第37話 祭りの最終日

◇◇◇◇


「……こんばんは」

 私はかがみ込み、川底から浮かび上がってきたその魚影に声をかける。


 木々に囲まれているせいで、月明かりが届かない。 いや、ここ数日、闇夜に目が利くようになっていたのに。


 今日はなんだか様子が違う。

 目をこすり、凝視するが、川にぷかりと上がってきたそれは、かなり顔を近づけなくては影なのか本体なのか区別がつかなかった。


「……こんばんは」

 大鯉は答える。


 どうやら、頭だけ水面から出しているようだ。

 にょろりと両脇に生えたヒゲが口の動きともに揺れる。なんか、鯉というよりナマズのようだけど、固そうな額とか、ごぼりと途中で伸びる口なんかは明らかに『鯉』だ。


「初めまして、朱里しゅりです」

 そう続けてみたが、瞬きもなく凝視されてちょっとたじろぐ。そうか。魚って、瞼がないんだっけ。


「ヒメミコなんだ、彼女」

 隣でギンがいたたまれなくなったように言葉を挟む。「ふぅん」。大鯉はだけど、そっけない。カワウソのように表情が無いのだ。能面のような顔を突き出し、ゆらゆらと尾びれを振って私を眺めている。


「で?」

 とうとう、大鯉に、そんな風に言われた。


「いえ、大鯉さんがいらっしゃるとお伺いし、是非ともお姿拝見……」


「お前、俺らに一回もそんな敬語使ってねぇよな」

 いきなりギンに怒鳴られるから、むっとして口を尖らせた。


「だって、大鯉よ!? 各地に残る妖怪よ!? 比叡山には人食い鯉の伝承が。それから愛知県豊田市には岐阜県の岩魚坊主に似た伝承が残る妖怪よ!? それに会えたのよ!」


「いや、レア度からいえば、ペンタチコロオヤシ、すげぇだろ」


「……まぁ、そうなんだけど。でも、狸だカワウソだ、って言われても、ああ、そうですか、って感じでしょ? 大鯉よ、大鯉っ」


「いや、お前の基準、わかんねぇわ……」


 互いにあきれ顔で見つめていたら、ぱしゃりと水音がする。我に返って川面に目をやると、相変わらず表情の読み切れない目で、大鯉にみつめられた。


「じゃ」

 前ひれを上げ、そんなことを言う。「あ。はい」。咄嗟にそう答えると、大鯉は魚体を翻してまた水に潜った。


 ざぶり、と音がひとつしたあとは、虫の音と川のせせらぎしか聞こえなくなってしまう。


「……カワウソが言う通り、無口だったね」

 私はねっとりと黒い水面を眺めてため息着いた。小豆洗いと大違いだ。


「だけど、引き合わせてくれてありがとうね。わざわざ、淵からここまで来てくれるようにお願いしたんでしょう?」

 私は顔を起こし、隣に立つギンを見上げる。


 祭りの中日。

 最終日に大鯉に会わせてやる、と私に言ってくれたギンは、約束通り、今日こうやって場を設えてくれた。


 もう、契りが切れかかっているのかもしれない。

 すぐ側に居るのに、ギンの姿が皮膜に包まれたように曖昧だ。


 ただ、今日のギンは、初めて会ったときと同じ、黒の紋付き袴姿だ、というのはわかる。かくいう私だってそうだ。巫女装束に、頭冠をつけていて、頭を少し動かすだけで金細工がさらさら音を立てる。


 洋子おばさんが着替えを手伝ってくれたのだけど、ちょっとだけ化粧もしてくれた。横目で見ていたお母さんは、「まだ早い」だの、「リップ程度でいいわよ」と五月蠅いから、結局ファンデーションと眉を整えた程度。ただ、お母さんが目を離した隙に、「どれがいい?」と口紅を何本も見せてくれて、好きな色を塗って貰った。案の定お母さんは渋い顔だ。


「もう、戻ろっか」

 私はギンを促す。


 今、山頂の神社では役員さんと婦人会のおばさん達が総出で片付けをしているはずだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る