10月13日(日) 大阪市北区中之島にある国立国際美術館で「コレクション特集展示 ジャコメッティとⅡ」を観る。

大阪市北区中之島にある国立国際美術館で「コレクション特集展示 ジャコメッティとⅡ」を観る。


腹一杯のほろ酔いで頭に血が回らないわけではなく、充足と浮遊の中で元気にコレクション展示室に入る。黄色いストラップを首に回した撮影許可証もようやく意味をなす。


トニー・クラッグの「分泌物」から始まる。膨大な数のサイコロで形成されたティースプーンの頭部を持つオブジェは、一体何が分泌物なのだろうか。膨らみとへこみで成っているこれは、少し観ていると赤児でも抱いている優しい姿にも見えてくる。これを横から見ると、見事なほど顔面が凹んでいる。


壁には創作過程の写真が何十枚と展示されていて、その先にジャコメッティの「ヤナイハラⅠ」が展示されている。若かりし頃の伊藤雄之助さんが仮に優男を演じたらこうなるのだろうか……、などとあてはまらないことを考えたくなる顔の長い彫像で、あの役者さんのような怪奇な表情などなく、茫然自失しているようでもあり、何かに心を奪われて立ちすくんでいるようでもある。何にしろ、心が人物の中にとどまっておらず、意思が外界のどこかにあるような感じが見受けられる。


今村源さんの「2006-6 ダイブ」は上部の細い回転する線が動感を強く引き出していて、ジャコメッティの作品ほどざらついていない白い人物の細い体が一直線に落下するのは矢のようで、白いブラックホールに吸い込まれて異なる世界へ行く瞬間の瞬間的な神々しさもある。


シュテファン・バルケンホールの「赤いシャツとグレーのズボンの男」は英語圏の近所にいそうな平凡な男で、21世紀になる前の原始的なCGのゲームキャラクターにでもなりそうなポリゴンの質感で突っ立っている。


油彩、カンバスという絵画らしい画材で描かれた「ケーニッヒ夫妻の肖像」はゲオルク・バゼリッツで、持っているポンピドゥー・センターの画集で逆さになった黄色い絵が頭の片隅に残っており、同じ画家ということで一致した。逆さに描くことでどんな効果があるのか正直わからないが、灰色と黒の画面に血塗られたように赤がこびりつき、斜視ではなくもはや生存していないような離れた目つきの男性と、何の変哲もない顔の女性が描かれていて、結婚しようが独身でいようが地獄には変わりないという厭世的な言葉の一面を実証する夫婦の姿に見える。


マルレーネ・デュマスの「おじいさんと孫娘」は事件性を感じる薄気味悪さを、加藤泉さんの「無題」は嫌悪感を抱かせる原始的な雰囲気を、ジュリアン・オビーの「ファイルを持つヒロフミ」はドイツで会ったグアテマラから来たという日本人の若い男性を、森淳一さんの「doll.leaves」は瓢箪から羽が生えるのを、それぞれ感じ、鈴木友昌さんの「ジョセフ」は、膝を曲げて作品と対面する自分の姿にコンビニやクラブの外の世界が現出された。


そんな具合に作品を一つずつ観ていき、アラヤー・ラートチャムルーンスックの「ミレーの《落穂拾い》とタイの農民たち」というあまりに緩すぎるビデオインスタレーションを観て和んで笑い、30分近くあるテリーサ・ハバード/アレクサンダービルヒラーの「フローラ」というドキュメンタリー映像を観て閉館する。


いくつかの作品を見逃したのは心残りだが、わざわざ大阪に来ただけの目的は存分に果たした。漫画でもなんでもいいから一日中それに没頭していると、夜眠る前に映像として頭に浮かび上がるのは、脳に記憶が残っているというよりも、網膜がその光景を記憶して暗い瞼の裏に勝手に映し出してしまうのだろう。そんな印象が夜に戻ってきそうなほど、どっぷり体に染み込むような鑑賞の一日となった。

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