第44話 能登の水那月2
次に井津治さんですが夕べやって来て今朝出掛けました。帰って来るかですって、分からないけれどあたしの感だともう此処へは戻って来ないような気がする。荷物、もちろん置いてないです。どんな様子ですって。いつも通りで変化はなかった。と云うより根が地味な人ですからね。最初は人見する子だと思ったけれど今もそのままみたいね。離婚したときに知代ちゃんは子供を連れて実家に戻ったからその時に井津治さんをじっくり見られた。三つぐらいだから彼に訊いても覚えてなかった。でもその次に長沼さんと一緒に来た時は五歳だったから覚えていた。『この人はあたしの古い友達だから困った事があれば相談しなさい』って知代ちゃんがあたしの目の前で息子に言っていた。でも一人で来たのは昨日が初めてだけど何も言わなかった。
「だからあの長沼さんがそんな遺言を残していたなんて礼子さん、あなたが来るまで知らなかったし、知代ちゃんの別れた男がやって来た謎もこれで解けた。それに関しては二人とも何も喋らなかった、そこのとこだけが別れた親子の共通点なんて気味悪い?」
「そうでも無いでしょ。事が事だけに大概は第三者の介入を避けるでしょうね」
「礼子さん、あの長沼さんがあたしに話すはずが無いのに、井津治さんは長沼さんが昔いた樺太時代の様子を頻りに訊いていた。可怪(おか)しいとは思わない?」
「確かに可怪しいわねぇ」
「でも礼子さんの話で少し先が見えて来たわ」
「亡くなった長沼さんが唯一残している禍根じゃないでしょうか。死んでも死にきれない物。もう消すに消せない汚点、禍根、後悔・・・。それを魂が落ち着く四十九日迄に何とかしたいと井津治さんは思っているんじゃないでしょうか」
と野々宮が言った。
「それじゃあおじいちゃんが遺言にそんな意味を込めているとしたらあたしはどうすればいいの? それにあの子にそんな深い洞察力が有ったなんて。野々宮さんにとっては強烈なライバルに成ってきたのね」
「礼子さん、今さら人ごとの様に言わないで下さいよ、どう云う状況であろうと全てはあなたのこころの赴くままにそこに一切の利害が有ってはなりません」
「もちろんわたしを誘惑するのは地位や名誉や財産では有りませんただ人を思う純粋なこころによってのみ動かされます」
「嘘ですあなたは迷っている。純粋な心に不純な動機が忍び寄って来ている。あなたはこの誘惑にはたして打ち勝てるのでしょうかじっくり拝見したい」
「引っ込み思案のあなたが大きくあたしを突き放して一体何を試すつもりなの」
「最初から此のレースの傍観者に過ぎない自分には何も有りませんよ」
「最初から失う物がない、上手くいけばもっけ物。そう、労しないで得られるそれがあなたの唯一の強みでしょう」
「本当に貴方がそう思っているのなら悲しい。そしてそれは私が心に描いていた礼子さんじゃ有りませんからぼくは此処で降ります」
「待ってゴメンなさい。わたしどうかしてるの此処まで付いて来てくれたあなたに対して・・・」
水瀬は犬も食わないと云う仲に見かねて黙っていたが、らちがあかないと割り込んだ。
「もう見てられない。お互い素直になったら。長沼さんの思いが伝わらないのは、ご令嬢と居候の様な違いじゃないでしょうか」もう見てられないとさも女将は戯けて仲裁に入った。
もう追いかけても無駄と知りつつ、二人は輪島の旅館を立って水那月へ向かった。運転席側に見える日本海を航行した北前船が、立ち寄った港がこれから尋ねる水那月の町だった。
「女将さんはここで生まれた人しか此の海は本当の姿を見せてくれないと言っていたけれど夕紀さんの言う本当の海ってこんな穏やかな海じゃないんでしょうね」
「この辺りの海岸は冬になると岩に砕けた水しぶきが泡の様に舞うんです冬の華って言うそうです」
「見たことあるの?」
「テレビで見ました」
「ほとんど夏だけどあたしは冬休みに一度来たことがあるの、でも見なかった。あの子はお母さんが亡くなってからもおじいちゃんに連れてもらってた、だから一度ぐらい見てるかも知れない、冬の華って云う景色に」
二人は実家の根本家を訪ねた。やはり井津治は来ていない、代わりに別れた父親の永倉喜一が息子の消息を尋ねに来ていた。
「いつですか?」
今朝一番に、どうやら二人が京都を立った頃らしい、そうすると夜着いて何処かで一泊してやって来たらしい。
「どうしてそんなに早く井津治の異変を知ったのだろう?」
「そんなの訳ないわ、興信所に素行調査を依頼していたのよ」
「四十九日も、相当な費用になりますよ」
「これだから貧乏人は困るのね、ちょっと気を悪くした? 悪気ないのゴメンね。と云う事は半日前まで彼のお父さんは此処へ寄った、後はお母さんのお墓か」
「確か長沼さんの菩提寺にも分骨されてるんですね」
「そうよ、由貴乃さんも一緒に、知代子さんが亡くなった時にわざわざ北海道の留萌から持って来たのよ、相当な思い入れでしょう。おばあちゃんさぞかし肝っ玉潰したでしょうね」
「でも葬儀で何もしなかった人だね」
「何云ってんの戦後の闇市を取り仕切った女よ、おばあちゃんは」
「それじゃあのおばあさん姐御肌なんですね、案外、長沼さんの遺言の真意を汲んでいるかも知れませんよ」
「ウーン? どうして裕慈さんはそう言う事が解るの、と云うか思い付くの。アッそこ墓地の入り口、そこへ車止めて」
菩提寺と云ってもこの町にある唯一の寺で、此の町の住人は代々この寺に葬られる。墓地は寺の中でなく外に有り、地元の人はそのままお参りする。ただ遠縁とか遠方からこの町に伝手の無い人がたまに尋ねる時は寺で案内を請う。二人は挨拶も兼ねて住職を訪ね墓前での読経を請うた。
「お久しぶりですね、大きくなられましたね、長沼さんは毎年来られましたが礼子さんは十年振りでしょうか?」
「はいご無沙汰しておりました」
「まああんたは関係ないわなぁ。それでもよう来られました、あんたがお参りされたらこれで長沼さんも喜ばれるでしょう」
「他に誰か知代子さんのお墓に参りに来ませんでしたか?」
「お彼岸前ですからお参りはほとんど有りませんが、根本家のお墓には最近誰か来た痕跡は有りましたがそれがどなたかは分かりません。遠縁の方かもしれませんね」
住職は新しい生花が添えられている事を告げた。現場を見て、それで井津治が立ち寄った事が判った。永倉喜一も来ただろうか? 別に仏花もあった。彼が随分と昔に別れた妻の墓に生花を供えるはずがない。
おじいちゃんは留萌に眠る由貴乃さんを長沼家の菩提寺に移された。同じように此処に眠るのは分骨だから、自ら作った菩提寺に知代子さんの遺骨の全てを移したい。唯一の血縁者である姉が亡くなった今だからこそ、それに金銭を付ければ実家からの承諾を得られる。それを手掛ける前に祖父は亡くなった。先祖の遺骨は父があたしと野々宮さんに頼んで移した。知代子さんのは喪が明けた後に岩佐に託していた。
お経を上げ終わった住職は寺へ戻って行った。誰かまたお参りに来たのか木立の向こうから住職の甲高い声が響いた。声が途切れて少しの沈黙の後から井津治がやって来た。
「井津治! この花あなたでしょう、いつ来たの?」
「今朝来て、ここで父と会った」
「お父さんと・・・。なぜ戻って来たの? 今までどこに居たの?」
「伯母さんの所、母さんの姉にあたる人、でも亡くなられていた」
「知らなかったの、最近だからねぇ。・・・あなたのお父さんて、縁はとうの昔に切れてるわね」
「だけど親子には違いない」
「そうだろうけれど、岩佐さんの話では金に困ってるって聴いているけどそうなの」
「そうだ、昔の面影はもう微塵もなかった。家族に去られて落ちぶれて老いた父だった。母さんを捨てた事を後悔していたが真相はどうなんだろう、母さんも見抜くだろう、今頃やって来るなんて。失って解るのが人の常なら時間って云うやつはなんて酷い仕打ちをするのだろう」
「そうなの・・・。で久し振りに会ったお父さんとはどうなの?」
「久し振りでもない、最近は付きまとわれてる」
「井津治、あなたはそんな苦労もしていたのね」
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