ユメノイドの庭
フヒト
1.ここではない(あるいはここと同じように)狂った場所で。
東京の真ん中に、大きな涸れ井戸がある。
本当に過去、水の出る井戸だったか知っているわけではない。
ただ、膝丈ほどの高さの円形のコンクリートの縁に周りを囲まれた、深いふかい、おそらくは底に一滴の水もないだろう垂直な縦坑が、以前本で読んで知っていたものそっくりに見えるから、勝手に井戸と呼んでいるだけだ。
ひょっとしたら坑道とか地下貯水抗とかいう呼び方の方がふさわしいのかもしれないが、坑道や貯水抗についての私の知識は、井戸についてよりももっと貧弱なものだから、やはりそれを「涸れ井戸」というべきほかはない。
井戸はおそらく新宿と中野、豊島区の三区が接するあたりにあると思うが、詳細な位置の説明は難しい。
井戸へ辿りつくには、目白通りがほかの通りと交わるあたりから、さほど遠くない住宅地を走る細い、名前のない通りから折れ、もっと狭い裏露地へと入っていかねばならない。また露地の入り口は、密集し建ち並ぶ民家どうしの狭間に埋もれるようにしてあって、道幅は狭く一メートルにも満たない。一見するとどこかの家の勝手口へつづく通用路のようにも見える。
露地を入った先も、奇妙なことになっている。
一面に、羊歯様の雑草の茂った正方形の空き地だ。明りはほとんど差していない。
原因は、周囲にそそり立つ「壁」にある。土地の前後左右、四方がことごとく、黒々とした黴に一面被われた高さ十数メートルもあろうかという「壁」によって隙間なく塞がれてしまっている。
つまり箱のような空間だ。
一辺が十五メートルほどの、天井だけが開かれた四角い箱。侵入者は底に立っている。空はずっと上に、やはり四角く切り取られてある。
空一面では、群れる特別な理由でもあるのだろうか、真っ黒い塗料の飛沫を散らせたような夥しい数の鴉たちがぎゃあぎゃあと啼き、羽ばたいている。
目眩を感じ、ようやく目線を下に移し空き地の表面を見れば、その中央にこんもりと盛り上がったなにかがあるのに気づくだろう。
コンクリートでできた、膝くらいの高さの構造物だ。ちょうどそれを隠すように表面に蔦らしい蔓状の植物が絡まり合っている。
これが「井戸」だ。
高さ三十センチ、厚さ二十センチ、直径が八メートルほどの灰色の輪、円形の縁が、四角い土地の中央の地面から突き出ている。見回してみても、誰かの所有であるとか、どこの役所の管轄の施設であるとか、危険・注意であるなどの表示は一切ない。
ただ、四方を壁に囲まれた土地があり、真ん中に大きな円い穴、井戸のようなものがあるだけだ。
侵入者がもう一度蔦まみれの淵に手をつきおそるおそる奥を覗き込んでみれば、コンクリート壁の灰褐色も、内側にまで茂る蔦の葉の色も形も、いくらも下方にいかないうちに漆黒の闇に溶けわからなくなってしまう。
試みに石を取り、底へ落としてみると、数秒もたった後にやっと固い乾いた音が返ってくる。濃い闇の色に我を失い、黴臭い坑の奥に見入っているうち、このまま自分が奥底へと吸い込まれてしまうように思われてきて、侵入者は縁を掴んだ両手にいよいよ力を込めてしまうことだろう。
この先は、おそらく私だけが知っていることだ。
井戸は、彼らが棲む場所だ。
街のそこここに息を殺し立ち続ける彼ら。
奇怪な涸れ井戸も、長い露地も、灰色の合羽のようなものを頭から足下まですっぽりと被った彼らが、東京の地下奥底にひそかにつくった蟻塚の入り口なのだ。
医者は言う。
「そんな灰色ずくめの人などというものは、私は知りません。それはあなたの心がつくり出した、錯覚なのではないですか?」
違う。嘘だ。灰色合羽は実在する。
医者たちはみな偽者だ。奴らがわざとらしい笑みを浮かべつつする説明は、私をこの部屋から外に出さないためのもっともらしく仕立てられた嘘なのだ。
あの人は違う。
わかっていた。
あの人だけは、すべてわかってくれていた。
だがもう会えない。
会うことはできないのだ。
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