第42話 井津治の失踪4
列車は車窓に寂しい風景を残してこれでもかと秋を飾り付けた景色を映し出していた。目の前を馳走してゆく田園風景が隔離された遠い思い出を呼び戻した。すると随分と田舎へ来たもんだと剥離された現実が展開する。彼のお母さんはここで育ったのか? その疑問に答えるためにこうして列車に揺られていた。
一つのものを否定すれば、それに替わる新しいものを見出さなければならない。その覚悟を自覚しなければ沈黙を貫けと礼子は彼に説いていた。井津治はその言葉に従ってさすらっている。この旅で見いだすまで戻らないでしょう。
「それではあなたへの思い入れは?」
「あの子は特定の人への感情を超えてもっと大きな指命を果たそうとしている」
特急雷鳥は金沢から七尾線に乗り入れ、終着駅和倉温泉から更にローカル列車で終点の駅に着いた。ここで二人はレンタカーに乗り換えた。ここからあの子の母の生まれ故郷、日本海が洗う能登半島の海辺へ向かう。この時に車の免許の無い礼子が「やっとあなたの出番が来たのね」とこの旅に誘った意義を強調した。まわりぐどい礼子の主張に異議を挟みはしないが素直さが足りないと感じた。
ここだけが秋から隔離されたように、冬を思わす寒々とした季節を映していた。彼の母の実家は列車を降りて、更に車で揺られなければならない。
井津治が旅に出て正確に云うならば、消えて二日目が過ぎようとしている。普段ならそれでもよいが実行の期日を目前にして消えた意義は大きい。例えば時限爆弾のタイマーを解除しなければならないのに、その作業を一時中断するようなものだった。切羽詰まる中で彼の取った行動は何を意味するのか。ある種の重圧感に耐えきれず走った行動ならば原点に回避する。そう確信したからこそ礼子は彼の母の生まれ故郷を目指した。だが彼との接点の少なかった野々宮にすれば疑問が湧く。行き先が見え見えでは姿を消した意味がないが、誰かに思いを知ってもらいたいのであれば合点がいく。小さい頃から彼を知る礼子だから何の迷いもなく能登を目指せた。言い換えれば彼は過去からの呪縛を振り切れないのだ。だが彼は此処にはいなかった。しかし痕跡は見つかった。彼は家を出ると真っ直ぐここに来ていた。そしてここからどこかに向かったらしい、それがどこなのか二人は痕跡を尋ね歩いた。
この彼の行動は、惑星に向かう衛星がスイングバイのようにもう一度地球に戻りその引力を利用して加速するようなものなのか。
「寂れた町ですね。これじゃ都落ちした落人ですね」
「都落ちですか・・・」
行き昏れて木の下蔭を宿とせば
花や今宵のあるじならまし
「何ですかそれは?」
「さる方の辞世の句です」
「誰ですかそれは?」
「知らないんですか、・・・もうー、なんて方なのあなたは。でもそれであなたの価値が下がる事は有りませんから安心してください」
と礼子は気落ちする野々宮の耳元でそっと囁ささやいた。だが少しは失望したことは事実だろうと野々宮が察する。彼女の好意を引き留める為に、言い換えれば挽回、失地回復を彼が考えたのは計り知れない。
祖父の葬儀の司会では非の打ち所がなかった。なのにこのトンチンカンな受け答えはマニュアルどおりの言葉しか話せない。それほどこの人は他の人と対等に渡り合える言葉と云う武器を持ち合わせていなかったし、また持とうと努力しなかった。要するに対人関係における突発的な出来事に対処する能力を磨いていない。無防備なのである。それで葬儀の司会や段取りを手際よくこなせたのは、店長の桐山さんの人柄による功績だろう。最もあの店長以外の人では野々宮さんはこうも続かなかっただろう。そしてそれ以上に私のような存在がこの人には無くてはならないと思い知らされた。この考えが染みついてしまった私は、もう彼から引き返せない距離にまで近づき過ぎた。これが一種の愛の片鱗と云えば言えなくもないかも知れない。
いつの段階で戻れなくなっているのだろう。本当に戻れないのだろうか? 車は長閑な風景の中を走り続ける。だが井津治はここで生まれた訳じゃないのになぜここに来るって解ったのだろう。
「それはそれだけ母を愛していたからなのよ。あの子にとって知代子さんは特殊な人なのよ」
「会ったことあるんですか?」
「 何回か会ったわ」
「そうか少なくとも亡くなるまでの五年間は長沼さんと付き合っていたのだからあなたも子供の遊び相手になってたんだ」
「そう、おじいちゃんに連れられてよく行かされたのよ。今思えばあたしは知代子さんに会うダシに使われたのよ、でもその頃はお小遣いもらえて好きなもんも買ってもらえたから悪くなかったわよ、姉さんたちがうらやましがってはわ、子供の中ではあんたが一番金持ちだって」
「羽振りがよかったんですね」
「まあね最初のうちはね、二人の仲がよくなるとあたしはお払い箱にされたわ。出番が無くなることは無かったけど減ったのよ。おかげで姉たちから調子に乗りすぎるって笑いものにされたわ。まあそんなことより井津治のことね。知代子さんは親子と云うより早く自立を促すように対等に育てたわ、それがあの子にとっては辛いのね、甘えたい年頃なのにそこが少し情緒不安定な要素にもなってるのね。だから時々『メソメソするな!』ってよく叱ってやったわ。だから今でもそんな顔をすると、年甲斐もなく引っぱたたきたくなるの」と彼女は笑って見せた。そしてしんみりとして「だからあの子の逃げ道はここしかないのよ」と言ってはみたがどこか寂しそうだった。
「母を亡くしてからあの子はそれを私に求めた節があったけれど、私はあの子の為にウジウジするんじゃないと、無視したのだけれど結果は良くなかったようだ。そう言われればそうだと野々宮さんは納得されるでしょう」
「甘やかさなかった、母を無くした彼にはむごい仕打ちと映ったんだろうけど心までいじける事はなかったのは礼子さんの人柄によるところが大きかったんですね」
「そう云ってくれるのは私の見立てではあなただけですのね」
「両親やお姉さんたちは何も気付かなかったんですか。誰も解ってくれない。家族同様に育てられた永倉さんにとっては悲しいですね」
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