第八章

第八章

水穂に全く口をきいてもらえなくなってしまいながらも、杉三はいつも通りにご飯を作って、買い物に行って、掃除もして、まったく変わらない生活を続けていた。水穂の看病はトラーとチボーが率先してやっていて、何かあると二人で手取り足取り、布団を変えたり着替えをさせたり、薬を出したりしていた。トラーたちはこれでいいのだと言っていたが、マークはいいのかなあと、首をひねっていた。

その日、久しぶりに雪がやんでいいお天気になったので、杉三はマークと一緒に公園に散歩に出かけた。トラーは水穂のこと見てるから、と、家に残った。

「お、こないだより雪が減ったのかな。木に乗ってるのがなくなったような気がする。」

と、杉三が言ったが、実は公園の管理者が、昨日除雪しただけのことなのであった。雪はまだまだ続くよ、とマークは訂正しようとしたが、それはやめておいた。

また公園の遊歩道を歩いて、例のカフェにやってきた。

「ううー、寒いなあ。いくら晴れていても、寒くてしょうがないな。ちょっと一杯やっていくか。」

と、杉三がマークに言った。なんだそれ、酒を飲みにいくみたいな言い方だねえ、とマークも笑いながら店に入った。

「やっほ。」

と言って、店に入ると、また例のお髭を蓄えたご主人が、

「お、また来てくれたね。今日もやってるよ、カラオケ大会。ぜひ、一曲聞かせて頂戴よ。」

と、言いながら杉三を店の中に入れた。お客さんたちも、杉ちゃんがやってきたのに、気が付いたらしく、

「おお、杉ちゃん。また歌ってよ。いい声を聞かしてくれよ。」

「今日は何を歌うのかな。日本の伝統歌とかそういうのかなあ?」

と、杉三に絡みついて、すぐにみんなの中に入れた。もちろんマークがおじさんたちの言葉を通訳してくれたので、杉三には通じた。

「よし、じゃあ、今日はちょっとしっとりした、重みのある歌を歌おうな。えーと例えば。」

杉三は少し考えて、マスターからマイクを受け取って、

「Piacer d’amor piu che un di sol non dura,

martir d’amor tutta la vita dura.」

と、歌い始めた。周りのおじさんもおばさんも、嬉しそうに手をたたく。

「Tutto scordai per lei, per Silvia infida,

ell or scorda e ad altro amor s’affida.

Piacer d’amor piu che un di sol non dura,

martir d’amor tutta la vita dura.」

「ずいぶん切ない歌だねえ。」

おばさんがマークに言った。これはマルティーニというが作曲した歌曲であるが、内容を言ってみれば、シルビアという自分に付きまとっていた女が別の男に恋愛対象を移したため、一応、うるさい女はいなくなってくれたのでうれしいなという内容なのだが、実は、そうでもなかったということも歌われている。次の歌詞でそれがわかる。

「Finche tranquillo scorrera il ruscel

la verso il mar che cinge la pianura io t’amero.

mi disse l’infadare.

Scorre il rio ancor ma cangio in lei l’amor.」

Fincheからt’ameroまではシルビアのセリフがそのまま引用されている。つまり訳すと、静かに小川が流れて、彼方平原を望む海にそそぐ限り、私はあなたを愛するでしょう、という意味である。それを、主人公は真に受けてしまっていたらしい。次の歌詞で小川は今も流れているが、彼女の中の鯉は終わった。と、歌う。つまり、いくらうるさい女であったとしても、一応はその女性に対して、愛情はあったんだろうなと思われる。

そして、最後にまたこの歌詞で終わる。

「Piacer d’amor piu che un di sol non dura,

martir d’amor tutta la vita dura.」

つまり訳すと、愛の喜びは一日しか持たないが、愛の苦しみは一生続くのだ!と歌うのである。

「杉ちゃん、歌はうまいが、どうもこの内容は切ないよ。杉ちゃん、もうちょっと楽しい曲というものはないのかい。これじゃあ、ちょっと悲しすぎるからさあ、もっと明るいのを歌って。」

「あの、幸せは、歩いてこないってのが一番いいよ。辛いことがあったとき、俺、あの歌思い出して口ずさんだりしているんだよ。」

詰め寄ってくるおじさんたちを、通訳するマークさんのほうが苦労してしまったくらいだった。

「よし、任しとけ。歌は歌えるが、ちょっと僕のお願い、聞いてくれないだろうか。お願いしたいことがあるんだよ。」

おじさんたちを目の前にして、杉三はそういった。マークが通訳したため、おじさんやおばさんたちには通じた。話を聞いて店のマスターまでもが、杉ちゃんのお願いを聞こうとやってくる。

「実はなあ。どうしても食わしてやりたい奴がいる。ここではお米何てめったに手に入らないんだろうが、そのお米と、カレー粉と、ニンジンと、玉ねぎ、ジャガイモが欲しい!」

マークの通訳を介し、おお、いいよ、杉ちゃん、お米とカレー粉なら少しあるから分けてやるよ。なんていいながら、マスターがカレー粉の缶を一缶と、お米をビニール袋に入れてもってきてくれた。野菜類は、家がすぐ近所だというおばさんたちが、一度家に戻って紙袋に野菜をたっぷり入れて、持ってきてくれた。一体何を作るのかい、シチューでも作るのか?何てマスターに聞かれて、杉三が、おう、カレーライスだ、と答えると、あれ、カレーはパンをつけて食べるのでは?とみな驚く。杉三が日本ではご飯にカレーをぶっかけて食べるのだ、と聞かせると、皆そんな食べ方は初めて聞いたぞ、なんて大笑いした。つまり、こちらではご飯というものはあまり重要ではないってことか。何て杉三はため息をつくが、おじさんたちはあまりそこは気にかけず、歌って歌ってと催促する。よし、それでは、と杉三はえへんと咳払いして、

「幸せは、歩いてこない、だから歩いていくんだね。

一日一歩、三日で三歩、三歩進んで二歩下がる。

人生は、1、2、パンチ、汗かきべそかき歩こうよ。

あなたのつけた足跡は、きれいな花が咲くでしょう。

胸を張って足をあげて1、2、1、2。

休まないで歩け。」

と歌唱すると、おじさんもおばさんも、手拍子して大騒ぎとなった。この歌がどうしてこんなに面白いのかなあと思ったけれど、フランスの流行歌というのは、恋愛歌ばっかりだから、こういう応援歌という物はなかなかないんだよ。なんて、マークが説明すると、日本人は一生懸命すぎだからな、と杉三はでかい声で笑った。おじさんたちが、何回もアンコールをせがんで、結局杉三は、10回以上、この歌を歌唱することになった。

数時間後。大量の食糧をもらって、マークと杉三は家に帰った。帰ってすぐに、ちょっとお勝手を貸してくれるかと言って、杉三は、一心不乱に野菜を切り始める。一体何を作っているんだろうとトラーもチボーも不思議な顔をして眺めるが、杉三は、返答しなかった。

「幸せは、歩いてこない、だから歩いていくんだね。」

でかい声で歌いながら、鍋の中身をぐるぐるかき回す杉三は、なんだか自身のために、この歌詞を歌っているように見えた。

「よーしできた!」

隣の鍋を開けると、ご飯も炊けたようである。ご飯をさらに盛り付けて、鍋の中身をだらっとご飯の上にかけた。

「一体何を作ったの?」

トラーが思わず聞くと、

「カレーライス。こっちにはルーが売っていないのでカレー粉を大量にもらってつくらせてもらった。生クリーム入れて、比較的辛さはマイルド。」

鼻歌を歌って、そう答える杉三。

「よし、食わせよう。水穂さんは一体どうしてる?」

「寝てるわよ。布団変えてやっと眠ってくれたんだから、あんまり起こさないでやってよ。」

トラーがとりあえずそう答えると、

「そうか。つまりまたやったのね。」

杉三はぶっきらぼうにいう。

「はい。ずっとせき込んで大変だったんですから、いまは起こさないほうがいいのでは?」

「いや、そうならないように、くってもらわなきゃいかんぞ。」

チボーを無視して、部屋へ行ってしまう杉三なのであった。

「おい、起きろ。カレーを作ったぞ。いくら何でもこれだけは食べるだろ。ほら、食べろ。」

と、杉三はカレーをベッド横のテーブルの上に置く。

水穂は、あたまを杉三の反対方向に向けたまま寝ていた。

「このままだと、割りばしみたいに痩せて、動けなくなっちゃうぞ。」

それでも無視したままであった。

「こら、いい加減にしろよ。いつまでも意地張ってると、体のほうが参ってしまうぞ。ほらあ、起きて、おーきーて!」

ちょっと語勢を強くしてそういうと、

「杉ちゃん、あんまりおっきい声でがなり立てるのはよしてくださいよ。今やっと寝てくれたんですから、また起こすのはかわいそうです。ご飯はもうちょっと後にしてくれませんかね。」

そう言って、水穂を擁護するチボー。あーあ、僕は一体どうしたらいいのかと、杉三も頭をかじりながら、ため息をついた。


翌日。また杉三はマークと公園に散歩に行った。またカフェの近くを通りかかると、お髭を生やした例のマスターが、

「どうだった?昨日のカレーというもんはうまくできた?」

と聞いてきた。マークの通訳を通して、質問内容を理解した杉三は、

「いや、ダメだった。食べるどころか無視されちゃったよ。このまま食べないでいたら、ほとんど木の枝みたいになって、動けなくなっちゃう。そうしないように、食べてもらいたいのだが、其れさえも、通じなくなるような気がしてしまった。」

と、正直に答える。

「そうか。その人が一番好きなものって何かな?」

と、聞かれて、杉三はまた少し考えて、

「納豆。」

と、答えを出した。

「へえ、納豆だって?丁度うちの店で提供していた料理があったな。ちょっと待っててな。」

と言って、店の中へ戻ってしまうマスター。マークがそこで待っているようにと言っていると説明すると、一体何だと杉三は首を傾げる。

「これこれ。最近の健康食品が流行っているので、うちでも納豆を使って作ってみたのさ。これで何とか食べてくれないかな。」

と言ってマスターがラップで包んだ皿を持ってきた。

「なんですか?これ。」

「い、いやあ、納豆とペンネをあえて作ってみたんだが、、、。どうかな?」

マークの通訳を通じて、杉ちゃんには通じた。

「ようし、ありがとう!早速食わしてやろう!」

にこやかにお皿を受け取って、杉三は家に戻っていった。礼をするのもすぐに忘れて、帰ってしまうというのはある意味では無礼な行動ともいえるのだが、いえいえ、ああして喜んでくれるのが一番だ、と、カフェのマスターはにこやかに言った。

でも、帰りの道中、杉三は自分が直接だしても受け取ってもらえないだろうな、と思いなおして、ある一計を思いつく。

その日の夕方。

「水穂、ご飯よ。」

トラーが部屋のドアを開けた。と、同時にチボーがバイオリンをもって、

「一曲弾いてみましょうかね。えーと曲は、ご飯が食べられるように、ノリの良いものがいいですかね。それとも、しっとりした落ち着いたものがいいのかなあ。」

と言いながら、G線上のアリアを弾き始めた。G線上のアリアは、ゆっくりしていたためか、何となく気持ちが落ち着いた。

「ほら、食べて。」

音楽を聞きながら、いい気持になっていたところを、トラーはそっとパスタを差し出した。水穂もやっと食べる気になってくれたのか、パスタを口にしてくれた。

「よし、今だ。どんどん食べてもらわなきゃ。」

トラーは水穂にパスタを口に入れることを繰り返し、水穂も食べることに専念してくれた。これでやっと、納豆パスタは空っぽになった。

よし、とりあえず作戦は成功し、チボーとトラーはやっと胸をなでおろす。次の日も、杉三がカフェのマスターから食べ物をもらってきて、チボーのバイオリンを聞きながら、トラーが食べさせるという形態が続いた。時には、カフェで知り合ったおばさんたちが、二、三人で押しかけてきたこともあった。おばさんたちは、ちょっとしたアンサンブルを組んでいて、フランスの民謡などを歌って聞かせてくれた。さすがに、木の枝みたいに痩せてしまっていた水穂をみて、おばさんたちはみな、びっくりしていた。


そして、その夜のことである。

杉三がいつも通りに、一日のことをみなし終えて、寝室に戻ってきたときのことであった。いつもなら、咳き込んで落ち着かなかったのが、今日は全く聞こえてこないので、

「おい、どうしたんだよ。」

と、からかい半分に効く。

「何が。」

やっと口をきいてくれたか、と涙が出そうな杉三であったが、

「いや、今日は咳き込まないなあと思って。」

と、わざとぶっきらぼうに言ったのであった。

「杉ちゃん。」

「何?」

「ほんとにごめん。悪いことしちゃった。」

目をつぶったまま、水穂は静かに言った。

「本当は、杉ちゃんが仕組んだんだなって大体読めたから。あれ、仕向けたの杉ちゃんでしょ。ほら、僕がご飯を食べるときに、バイオリン聞かせるようにとか、時におばさんたちが歌いに来たりするけど。」

「なんだ。読めてたのか。僕も力が抜けちゃったよ。読まれちゃったら。」

思わず素っ頓狂に答える杉三。

「もう、どうしようかと思ってさ、バカなりに頭をひねって、一生懸命一計を思いついたのさ。もうさ、お前さんのことだめにしちゃったら、僕まで責任取らなくちゃいけなくなるからな。」

「本当だよ。杉ちゃんでなきゃ、思いつかないでしょ。あんな一計。たぶん納豆はマスターに作ってもらって、音楽してくれって、チボーさんに頼んで。」

「ああそうかい。すべてお見通しだったかい。だったらおかしな態度をとるのはやめてもらいたいなあ。」

「ごめん、すぐムキになる。」

「へん。」

そういって、杉三も水穂も笑いあった。

「だからほんとにごめんね。僕、誤解して。」

「もういいよ。あんまり頭の中にためておかないようにしよう。まあ、とにかく、これ以上決別しないでよかったよ。あーあ、疲れたなあ。もうかったるいわあ。」

水穂が再度謝罪すると、杉三も頭をかじりながら、でっかいため息をついた。水穂は、ここで初めて目を開ける。

丁度、またカーテンを閉め忘れていたため、外の様子がはっきり見えていた。

「杉ちゃん。」

「何?」

「外、月が出てる。」

そういわれて杉三も外を見た。確かに大きな三日月が建物の屋根の上から見えている。

「あ、ほんとだ。こないだは満月だったが、もう三日月になったか。」

「どこへ行っても、お月さんというものは出るんだね。」

「うちのお山の上にではなく、パリの電波塔の上に出たか。日本の蘭たちも、こうしてお月さん眺めているんだろうか。」

二人は、そういいあって顔を見合わせた。

「まあ、これで仲直りできたし、ゆっくり寝ような。」

「そうだね。」

水穂はやっとほっとしたのか、小さくため息をつく。

「だがな、ひとつだけ訂正させてもらえないだろうかな。」

不意に杉三がそんなことを言った。

「何?」

「今回の一計を発案したのは僕だが、少なくともな、マークさんも、とらちゃんもせんぽ君も、お前さんに生きてほしいから僕の一計に参加してくれたんだぞ。だからな、少なくともお前さんは不用品ではないからな。そこは間違えないでくれよ。」

「何を言ってるの、杉ちゃん。何処へ行ったって、不用品のように扱われるのがおちだよ。」

水穂は杉三の発言を真っ向から否定したが、

「おいおい、勘違いするな。それは日本にいればだろ、ちっともわかっていない。日本にいると、どうしても変な先入観で邪魔されちゃうだろうからよ。こういうところに来た方が、かえってわかるというもんだろうがよ。」

杉三は、にこやかに言った。

「だから、僕を含めて、とらちゃんやせんぽ君がお前さんを日本へ返したくないのはな、そこの先入観を取っ払って、本当に心を込めて看病してくれるってのを、体験してほしいという意味もあるんだよ。どうせ帰ったら、部落民に対して、本当に心から心配してくれる人なんて一人もおらんという、先入観に凝り固まっちゃうだろうし、きっと、そうしなきゃやっていけないだろうからな。だから、そういうのは一切抜きで、俺たちはお前さんのことをこれだけ心配しているんだぜっていうのを、わかってもらいたいんじゃないのかな。僕も、できれば、そっちの方がいいな。もし、日本に居たら、たとえよくなるきっかけをつかめたとしても、お前さんはその先入観のせいで、全部拒否してしまうような、気がするんだよ。」

「杉ちゃんありがとう。でも、やっぱり元号が変わるのは見届けたかったな。」

「まあなあ。歴史が変わるっていうか、記念碑的な瞬間だからな。それは確かに、一生に一度あるかないかの頻度かもしれないな。王朝が変わるっていう事だから、まあ見届けたいという気持ちもわからないわけじゃないよ。そこらへんは割と西洋人はわかる人が多いと思うけど、部落問題のことを口にしたら、絶対に帰るなの一点張りになると思うよ。特に、禿げ頭の先生なんかは、本当に反対すると思う。だからな、そこを何とか説得しなければならんと思うが、あいにく僕みたいなバカには、ちょっと文書が思いつかんな。まあ、ちょっとガチンコバトルが生じると思うが、頑張ってくれ。」

「ありがとうね。もしかしたら負けそうだけど、頑張ってみるよ。」

「ま、何も飾らず、ありのままをいうのが一番だと思うな。さ、もう寝よう。起きてると、体力消耗するだけだから。」

「そうだね。杉ちゃんと話せてよかった。お休み。」

そういって、水穂はほっと溜息をつき、静かに目を閉じた。

空の上には月が出ていたし、星も輝いている。もちろん、日本で見られる星座とはまた違うんだろうが、あれはきっと、日本のお山の上にも顔を出してくれるんだろうなと思われた。地球は平らではないのだし、常にぐるぐると回っているのだから。

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