11月25日(日) 広島市映像文化ライブラリーでパトリック・デュバル監督の「アセファル 無頭人」と、ダニエル・ポムレール監督の「ヴィット」を観た。

広島市映像文化ライブラリーでパトリック・デュバル監督の「アセファル 無頭人」と、ダニエル・ポムレール監督の「ヴィット」を観た。


「アセファル 無頭人」

監督:パトリック・デュバル

出演:ローラン・コンドミナ、ジャッキー・レイナル、パトリック・デュバル


「ヴィット」

監督:ダニエル・ポムレール、

出演:ムスタファ、ダニエル・ポムレール


上映前のゲストトークに、この映画に出演しているジャッキー・レイナルさんが登場して、ザンジバルグループへ実際に深く関与した人物としての、映画の簡単な紹介があった。


アセファルは、終末に向かう時代背景、35ミリフィルム、バリケードの外と内、インプロビゼーション、イギリスからの影響などが話され、ヴィットについては、アクション・ペインティング、主題の喪失、NASAの天体望遠鏡の購入で予算が高い、空間の中に円環を描く、などが話された。


どちらの映画も棒読みの同時通訳だったが、台詞は多くなかったので影響は少なかった。ただアセファルでは、前半に男性が椅子に座って語り続けるシーンでは、語られる内容が複雑であり、また続けて話されるので、内容が頭に入り切らず、聞いているようで聞いていない状態だった。


それには臭いも深く影響していた。もともと音や臭い、動作に神経質な自分は、映画やコンサートでは病的なまでに過敏になり、極度にヒステリックになるので、席選びは慎重に行われる。この上映でも、貧乏ゆすりや、飴玉をなめそうな人や、ため息や独り言をする人を予想して避けたが、上映が始まってから、二つ隣の席に女性がやってきて、強烈な香りを漂わせた。まるで臭い玉のようで、ウッディなムスクのようで非常に好ましい香りなのだが、まだ鮮烈に香り始めたばかりのようで、とてもきつい。それが静かなスクリーンに対して、障りとなるおしゃべりとなって自分の意識を奪い、そのことによって頭の中に雑念が次々と生まれてしまった。葬式にサンバの服装で来るようなものじゃないか、などと作法が時宜に合わないと比喩で文句を言う場面などが、スクリーンからの情報を妨げていた。


一本目が終わるまで我慢しようとしたが、そんなのは無駄な我慢だと思い、その女性の足をまたいで別の席へ移った。それからやっと集中することができた。


ゲストトークのジャッキー・レイナルさんは、スクリーンのなかで完成された美しさを放っていた。ちょうど50年前の作品だ。昨日も、一昨日も思ったが、出演者は毛皮のコートなどの衣装に身を包み、髪の毛は長く無造作にもあり、どの俳優も顔立ちが美しく、象徴的で印象的な画面に、神秘と静謐、それに瞑想的な思索の美しさがある。


「アセファル」は時代の喧騒によって空虚に落ち込んだ若者の、意識がありそうで無意識な魂の解放の動きのようで、ゲストのトークで聞いたように、ユートピアを求める感じが伝わってきた。新しい力を持った若者の、有り余るエネルギーの迷走のようにも思えた。


「ヴィット」はカラーが青く、月のクレーターがくっきりとしていた。フランス語で、ヴィット、アセッ、と、はやく、じゅうぶん、と叫ばれる。おんぶされ、首をふりふり、北アフリカの太鼓のリズムが生命の原初的な叫びを援助する。暗いなか、砂漠の砂に照明があたり、足でいじくるシーンは、砂が水に見えてしまう。乾ききった清潔で純粋な状態は、同じ性質を備えてしまうのか。


この映画からも、伝統への反動、老人への反抗、旧体制への暴動など、若さがもつ革命的な衝動が冷めた熱さで伝わるようで、68年5月革命の時代の空気が間接的に伝わってくる。


若さ特有の力が、昔は自分にもあったはずなのに、今もあるようで、これほどあったのだろうかと、混迷してしまう。今ある日常と常識を疑い、静止した川岸のベンチ一つにいつもと違った状態をみてしまう。揺さぶられる映画だ。

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