9月16日(水) 広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーで今村昌平監督の「楢山節考」を観る。
広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーで今村昌平監督の「楢山節考」を観る。
1983年(昭和58年) 東映、今村プロダクション 130分 カラー 35mm
監督・脚本:今村昌平
原作:深沢七郎
撮影:栃沢正夫
照明:岩木保夫
音楽:池辺晋一郎
録音:紅谷愃一
編集:岡安肇
美術:芳野尹孝
出演:緒形拳、坂本スミ子、左とん平、あき竹城、倍賞美津子。清川虹子、辰巳柳太郎、倉崎青児、嶋守薫、あき竹城、高田順子
この映画も演劇も広島市内での「楢山節考」は延期となり、どちらも事が和らいで戻ってくることになった。
市民劇場の予習と位置づけていたこの映画作品は、おそらく事前学習としての意味は多くあるにしても、表現としての風土はまったく別になるだろう。それほど演出に対するこだわりは強く、太く、荒く、潔く表れている。
本当にこの地方に住む人々がこのように在ったかと、やや疑ってしまうほど伝説らしい隔絶が描かれている。山奥の閉鎖された地域性は、ただちに思い出したのがテンギズ・アブラゼ監督の「祈り」で、ジョージアの山奥も生きることに適応したその土地特有の陋習があった。それはミヘイル・カラトジシュヴィリ監督の「スヴァネティの塩」にも描かれていたが、およそ都会の人間には想像もできない忌むべき事がまかり通っている。コーカサスの山なら赤子を生んだばかりの女性が汚らわしいと隔離されたり、信州の山なら水子を平気で隣の田に捨てたり、命を生むことが必ずしも種の存続にならず、余分な生命はむしろ家族を滅ぼしかねない元凶として、忌むべき発生と見なされている。
蛇、蛙、鼠、鳥、狸など、山に生きる昆虫を抜かした生物のカットが幾度も挟まれ、どのように演出したかと不思議になってもおかしくないほど野生動物と人間の共生して画面に収まるショットも多く、命が生きることを主題にしているのは嫌でも目に映ってしまう。人間も山に生きる動物として荒々しい野生を保持した村の姿は、“もがき”という言葉がよく似合い、生まれた瞬間から死との闘争が開始される生命は、存在の保持の為に狡猾な合理性を持って、頭ではなく本能で種の存続をはかろうとするらしく、同種であっても群の凝縮の一形態である村の決まりを脅かすことがあるならば、社会主義国家に見受けられる粛清が厳然と行われる。コミュニティを守る為の法を犯したならば、当然異分子は消さなければならない。それは厳しい環境に生きる為の自然の習わしなのは、人間でも鼠でも、都会でもおそらく同じことなのだろう。
季節の巡るこの物語の撮影は大変だっただろうと、内容そのものが制作班を脅かしていたようにさえ思える。簡単に奴隷を生け贄にしていた中米の古代文化をイメージできる人々の姿は、演技にしてはあまりに苛烈で獣じみている。姥捨山の物語だと知ってはいたものの、それがどのように描かれるかを考えていなかったので、このような生命の小さな坩堝によって老人を山に捨てる行為が如何なものかと映す表現は、理屈を持って理解を与える。
奥山を舞台にした自然の美しさと厳しさは道理として、野獣に近い人々を演じた俳優陣への過酷な要求はたやすく想像できる。おそらくそれは間違いで、さらに想像を絶する苦労はあっただろうが、生優しさなど一切存在しないこの映画世界は、だからこそ存在の結びつきが入れ替わり、すげなく進展していくこの世の無常が痛切に描かれている。
文句なしにどぎつくすばらしい作品だろう。街に慣れた自分にしては、あまりにも叙事性を感じる壁画のように深遠な映画だった。
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