第十二章 ヴァンナの思惑(ルーカス/ミランダルート)
第116話 朝の身支度
「ねぇ、お姉ちゃん! 急いでよぉ?」
妾専用館二階の出窓。朝早くから騒々しくも姦しい声が響きわたる。
エレトリアは春も終わり、窓から吹き込む爽やかな風には、既に初夏の香りが含まれている様だ。
「はい、はい。急いでますよぉだ!」
「あぁぁ、もう、動かないのっ! せっかく綺麗に髪をとかしてるんだからぁ」
姉は、妹を小さな鏡台の前に座らせて、後ろから少々くせのある妹の髪を整えている。
この世界、鏡は非常に貴重な高級品である。小さな青銅製の手鏡ですら、庶民の手にはなかなか届かない。ましてや、鏡台の様な調度品の高価さは、推して知るべしである。それ一つとっても、この姉妹が大切に扱われている事の証拠と言えるだろう。
「は・や・く! は・や・く!」
妹は、ちょっと大きめのストールに腰かけて、両足をパタパタとバタつかせながらその準備が整うのを待っている。しかし、結構なくせっ毛の上に、寝ぐせまでついた髪をとかすのは、至難の業だ。
「もう、ルーカス帰っちゃったらどうするのぉ」
そんな悪戦苦闘中の姉の様子を見て、ちょっぴり頬を膨らませるミランダ。しかし、妹の髪を整える事に集中している姉は、そんな妹からのクレームを気にも留めない。
「大丈夫だよ。
姉は、綺麗に整った妹の髪をもう一度“ギュッ”と押さえてから、そぉっとその手を放してみる。しかし、我儘な放題な髪を持つ妹の頭からは、『アホ毛』がぴょこんとお出ましに。
「……ふぅぅ」
姉は、呆れた表情でため息を一つ。
そして、もう一度やり直しとなった妹の髪を、少し濡らしたヘアーブラシでとかしはじめた。
「でも、また捕まっちゃったら大変じゃん」
そんな姉の様子を知ってか知らずか、ミランダはこれから会う男の子の心配ばかり。
「はいはい。そうですねぇ」
なんだか釈然としない姉は、妹の髪をとかす腕に、どうしても力が入ろうと言うものだろう。
「んもぅ、お姉ちゃん、痛いぃ!」
姉に髪の毛をしこたま引っ張り上げられ、しかめっ面のミランダ。結局は『アホ毛』はあきらめて、全体的にふんわりした髪の形で何とかまとめ上げてもらった様だ。
「はい、はい。……はいっ! おしまいっ! ミランダ、もういいよ」
「ありがと! お姉ちゃん!」
ミランダは、ちょっと大きめのストールから急いで飛び降りると、姉の前で絹で出来たストラの端を摘まんで一回転。
「ねぇ、お姉ちゃん! おかしな所無い?」
「うん。大丈夫だよ」
食事は朝と晩の二回。いつも奴隷仲間だった誰かが、部屋まで食事を運んできてくれるのだ。内容は特別豪華と言う訳では無いのだけれど、十分な量の食事が食べられる。
しかも衣類などは、すべてクローゼットの中にいつも用意されていて、必要に応じて他の奴隷娘達が交換してくれるのだ。
そしてそのまま、日がな一日やる事も無く、二階の出窓から大きく広がる庭園を眺めているだけの生活。
最初の頃は、なんて素晴らしい事なんだろうと、姉と二人で喜んではいたものの、だんだんと暇になり、更には、魔獣が暴れた爪痕の残る庭園も、昨日までの修復工事で、殆ど元通りに復元されてしまってからは、代わり映えのしない庭園を眺める事すら苦痛に感じる様になっていた。
他の奴隷娘達はみな、家政婦長のイリニに連れられて、朝から館の中で甲斐甲斐しく働いている様なのだが、二入にはその様な作業は割り振られない。
しかも、イリニ家政婦長は、自分たちを『様』付けで呼ぶ様になったのだ。
ただ、同じく『様』付けで呼ばれる人がもう一人だけいる。それは、二人の事をいつも気にかけてくれていたヴァンナだ。
二人は一度だけヴァンナの部屋に招待された事があるのだが、そこは、今二人が暮らしている部屋の五倍以上の広さがあり、中央に設えられた応接間では、輝くばかりの宝石が散りばめられたシャンデリアが二人を出迎えてくれた。
そのあまりの豪華さに、二人は一瞬
ヴァンナは、そこで四人のメイドに傅かれ、お姫様の様な衣装を着て暮らしていたのだ。
後からヴァンナに聞いたところによると、あの日、ヴァンナもかなり大きな怪我を負ったらしい。しかし、アゲロスとイリニの好意により、アゲロス専任の魔導士によって治療を受けたそうだ。
二人もヴァンナが怪我をしたと言う彼女の腕を見せてもらったのだが、どこにも傷跡一つ残っておらず、改めて魔道の術の凄さを実感したものだ。
結局ヴァンナはアゲロスに気に入られ、新しい館が用意できるまでの間、この妾専用館の一番大きな部屋で暮らす事になったと言う訳だ。
「それじゃぁ、ちょっと行ってくるぅ」
ミランダは満面の笑みでお姉ちゃんにご挨拶。姉の方も、妹がこんなに嬉しそうにはしゃぐ姿を見て、ちょっと“ほっこり”とした気分に。
「はい、行ってらっしゃい!」
姉はそう言うと、妹の背中をポン!
妹は、弾ける様に、出窓の方へと駆け出して行ったかと思うと、窓の前で“くるり”と半回転。姉の方へと向き直った。
そして両手を『ぐー』にした形で、自分の胸の前に揃えると、そのままの態勢で、窓の外へ、お尻から“ぴょーん”と飛び出して行った。
「あっ、あぁぁぁぁ……って、窓から行くのね……ここ二階なのに……」
姉のそんな心配を他所に、ミランダは出窓の外の手すりに器用にぶら下がると、壁のレンガ伝いに、するすると庭園の方へと降りて行ってしまった。
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