紅葉谷山花嫁御寮輿入綺譚
武州青嵐(さくら青嵐)
第1章
第1話 私だけが、見えている
自治会長さんに連れられて入った座敷は。
てんやわんやの大騒ぎだった。
「ぼくの席が無い――――っ」
主に、そう言って大声で泣いているのは、二足歩行をしているカワウソだ。
栗渋色の背中を丸め、ぽってりとした拳で目元をこすって泣いている。先端に行くほど細くなる長い尾は、力なくだらりと畳に垂れ、時折短い足でばたばた地団太を踏んでは、「ふぇぇぇん」と情けない泣き声を上げていた。
「仕方ないじゃろ。人間が、三つしか用意をしとらんのじゃから」
少し意地の悪い、低い声が聞こえて私は座敷の東側を見る。
襖を背に、塗りのお膳が三つ、用意されていた。
その御膳の前にはそれぞれ3人が座っている。
全員、紋付き袴の装束だ。
一番上座に近い席に座っているのは、でっぷりと太ったあせっかきのおじさん。やけに、目の下の隈が濃い。暑くて体調が悪いんだろうか。今も、着物の合わせを乱して扇子でぱたぱたと風を送っているが、顎から汗が垂れている。
真ん中に座っているのは、私のお母さんと変わらない年齢の女の人だ。紋付の羽織を肩から羽織っているものの、なんとその下は派手な桃色の振袖だ。高く結い上げた髪を気にしてか、しきりに襟足に細い指を這わせていた。
そして一番下座に座っていたおじさん。
それが、さっき、『人間が、三つしか用意をしとらんのじゃから』と声をかけた人物のようだ。
……なんというか。
カラス、だった。
体は人間で、ちゃんと羽織袴をつけているのだけど、顔が完全にカラスだ。
「ぼくも、御馳走食べたい――――――っ」
どんどんと床が小刻みに揺れたと思ったら、カワウソが、尻尾で畳を叩いたらしい。
良く考えたら、こちらは頭どころじゃない。全身「カワウソ」だった……。
「あんたの分はないの」
冷たく言い放ったのは、振袖の女性だ。潤んだ口唇をきゅうっ、と歪めて座敷の真中にいるカワウソに言うモノだから、カワウソが更に大声で泣いた。丸めた両方の手で、目を覆い、ふくふくしたマズルを膨らませて泣く様子は、身悶えするほどに可愛いけれど。
可哀想でもある。
それなのに、お膳の前に座った年長者三人は、にやにや見こそすれ、声掛けをするとか、宥めるとか、そんな様子は露とも見せない。
さすがになんだか腹ただしくて、私が何か言ってやろうとそう思った矢先だ。
「カワウソ。どうせ、俺は食べないからお前にやるよ」
聞こえの良い、さらりとした声が上座から聞こえた。
カワウソの丸い耳が、ぴくりと動き、丸めていた背をぴんと伸ばす。
「ホント!? ギン!」
私に背を向け、カワウソが尋ねる。
カワウソが立ち位置を変えたからだろう。
私の位置から真正面にしつらえられた、上座が見えた。
床の間には、達筆な文字で何か書かれた軸が掛けられ、その前には塗りのお膳が二つ並んでいる。
その、私に向かって左側。
そこに座っている、黒装束の男の子がカワウソを手招いていた。
年は、私と同い年ぐらいかもしれない。
高校生、だと思う。大学生には見えなかった。
つやつやな黒髪は流すように切りそろえられていて、切れ長の瞳が随分と涼しげだ。何かスポーツでもしているのか、がっしりとした大柄な体つきが、落ち着いた声音に随分と似合っていた。
「来いよ」
ギンと呼ばれた男子は人懐っこく笑い、気さくに声をかける。カワウソは四足になって、飛ぶように駆けた。ぽん、ぽん、ぽん、とみっつ跳ねたかと思うと、ぱふりと音を立て男子の胸に抱きつく。
「オオクチよ。主賓が喰わいでどうする」
でぶでぶおじさんが顔をしかめ、ついでに羽織の袖で顎の汗を拭った。隈がパンダのように見える。ふう、と姿勢を崩した拍子に、茶色でふっさりした、先端の丸い尾が見えて、ううん、と私は目を凝らす。このでぶでぶおじさん。尻尾がある……。
「食べたいものが無いからいい」
答えたのは、さっきカワウソが「ギン」と呼んだ男の子だ。でぶでぶおじさんは、オオクチと呼び、カワウソはギンと呼んだ。
「
不意に自治会長さんに名前を呼ばれ、私は肩を震わせるほど驚いた。
奇妙奇天烈なこの座敷の光景に目を奪われていて、自治会長さんのことや、自分の役目のことをすっかり忘れていた。
「しばらく、待ってて。みんなまだ来てないみたいだから、呼んでくるよ」
自治会長さんが顔をしかめてそう言うのを、私はあっけにとられて訊いた。
「……え? まだ、来ていない……?」
呟くようにそう言い、再び視線を座敷に戻す。
東側に並んで座る三人。
上座に座る男子。
その男の膝の上で、ごきげんなカワウソ。
……ひょっとして、これが、見えていない?
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