第21話 永倉喜一
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井津治は礼子を置いて野々宮とはスッキリしないまま別れた。
一人で先に店を出てから彼女だけは後を追って来ないかと、何度も振り返ったが人混みの中に終にあの人は現れなかった。
「何だって礼子はあんな男に俺の過去を話させようとしたのだ喋ってから気分が悪くなった」
ブツブツ言いながらふと振り向けばいつの間にかあの男がいる。小父さんの容体が悪化した頃から纏(まと)い付いた男だ。
井津治は男に向きを換えてそのまま歩いた。驚いて立ち止まる男との距離はみるみる接近してついに向かい合った。男は無理と承知しながらもまた誘った。今まで邪険に扱って来たが今日は珍しく男の誘いに応じた。井津治の対応に男は鳩が豆鉄砲を喰らった顔をした。
「どうやらいい話があったようだなぁ」
今度は井津治が不気味な笑いを浮かべた。
「話は進展したのか?」
男は相続の一件にめどが付いたのかと足早に近くの喫茶店に招き入れた。だが席に着くと井津治はやはり以前と変わらない顔付きに成ったがそれでも男は問うた。
「少しは遺産を独り占めにするのがやましいと思ったか」
男はなおも卑屈な笑いを浮かべる。
「あんたには悪いが遺産の話どころじゃなかった。いやその反対で俺はもうどうでもいいような存在になってきた」
男の卑屈な笑いに井津治は苦笑いで応えた。
井津治の母への想いを余裕の表情に取り違えた男は確信を掴んだと思った。
「ほおー手を変えてきたか、だがそんな安っぽい手には引っかからへんで」
なんでこんな男にと母の一時(いっとき)の盲目を呪った。
「どこまで根が腐ってるんだ」
男は今度は確信を得たような笑いを浮かべた。
「遺産が入るのならどんな悪態も訊いてやろうじゃないか」
井津治はこの言葉にさっきの礼子の態度を逆転させたいと一瞬目が眩んだ。
「ライバルが出現したんだ」
相手は誰でもいいから恋の気休めに言った。言ってから、いやこの男を今は利用すべきだと悪魔の囁きにも似た思いがもたげた。
「お前なあもっとまともなウソが吐けないのか。見合いの話もないのに急にあの娘にお前以外に結婚相手が現れるはずがない!」
井津治は目の前の男を昔の母の相手だった永倉喜一(きいち)だとイヤでも認識させられて背筋にゾクッと冷たいものが走った。いったい母はこの男の何処が気にいったんだろう。
「お前の素行調査も大した事はないなあ、いっそプロの興信所に任せたらどうなんだ」
あの葬儀屋の存在にまだ気が付いてないなんてどこを見てるんだ。まあ手に負えなくなったらこの男は興信所どころがヤクザにも頼みかねない。遺産がハッキリすれば手段を選ばないだろう。だがそれはまだ四十九日先だ。
「余計なお世話だお前にお節介な心配はいらねぇ」
井津治は急に可笑しく成ったのか突然吹き出した。
「心配する訳ないだろう、あんた葬儀場にも顔を出してたそうだなあ。なら長沼家の葬儀の担当者だった男、そっちを調査してみたらどうだ。もっともあんた一人じゃどうしょうもないがなあ」
「当家の大黒柱が死んだんだ。暫く葬儀屋と親しいのはあたり前だ。お前まともなのか、ひと月余りしかないのにあの娘が心変わり出来る相手がいると思ってるのか・・・。待てよ遺産目当てに偽装結婚って云う手があるな」
この男はもっとましな答えが出せないのか。
「礼子さんにそれはない!」
「お前やっぱり人生経験が足らん、世の中そんな甘ちょろくねぇんだよ」
此の人は若い頃は少なくとも母を知った頃だけは、母に感化されてまともだったんだろうなあ。問題が有るとすれば幼い頃の家庭環境か、だとすれば俺を真っ直ぐに育てた長沼のおじさんは大したものだ。
「おふくろがなぜあんたを選んだのか未だに解らないよ」
「女と一緒に成って見れば分かると云うもんだ。お前はいいよなあ金と女が一度に転がり込む大抵はどっちかで苦労するのに」
この男にはどう言えばいいのか井津治は戸惑った。とにかく状況が一変している事を言った。後は勝手にこの男は動くだろう。果たして此の男がどのように、何処まで動くかは疑問だが。
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