15.好きな気持ちに上限なんてないんだよ
「それと、私の缶コーヒーあげる」
「あ、悪いけどおれサイフォンで淹れたブラックコーヒーしか飲めないんだ」
「うぐぐ。飲みかけだし口紅つきだよ。Aliceが口つけた缶コーヒーだってネットオークションに出せば千円くらいにはなると思うよ」
「なおさらいらねぇ」
「無念」
ぱっと手が離れたので雑誌を受け取って脇に抱える。空いた方の手で炭酸ボトルを差し出した。
「こんなんでいいんだな」
「うん、ありがとう!家宝にするね」
「するな。ちゃんと分別して棄てろ」
「細かいんだから」
ぶつぶつ言いながらも自分のカバンにボトルを入れ、愛おしそうにポンポンと撫でた。そんなことをされると妙な気分だ。
「じゃあ行ってきます。黒猫カフェ楽しみにしているね」
手を振って走り出したので慌てて声をかけた。
「おい、木曜と日曜は定休日だからな。それからもうひとつ」
「なに?」
その場で足踏みしながら凪人の言葉を待っている。
「いまのところ――いまのところだけど、おれはアリスのことストーカーとは思ってない。だから自分とあんな奴が一緒だなんて思うな」
「……それって」
「アリスはちょっと鬱陶しいだけの同級生だ。いまのところは、な。どっちに転ぶかは分からないけど」
そう告げたあと、アリスの顔を直視できなかった。さっきとはまるで逆の立場だ。
(なに言ってるんだ、おれ。モデルと付き合ったら目立つに決まっているのに)
好きだと言われたから好きになる。そんな都合の良いことがあっていいのだろうか。なんだか後出しジャンケンみたいでズルいじゃないか。
(でもモデルじゃなければいいのか? 目立たなければいいのか? アリスという一人の人間に対しておれは――)
「ありがとう」
気がつくとアリスの顔がすぐ間近にあった。視線をそらしていた隙に距離を詰めていたらしい。目の前で桃色の唇が動く。
「プラス十点」
「じゅってん?」
「そう。顔が八十点だからそこに十点加点してあげます」
「もし百点になったら?」
「分かってないなぁ、好きな気持ちに上限なんてないんだよ」
そう言って凪人の頬に軽く口づけしたアリスは今度こそ走り去っていった。
運転席で一部始終を見ていた柴山の呆れたような顔と言ったら。
走り去る車を呆然と見送ってた凪人は頬の感触を思い出して一気に体が熱くなった。
(減点だ)
雑誌を脇に抱えて大股で歩き出す。
(十点、いや二十点減点だ。零点になったらおまえなんかストーカー認定してやるッ)
※
それからしばらくの間、アリスは黒猫カフェを訪れることができなかった。
朝は一緒に登校するものの、授業が終わればマネージャーの車で撮影現場に直行する。学校が終わってすぐに仕事では気が休まる暇もないように思うが、ある意味では凪人も同じだった。
十一時から十八時まで営業している黒猫カフェの手伝いだ。
飲みものは特注のエスプレッソマシーンをひねれば間違いなく美味しいものが出るし、食べ物は母手作りのサンドイッチやパンが置いてあるので切り分けたり温めたりして提供すればいい。平日はランチを過ぎれば客足もまばらな気楽な仕事である。
「いらっしゃいませ」
この日、一人で店番をしていた凪人の元へドアベルを鳴らして入ってきたのは体格の良い男性だった。うなじにかかる長めの茶髪で、黒いマスクにサングラス。外は蒸し暑いくらいだというのに随分と重装備だ。
(まさか強盗?)
カウンターの奥にいた凪人は男の異様さに身構えた。
セキュリティーサービスにつながる通報ボタンはレジカウンターの下だ。ぱっと見でも二メートル近い長身の男はそれだけ腕も長い。このままではボタンを押す前に刃物を突きつけられるが首を絞められるなどしてしまう。どうしたものか。
「あの」
レジの前までやってきた男が喋る。凪人は警戒したまま動けなかった。
「あの、すいません」
男はマスクを外して改めて声を発する。ついでのようにサングラスも外すと切れ長の目が凪人の姿を捉えた。
(……あれ)
デジャブ。
なぜか見覚えのある顔立ちだった。いや、顔だけでなくその体つきも。
思わず目がいったのは店内のマガジンラックだった。客用に何冊かの雑誌を定期購読している。そのうちの一つ、映画雑誌の表紙に目の前にいる男性とまったく同じ人相の男が映っていた。
「すいません。キャラメルマキアートLLサイズでひとつ。あとハチミツパンケースチョコレートソース掛け三枚お願いします。あ、カードで」
※
「んーーーーこのキャラマキうっま」
男は凪人が入れたキャラメルマキアートLLサイズを旨そうに飲んでいた。
「パンケーキもふかふか、生クリームも甘くてヤバい」
パンケーキマシーンで焼いたパンケーキも美味しそうに食べている。
「店員さん今度はカフェモカLLでお願いします。あ、カードで」
「はい。ありがとうございます」
受け取ったカードで支払いを済ませてから作業にかかる。と言ってもエスプレッソマシーンが作ってくれるのを待つだけだ。
「お待ちどうさまです」
できあがったカフェモカを出しつつ空の容器を下げる。ぱっと目が合った。
「俺が誰か分かります?」
「おれの目が悪いのでなければ俳優の斎藤マナトさんによく似ていますね」
「正解」
斉藤マナトはまだ二十歳の若手俳優だが、とある映画のオーディションで一万人の中から選ばれ、教師たちを手玉にとる天才高校生役を演じて主演男優賞にも選ばれた実力者である。ラグビーで鍛えたという鋼のような肉体が注目され、雑誌でもよく見かける。
「本名は
「へぇ……」
「というわけでパンケーキ二枚追加お願いします。カードで」
注文が入った以上無駄口を叩かずに作業するしかない。しかし疑問はぬぐえなかった。
(そんな有名人がなんでここに?)
我知らず緊張して手のひらにじわりと汗をかく。
「お待たせしました。追加のパンケーキです」
凪人の顔をじっと見ていた愛斗はやわらかい笑みを浮かべた。
「なんでここに来たのか、って疑問に思っているだろう」
「……少し」
「答えは単純。前にロケでこの辺を歩いたことがあったんだ」
言いながら追加されたパンケーキの上にチョコレートソースでなにかの輪郭を描く。
「ここの黒猫の看板を見つけてずっと気になってて、やっと今日来られたんだよ。場所も大体しか分からなかったし、ホームページもなにもないから苦労した。でもそのお陰で甘いモノにありつけたんだから最高だ」
たまたま通りかかって気になっただけ。それを聞いて緊張がやわらいだ。もしも小山内レイジのことだったら――。
「さて、と」
カフェモカを飲み干した愛斗がマグカップを置く。コマーシャルの一場面かというくらいサマになっていて見惚れてもおかしくないのに、なぜか凪人の心臓が早鐘を打った。
立ち上がった愛斗はまるで巨大な岩石のようにそそり立つ。全体的には細身に見えるのにその存在感は圧倒的だった。見るものを惹きつける目はメデューサのように凪人を硬直させる。
「そろそろ……」
伸びてきた手が凪人の肩を掴む。軽く触れられているだけなのに逃げられない。愛斗は端正な顔に笑みを浮かべて詰め寄ってきた。
「レイジがどこにいるのか教えてもらえないかな?」
(つづく)
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