10月13日(日) 大阪市北区中之島にある国立国際美術館で「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」を観る。

大阪市北区中之島にある国立国際美術館で「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」を観る。


1:啓蒙主義時代のウィーン──近代社会への序章

 1-1、啓蒙主義時代のウィーン

 1-2、フリーメイソンの影響

 1-3、皇帝ヨーゼフ2世の改革


2:ビーダーマイアー時代のウィーン

 2-1、ビーダーマイアー時代のウィーン

 2-2、シューベルトの時代の都市生活

 2-3、ビーダーマイアー時代の絵画

 2-4、フェルディナント・ゲオルク・ヴァルトミュラー──自然を描く

 2-5、ルドルフ・フォン・アルト──ウィーンの都市景観画家


3:リンク通りとウィーン──新たな芸術パトロンの登場

 3-1、リンク通りとウィーン

 3-2、「画家のプリンス」ハンス・マカルと

 3-3、ウィーン万国博覧会(1873年)

 3-4、「ワルツの王」


4:1900年──世紀末ウィーン──近代都市ウィーンの誕生

 4-1、1900年──世紀末ウィーン

 4-2、オットー・ヴァーグナー──近代建築の先駆者

 4-3-1、グスタフ・クリムトの初期作品──寓意画

 4-3-2、ウィーン分離派の創設

 4-3-3、素描家グスタフ・クリムト

 4-3-4、ウィーン分離派の画家たち

 4-3-5、ウィーン分離派のグラフィック

 4-4、エミーリエ・フレーゲとグスタフ・クリムト

 4-5-1、ウィーン工房の応用芸術

 4-5-2、ウィーン工房のグラフィック

 4-6-1、エゴン・シーレ──ユーゲントシュティールの先へ

 4-6-2、表現主義──新世代のスタイル

 4-6-3、芸術批評と革新


雲は多いが雨は止み、スマホのない自分は台風関連のニュースを知らず、大阪の朝は台風一過の静けさがあった。5分前に美術館へ到着すると並ぶ人は30人くらいしかおらず、豊田の10分の1ほどだ。難なくチケットを購入して、いつも通り鉛筆を借りて写真撮影はできるか訊ねると、コレクション展示は許可証があればすべて可能というので借りることにする。


作品リストを見るとA4用紙7枚分の作品が載っていて、これは結構時間がかかると踏んで、開館直後のモナリザを求めて走るように前半の展示を観る人の横を過ぎて出口へ向かった。この日初めての来館者を迎えるような学芸員さんの礼を過ぎていくと、思惑通り誰もおらず、この特別展一番の目玉で唯一写真可能なクリムトの「エミーリエ・フレーゲの肖像」が壁に立っている。これはさすがだ。人の邪魔が入らない贅沢な空間で写真だけを撮り、この旅行の一番の目的となるシーレの作品を求めてさらに先へと足早に進んだ。


出口の一つ前の部屋にシーレの作品が並んでいて、豊田で観た時よりも数は多いが、あの時ほどの感動は起こらなかった。前日の美術館の観賞に加えて、朝起きてここに来るまでに3時間は経過しているのもあり、目と感受性が濁っているのを感じた。それでも誰もいない中でシーレの作品を順に観ていく。


まずあったのが手を鋏のように開いた「自画像」で、これは死人のように痩せて皺のある血の気のない顔に黒い服があり、その横にルービックキューブのような多彩な何かが描かれている。絵の具は厚塗りでぎらついた光彩を放っているが、このマーブルチョコを想起させる質感はシーレ独特の輝きだろう。右上部の背景に枯れた枝と葉があり、多くの自然風景に宿っている寂寞とした木枯らしが精神に吹いているのを感じさせる特徴があった。他の油彩画でも見られたが、黒い衣服の厚塗りに細く白いかすれがあり、それが毛細血管のような流動性と不気味な脈動を感じられる。縦長の「ひまわり」は上部が照明で反射していて斜めからでないと見にくいが、下部のガーベラのような花の紫、オレンジ、赤、緑などのどぎつい泡の補色が魔物のような毒々しさを持っていて、蠱惑的な土台に細くぎすぎすしたひまわりが立っている。おそらく人物としての寓意性を備えていて、うつむき加減の表情のない黒い顔面はどんな表情をしているのか答えはないが透けて見えるようで、首元の花弁が温もりのある黄色に塗られていて、痛ましさだけでない孤独な立ち姿が存在している。ゴッホの部屋のオマージュであろう「ノイレングバッハの画家の部屋」も厚塗りで空間を閉じ込めたような質感を感じ、「イーダ・レスラーの肖像」は高慢に上向いた顔に尖った顎と鼻が目立って冷酷に見えるも、何も考えておらずに呆然としているようにも見えて、黒の帽子と襟巻き、黄土の髪の毛、赤いリボンが優れてエレガントにあり、少し覗けるニシキヘビのような原色の混在がエキゾチックな豊かさを添付している。「美術批評家アルトゥール・レスラーの肖像」は大きい作品で、まるで母親に抱かれて安らかに眠っている表情をしていながら、両手は指を開き、自分自身の存在を抱いているように腕は交差されている。淡く穏やかな色調ながらシーレの油彩作品らしいカオスに蠢く生態としてのオーラを放っていて、特に静まった上半身よりも下半身から逞しいエネルギーを感じる。内に動感は潜んでいるも、全体として穏やかな静けさに佇んだ作品だ。


油彩画の次の壁には素描があり、あとあと入り口に戻ってから多くの作品を観て、再びシーレの作品を見た時にその特別を気づくのだが、形態を切り抜く正解を持った描線がある。「模様のある布をまとい背を向けた裸体」はグワッシュが使われていて、唯一無二の個性が全面に現れている。柔らかい輪郭線の中で、薄い灰色の肌は霊的な肉感を持ち、点々とする赤みがかった色が水死体に色気を与えるようだ。頭部の黒髪に原色の布がまとわりつく。体はやせ細っているも尻に最低限の肉厚が残り、人によっては不気味で仕方ない作品だろうが、道徳を犯すようなエロティクな味わいがある。女性のように描かれた繊細な描線の「自画像」や、柔らかい線が丸みの肉感を生んでいる「子どもを抱いた妊婦」もある中で、目立った存在感を持つのは晩年の作品である「画家ヨハネス・フィッシャー」だ。黒チョークの太い描線が人体模型図のように人物を切り取っていて、皮膚を剥いだ印象を受ける顔立ちの中で深刻な眼差しがとくに浮かんでいる。やや線が多く、顔はすっきりしないように見えるなかでこの目だけが異様に死と人生に閉じ込められている。


一人勝手に大騒ぎするほの感動まではいかず、前に差し出された書類を淡々とこなすような実務的な観賞だった。作品リストの多さにすでに食傷気味になっている自分がいて、出口近くにいるのもあるのだろう、もういいや、という気分も働いて感受性が鈍くなっていた。自分の中でのルールを守りがりな人間としては、全部観賞するという意欲を最初から挫いて自由に動くしかない巨大な西洋の美術館とは異なり、こういった順序からはみ出した作品巡りになるとどうでもよくなってしまう。そんな気分で出口にある作品を覗くと、マーラーがいた。ロダンの「作曲家グスタフ・マーラーの肖像」で、ブロンズではなく鉛で制作されているらしい。バルザックのような怪物とはならず、やや禿げ上がった涼し気なマーラーの頭部で、よく見る斜めの写真にある加藤茶さんに似た感じはなく、数学や物理を器用に教える小物の教授のような印象で、精力的で独善的な雰囲気はなくあまりにもすっきりとしていて、心中に何か抱えているからこそ笑わない達観した平凡さがあった。それでも美しいとも言える顔立ちの青年像であり、やはりマーラーと納得するだけの繊細な魂の頭部ではあった。この部屋を見回すと、音楽で馴染みのある作曲家に関する作品が展示されていて、すぐに目線を合わせるのは、作曲家で剥げた顔を唯一晒していると断定してしまう「作曲家アルノルト・シェーンベルクの肖像」で、リヒャルト・ゲルストルのこの絵はマティスらしい画風で赤の絨毯が敷かれ、コバルトがかった柔らかい緑の壁を背景に、野心ある青年実業家らしい作曲家が股を広げて座りじろりとこちらを見ている。それは偉大な作曲家らしい風情がなく、あまりの野心に部屋で落ち着かずにいて、新奇な着想をお前にも食らわせてやろうかというごろつきらしい脂を感じるもので、それだからこそ愛らしい作品となっている。その隣にはシェーンベルク自身が描いた「作曲家アルバン・ベルクの肖像」があり、数年前のラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンで観た技量を確かめることができた。マーラーよりもずっと活動家らしい顔は細密には描かれていないが、アンドレ・ブルトンのような顔つきからへそ曲がりのような印象を受ける。頭部に黒くて太い芋虫が垂れるように髪の毛が乗っかり、黒いネクタイの細身の体はダンディズムと気取りを持ったように足を組んで立ち、棚の上に肘をかけて無愛想な面をしている。同業の人間の親密さがあるからこそ、うまく描けているようで、シェーンベルクは絵の才能も持っていたのだと一面的に納得してしまう。その部屋にはシーレの作品でも特に好きな画家のマックス・オッペンハイマー自身の絵もあり、初めて観るその作風は、シーレに描かれた人物とまるで結びつかず、正直絵の中にいる本人の存在感のほうが生きて名声を得てしまうだろうと思ってしまった。その部屋から戻ろうとする時に、壁にあった小さい絵を見逃していたことに気づいて観ると、シェーンベルクの描いた「グスタフ・マーラーの葬儀」で、クリムトの描く自然の点描のような草と土との中で、棺を収めるぽっかり空いた縦長の穴を中心に色のぼやけてつながった人々が参列して故人を悼んでいる。墓のそばに木が一本立ち、枝葉は風に大きく揺れていて、この風景にマーラーの作品に潜む嵐と人生の大きさを観てしまう。シャガールのような幼稚ともとれる絵の中で、黒い身なりの亡霊のような人物が膝を曲げ、手を組み、顔を下げている姿がある。これが誰かはわからないが、偉大な作曲家へのお迎えのように思ってしまう。画家と題材との関係を考えさせられて、深い悲しみと厚い敬意に満ちた情感が伝わってくる。


人もぱらぱらやって来るようになったので、逆戻りをしてクリムトの主要作品を観てから入り口に立つことにした。先程写真に収めた作品の前に戻ると、シーレとは異なるもっと空気の薄い画風が浮かんでいた。厚塗りはなく、まるでイランを中心としたモスクに観るモザイク画のようで、遠くから眺めるとその装飾美に宇宙まで運ばれるが、近づいて観てみると完璧な色と形のタイルではなく、一つ一つに個性を持ったばらつきがあることに驚かされるように、夜の海月が神秘的に電気を光らせるように青い血管がドレスを走り、ひまわりが小さく花を咲かせて、銀河とコーヒー豆が腕と胸部を飾るなか、世俗的な言葉を使えば頬は桃色だが色の悪い顔が浮かんでいる。おぼろげな中の目覚ましい存在感こそがクリムトの特別さで、あまりに微細な質感に、幽霊の本物を多くの人がクリムトから学ぶだろう。間違いなく目玉にふさわしい王者の作品ではあるが、自分の好みは「パラス・アテネ」だ。金色が輝きを放つ鱗状の鎧と兜の女神は、絶対的な恐怖と死を極限の高さまで象徴している。皺がなくとも笑みを浮かべたような口元に人を虫けらのように見通す無慈悲な目は、呪い殺されそうな魔力を秘めていて、中南米やオセアニアの神にでも見えるプリミティブな胸当ての顔は、これが恐ろしい蛇頭のメデューサで、見たものを石化させる目はパラス・アテネに宿っているように思える。ただこのおぞましい質感をさらに魅力ある遠近に立てているのが背景で、ゴーギャンを想起させる深い色にギリシャとアジアの神々が混一されたようなプリミティブな横顔の人物が描かれていて、古代画のようだが古さはなく、命と血をものともしない荘厳さが伝わってくるようだ。


この特別展は名前通り、今現在の基礎を作ったそれほど昔ではないウィーンという街の形成から紹介されていて、オスマン知事の改造によってパリらしい街並みができたように、皇帝フランツ・ヨーゼフによって壮大な建築群の並ぶリンク通りへと街は変貌したことが紹介されている。特別展に入ってすぐに、西洋の王宮のような美術館にいくらでもありそうな巨大な「マリア・テレジア(額の装飾画:幼いヨーゼフ2世)」が来場者を迎えてくれる。あまり面白みがあるとは思えないこういう作品も、ここで観るとその威容がよくわかり、相貌身なりと同調する豪勢な額に教会建築のように細部を見過ごしていたことが頷ける。フリーメイソンの影響も紹介されていて、羊皮紙にトルコあたりで見かけそうな画風のモーツァルトがあり、コラージュに使われそうなどこかの国の紙幣に描かれたピラミッドと同じ基調にあるイルミナティらしい「ヨーゼフ2世のモニュメント」や、「究極の愚か者」という雪花石膏で作られた彫像もあり、ひょっとこのように顔を突き出し、脳の小さそうな額は皺が寄り、後頭部もあまり膨らまず、耳の小ささに貧相が表れたような興味深い頭部だった。


次第に対象は個人へと移り、ビーダーマイアーという、小市民、家具、生活精神などの多義的な意味を持つ言葉で表される時代に変わっていく。重要な歴史的事件であるウィーン会議の代表たちの並ぶ絵や、ウィーン革命によって作られたバリケードを題材とする絵もある。それから焦点はシューベルトを代表とした個人に向かい、簡素化されていく食器や家具の見られる室内画から、それと呼応する実際の製品が展示されている。装飾を廃した簡素なデザインではあるが、その曲線は優雅であり、素材も薄っぺらでない重厚な質感がどれもあって、近代デザインの萌芽を見てとれる。その中で音楽の教科書で見たことあると錯覚しそうな「作曲家フランツ・シューベルト」というヴィルヘルム・アウグスト・リーダーによる油彩画があり、下膨れた丸メガネの顔にカールのかかった髪の毛がのる、早世する前の希望と自信に満ち溢れる若い音楽家の姿が輝かしく描かれている。その隣には「フランツ・シューベルトの眼鏡」があり、自分のと比べるとフレームが2まわりほど小さかった。この部屋にはデイタイムドレスやボールドレスなどの当時の服飾も展示されていて、舞台衣装で見ることはあっても身近に見ることはなかなかないので、ウエストのあまりの細さや、生地の質感や細工の具合もよく観ることができる。


それからはやや退屈と思っていた作品が続くも、当時の時代の流れを考えると趣が変わってくる。凍えそうになりながら犬と一緒にプレッツェルを売る少年や、夫の悲報を知って落胆する女性、目の治療の中で赤児へ視線が向かう家族の風景など、個人の生活状態がフランドルの絵画のように生彩を持って描かれている。続いて、フェルディナント・ゲオルク・ヴァルトミュラーの寓意を持った人々の自然画や、ルドルフ・フォン・アルトの今と違って工事風景の入らないシュテファン大聖堂も観ることができる。


さらにリンク通りに関する展示があり、国会議事堂の工事現場の写真は今とは違って重機のない風景が写っていて、まだ街路樹の低い出来たての閑静な通りも観ることができる。ここからウィーン分離派を感じる作品が展示されていて、フランツ・フォン・マッチェのブルク劇場北側階段のための習作である「古代の即興詩人」と「中世の神秘劇」に目が留まる。昨日観たバーン=ジョーンズの確かな流れである象徴主義を感じる作風で、立体感と臨場感のある場面は、異質な劇的空間が強く描かれていて、彩色が施されたギリシャ風の一枚布の衣装や赤と青のガーゴイルらしい姿などから、想像豊かに描かれた異世界の古代を感じることができる。その隣にはハンス・マカルトの「真夏の夜の夢(ウィーン私立劇場のための習作)」があり、豊田のクリムト展でも引き込まれた優しい夢を含んだターコイズに近い夜の青はここにもあって、ルネサンスらしい裸が詰め込まれた動的な装飾の構図はイラストのようにはっきりと映る質感があり、この特別展でも指に数えられる優れた作品だと思った。


金の背景が格調を高めているエドゥアルト・レビーツキーの習作を過ぎると、足止めされたばかりのハンス・マカルトに絞った展示室となっていて、神々しい進行の風を感じる「1879年の祝賀パレードのためのデザイン画」に心は持っていかれるも、「ドーラ・フルニエ=ガビロン」という柘榴が弾けた鮮烈な血色の背景に座る赤毛の女性に目を封鎖された。モローのような綺羅びやかな装飾をまとうこの女性は、赤い半開きの唇が吸血鬼のような魔性を秘めているようで、流し目にはそのまま飲み込まれそうな圧倒的な印象が詰まっており、先程の作品で指で数えられるなどと言っていたが、ここにあるハンス・マカルトの作品で片手は埋まりそうな気配さえした。隣にある「メッサリナの役に扮する女優シャーロット・ヴォルター」という作品にも感じたモローとドラクロワの系譜を持つこの画家は、自分の中のお気に入りとなった。


ウィーン万国博覧会の資料展示に続いて、美しき青きドナウのヨハン・シュトラウスの大理石を過ぎ、オットー・ヴァーグナーの建築資料が多く並んでいる。これも一つ一つが驚くべき構造美で描かれていて、最良のデザイン画としての質をどれもが備えていた。その中でも「聖レオポルト教会(シュタインホーフ):模型」は設計図がいかに模型にも芸術性を宿すかという実例を示すかのような出来栄えで、これがあるからこそ、他のデザイン画から足りない想像力で実像を描き出そうとしてしまう。ただし、とても描き出せないが。


それが過ぎるとクリムトの初期作品から展示されていて、「『アレゴリーとエンブレム』のための原画」の「寓話」はアカデミックな作風ながら人物の表情にはクリムトらしい顔ばせがすでに表れていて、「牧歌」は恐るべき技量で筋肉が描かれ、右の男の陰鬱で冷たい表情は多くを許されてしまう美が宿っている。さらに素描作品も並び、装飾家らしく多く重ねられている線が目立ち、一本で描き出す簡潔な存在感はあまり見られない。そのなかで「ひげを生やした老人の裸体」はややごつごつした線からこの芸術家の特質である形態の浮遊感とでもいうべき茫漠した質感が滲みでていて、「半裸で座る二人の女性」は対照的な表情が不気味に物語っている。その中で「目を閉じた巻き髪の女性の頭部」は線が少なく、すっきりした輪郭線の中で股を開いて女性器がぱっくり割れている淫猥な構図だが、素描だからこその肉感を削がれたエロティックな美しさがあり、その表情には安らかさがある。


その続きにはウィーン分離派の作品が展示されていて、印象派やクリムトの影響下から逃れた純然たる個性は見られないが、それを組み合わせた細かい画風の違いがある。個人的に惹かれたのはマクシミリアン・レンツの「シルク=エッケ(リンク通り)とケルントナー通りの角」で、ナビ派のような色の質感がパリのような輝かしい印象でウィーンの一角を写し取り、構図は写真で日常風景を撮影したように、右にはエレガントな二人の女性の後姿が群衆を語り、左には街頭の柱が画面を区切り、自転車をこぐ女性と2頭立ての馬車が交差する瞬間がおさめられていて、この街の新しさが画面いっぱいに勢いづき、あまりに輝かしい記憶のように目に吸い付いて離れなかった。マクシミリアン・クルツヴァイルの「黄色いドレスの女性(画家の妻)」は見事な色彩の絵で、クリムトの二番煎じ感は否めないが、腕とスカートは羽を広げていて、蝶でも花でも、熱帯の生物のような色彩の存在感がある。コロマン・モーザーもやはりフランスからの影響を感じるが、「少女」の顔と構図が素朴で愛らしく、単に好ましく思える作品だった。


それからウィーン分離派のグラフィックが壁に並び、どれもが見事な計算式による構図で線と色が組み立てられていて、少し古さを持った親しみの持てるデザインは、ポスターの基本構造と精神で新しさが追求されていた。


再びクリムトの目玉作品に着いて前のベンチで休んでから、先を進むと、クリムトとエミーリエ・フレーゲのその瞬間の楽しさが伝わる実に豊かな表情の写真があり、関連する家具や服飾が展示されている。その先にはヨーゼフ・ホフマンやコロマン・モーザーによるウィーン工房の調度品やアクセサリーがあり、複雑ではない優美な曲線による機能性を持った構造にデザインの持つ特徴的な存在感が見られる。


そしてウィーン工房のグラフィックを過ぎると、ようやくエゴン・シーレの作品に戻ってきた。入場してすぐに観た時に比べて色々な作品に目を当ててくると、際立った個性によるぎすぎすした存在感が強く訴えかけてきて、誰にも真似できない作風はその迫力によって好き嫌いが分かれるのだろうと思い知る。しかし他の作品にはたやすく見られない独特な絵から放たれる雰囲気は、孤独で、独善的で、痛ましさが美しい芸術へと昇華されている。


入館直後のやる気のなさはいつしか消えていて、なるべく一つずつ作品を観賞してしまい、短くない滞在時間となった。しかしそれはこの特別展の持つ魅力がそうさせるので、住みたい街の絶対的な位置は変わらない特別な思い入れの贔屓があるにしても、この展覧会を企画した人の熱意と配慮が展示構成と作品の質から汲み取れる。ウィーンという周辺諸国の文化が統合された華やかさは、時代と共に凋落していく運命にあり、豪華な花々が太陽の消失と季節の零落によって枯れて散るのに似ている。とはいえ第一次世界大戦の勃発まで語ることなく区切られているから、展覧会は華々しさの陰りで終わっている。


クリムト展も良かったが、こちらのほうが地理と歴史に巨大な跡を残した街とその中にいる人々が語られていたので、より満足は大きかった。台風の接近で来るのをやめようと思ったが、来た甲斐はあったと、マーラーの頭部で思う。そう、この特別展の最後に向かう二部屋に、自分の好みのウィーンがあって、胸が熱くなった。

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