを見た瞬間、俺は衝動的に思った。

あぁ―――――きっと報われない、と。






報われない。報われないんだ。一生。どんなに足掻いたって無理なんだ。




それは姉に対してでもあったし、俺自身に対してでもあった。







絶望したその次に、突拍子もないことを思った。

どうせ報われないなら、俺の中に、俺という箱の中に、この人を閉じ込めてしまおう。




気づいたときには、姉の口許に繋がれたそれを俺は手にしていた。

姉はそんなことを知る由もなくすぅすぅと眠っていた。


それからのことは言うまでもない。






限り無く利己的で、心底呆れるような、幼稚な理由だった。

俺は、そういう奴なのだ。こんなにも薄汚れて穢れていた俺に気付かず最後まで信用していた、気の毒な、姉だ。




でも、それをした俺の中には、何も残らなかった。

あったのは姉が死んだという事実と、いずれこれからやって来るであろう予感と、何処かに縋り付きたいような、逃げてしまいたいような、どうしようもない感情だった。


そんな自分に俺は愕然として、呆気に取られていた。







気づいたときには、俺の頬には涙が一つ伝っていた。




「だけど……、ごめんな近藤」






ふと、田島を見て俺は思った。



そうか、と納得して俺は思った。





今この瞬間、俺は全てを失ったはずなのに、俺は何故だかほっとしていた。ぴんと伸ばして張りつめていた羽根をようやくそっと降ろして閉じられるかのように安堵していた。

全てを失って全てを諦めたから?



違う。



全て、失ったはずなのに、それでもそこに存在するものがあったからだ。


これから、この世界を少なくとも揺るがす程の十字架を背負わされる俺を、そのことを知りながら、それでも強固に力強く存在するものが。






逃げてきた俺がここに来たのは、ある意味では―――――必然だったのだ。







「俺はお前を、見捨てられない」





漠然と、これから起ころうとしている出来事を想像しながら、また今までのことを振り返りながら、そして何の罪もなく死んでいった姉のことを想いながら、静かに泣いた。

田島は、静かに俺の啜り泣く声を聞いていた。


俺を捕まえてくれるのがこいつで良かった、と思った。

不思議と、逃げたい気持ちは起きなかった。

泣いている途中、カウンターの縁に差してあった黄色く小さな花がこちらを向いていることに気づいた。


最後に喉に流し込んだ僅かなソルティードッグは…ほんの少しだけ甘くて、辛くて、ほろ苦かった。







田島は金を二人分カウンターに置いてスツールから降り、俺の目を見据えた。

こちらを見返す射抜くような目付きの中に、卒業前の、あの時と変わらない優しさがあることに気づいた。



少しだけ晴れやかな気持ちで、俺もスツールから降りて言った。







「…ありがとう、田島」





田島は泣いていた。











ぐずぐずの、バカみたいな奇跡だなって、俺は思った。

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