第243話 謀略のクロノス

「今回は随分ずいぶんとお早いお帰りですな。流石に明日あすから遠征となりますと、そうも出来ませんでしたかのぉ?」



 広めのソファーでくつろぐその男性。


 彼は背後から近づく人物にそう声を掛けると、陶器で出来たカップを静かに口へと運んだ。


 既に初老と言っても差し支えないだろう。


 少しウェーブの掛かった頭髪はロマンスグレーに輝き、目尻には彼のこれまでの人生を物語るいくつもの深いしわが刻み込まれている。


 ただそのしわ自体、もともと柔和にゅうわな顔立ちを引き立てる、アクセントの様な役割を担っていると言えなくもない。



「ふぅぅ……」



 部屋中に広がる甘いミルクの香り。


 カップに満たされているのは、温められたヤギのミルクらしい。


 この世界でも、家畜のミルク自体は比較的ポピュラーな飲み物と言える。しかし、大人がたしなむ、と言うよりは、朝食や子供向けの印象が強いのではないだろうか。


 ただ、一部滋養強壮の薬として処方される事もあり、兵士達の間では意外と好まれた飲み物であるとも言える。


 

「何を言うんだクロノス。私がを気にするとでも?」



 華美かびな装飾が施されたドアを勢いよく閉めると、その男は不満げにクロノスの前に置かれたソファーへと腰を下ろした。


 ここは、マロネイア家の敷地内に併設されている兵営。


 その中でも将官以上が使用する執務エリアの一室。


 これら将官用の宿舎は、その広さや豪華さにおいて、士官や下士官、一般兵卒用の兵舎とは、一線を画する豪奢ごうしゃな造りとなっていた。


 ちなみに、兵士達の兵舎は集合住宅インスラタイプの長屋で、八名で一室。


 およそ二百名が一棟に暮らしている。


 この一室はおよそ六畳ほどで、四隅に二段ベッドが設置されており、私物を置く隙間すきまわずかにあるだけ。


 各部屋には四畳ほどの荷物置き場があるにはあるが、ここには各自の兵装や武具などで既に一杯である。


 そう言う意味では、各部屋はあくまでも寝る為のスペースであり、日常、訓練が無い場合は、共用スペースとなる食堂にたむろしているのが普通であった。


 それに引き換え、下士官となる十人隊長デクリオや副官ですら、一人部屋や二人部屋があてがわれている他、百人隊長ケントゥリオともなれば、同じ兵舎内とは言え、個室以外にも広い応接室の使用が許可されていたのである。



「だいたい、どうしてあんな所でテオドラに会うのか? って話だ。彼女だって、今は遠征前の準備で忙しいはずだろ? にも関わらず、奴隷商の屋敷から出たとたんバッタリさ。折角次の店にだって予約を入れてあったのに、私の綿密な計画がすべて台無しパーだ」



 彼は頬杖ほおづえを付きながら、ドア近くにいる少年兵を呼び寄せる。



「私にホットワインを」



「はっ、閣下。ただ今、ホットワインを、お持ちします」



 少年兵は命令を復唱すると、早足にその部屋を後にする。



 ――パタン



 入口のドアが完全に閉じられた事を確認すると、その男はいきなりテーブルの上へと、身を乗り出して来た。



「クロノス、聞いてくれ。ついに始まるぞ。マロネイア様がご決断された。しかも、しかもだ。リヴィディアへの救援派兵については、この俺が先鋒をたまわった。もう少し準備に時間が欲しい所ではあるが……どうだ? クロノス、やれるか?」



 少年兵より閣下と呼ばれたその男は、少し興奮気味にまくし立て始めた。


 そんな無邪気な彼の様子を、相も変わらぬ温和な微笑ほほえみで見つめるクロノス。



「戦に万全の準備など望むべきもございませんが……アエティオス閣下がお望みとあらば、いつ何時なんどきでも」



「うむ。それでこそ俺のクロノスだ。それではブリーフィングをするぞ。急ぎを集めてくれ」



 先程までの不満げな様子も何処へやら。


 はやる気持ちを抑えきれないのであろう。


 彼は突然立ち上がると、何やらブツブツと独り言をつぶやきながらソファーの周りを歩き始めたではないか。



「はっはっは、閣下であれば、必ずやそう申されると思っておりました。既に彼らは隣の会議室の方へ集合しておりますれば」



 クロノスは陶器のカップをテーブルに戻すと、自らがアエティオスを案内する様に、入り口とは別のドアの方へと歩いて行く。


 将官クラスの執務室には、専用の会議室が併設されている他、仮眠を取る為の私室まで用意されているのである。


 通常佐官以上であれば、エレトリアの市街地に自身の邸宅を持っていてもおかしくはないのだが、アエティオスの場合は独身と言う事もあり、この宿舎の私室の方で寝泊まりしている事が多い。


 え? 邸宅も無いのに、以外はどこで寝泊まりしてるのかって?


 それはご想像にお任せする。



「おぉ、流石だなクロノス。よし早速ブリーフィングを始め……」



 と言った所で、ふと足が止まるアエティオス。



「と言う事は何か? 俺が早く帰って来る事を、クロノスお前は予想していた……と言う事か?」



 いぶかし気な眼差まなざしで、クロノスをにらみ付けるアエティオス。



「さぁ、どうしてでございましょうなぁ。まぁ、そんな事はお気になさらず。さて、ブリーフィングを始めましょうか。お歴々れきれきもお待ちでございますよ。はっはっはっは」



 亀のこうより年のこう


 アエティオスの追求などどこ吹く風。クロノスはいそいそと会議室の方へ入って行ってしまった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る