第35話 誰か助けて

 一瞬。

 夜空を見上げ、自分がどうなったのかわからなかった。


 背中を打ったから、肺から一気に空気が抜け、むせる。


 上半身を起こそうとしたら、横殴りに蹴られて、さらに咳き込んだ。


「お前は昔っから、邪魔ばっかりして」


 もう一回、蹴られる。

 体を丸めて防ごうとしたけど、肘を蹴られて悲鳴を上げた。


 髪の毛を後ろから掴まれ、引き倒されたのだ、と気づいたときには、もうお父さんが真横に居て。


 警棒を振り上げていた。


「……あ……っ」

 誰か、と叫ぼうと思ったのに、むせて咳き込んで、痛くて泣きたくて。

 まともな声が出ない。


 誰か。

 頭を抱えて踞る。


 誰か。

 地面に額をこすりつけ、できるだけ小さくなる。呼吸が速いから土埃を吸い上げ、泣きながらむせた。


 誰か。

 助けて。


――― ……ギン……っ


 なんとか叫ぼうとしたときだ。


 ドラムロールのような。

 遠雷のような音が真横で聞こえた。


 咄嗟に。

 お父さんの持っている警棒の電気が光る音だと思った。「ひっ」。声が漏れる。体を強ばらせた。腰に、さっきの衝撃と痛みが呼び覚まされて、涙がどっと溢れる。


 だけど。

 痛みも。

 衝撃も。

 音も。


 なにも、起こらない。


 どうしよう。

 顔を、起こした方がいいんだろうか。

 周囲を見回した方が良いんだろうか。

 何が起こったのか確認をした方が良いんだろうか。


 でも、一度痛みが呼び覚ました恐怖は、簡単には消えてくれない。


 地面に額をこすりつけ、頭を抱え、膝を丸めたまま動けない。

 荒い息は涙を押し出して、私は顔中涙で濡らして踞る。


 そんな私の周囲の空気が、動く。

 風が吹いたんじゃ無い。

 何かが動いたから、空気が揺れたのだ、と知れた。


 私の周囲を取り巻くように動いた空気は、だけどぴたりと止まり、そして。


 同時に、予想外の感触が腕に伝わってきた。


「わあっ」

 声を上げて反射的に上半身を起こす。


 涙で曇る目の前にいるもの。

 私の腕を、ふわりと撫でたフサフサの感触。


 そこには。

 灰色の毛に白が混じる。

 銀色のオオカミがいた。


 大きい。

 その体高に息をのむ。


 お尻をぺたりと付けて座っている私より目線が上だ。


 のしり、と踏み出す脚の。

 掌というか、手というか。


 それだって、大きい。指の一本一本も太くてもっさりしている。カワウソの手などおもちゃかぬいぐるみに見える。尻尾だって、あれなに。そりゃ、襟巻きにだってなりますよ。


 呆然と。

 月光を受けて銀色に輝くオオカミを眺めていた私だったけれど。


 ぐい、と長い鼻先が私にむけられた。


 ぎょっと背を逸らす。

 その拍子に気づいた。


 このオオカミ。

 榛色の目をしている。

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