アリアドネリブート

@nightvision

テセウスは必ず私を裏切る。

 どんどん小さくなっていく船影を冷めた目でアリアドネは見つめていた。

 この島に置き去りにされるのはこれで何回目になるのだろう。

 ため息をついて、指を曲げて数を数えはじめる。両の手の指を何度も何度も折り曲げていくうち

 に彼女は回数を数えることをやめた。


「なぜ、ため息をついているんだい子猫ちゃん。優男のテセウスに捨てられたのはショックかもしれんが、目の前にこんなイイ男がいるんだ。新しい恋に前向きになってみるのも悪くないんじゃないかい? ……まあ、ちょっと年の差はあるかもしれんがな」

 彼女は振り返って、そこに立っていた筋骨隆々とした中年男を睨みつける。上半身は裸で引き締まった体つき。腹も出てはおらず腹筋は割れている。下半身は腰布一枚しかまとっていないが、そこから伸びた足はすらっと長い。

 そして顔も彫りの深い顔立ちで、ハンサムと言ってよいだろう銀色の髪と浅黒い肌はどこか軽薄な印象を与えるが、その目は老獪さと落ち着きを感じさせる。

 男は笑みを浮かべたまま彼女を無言で眺めているが、あちこちから笑い声が聞こえてくる。大勢の若い男女が彼女と男の周りを囲んでいた。男も女も半裸で、中には抱き合って乳繰り合っている者までもいた。

 そしてその中には人間とは思えない、ヤギのような角が生えた男だとか妖精めいた女がちらほらと混ざっていた。

 しかし彼女はそんな異形の者たちに対し驚きは見せない。もう何度も見たことのある連中ばかりだからだ。


「アリアドネよ、テセウスはお前を置き去りにして故郷に逃げ帰った。そんな男は忘れて俺の花嫁になれ。あのフニャチン野郎よりはお前を満足させられると思うぜ」

「あの糞馬鹿野郎には恋愛感情なんてなかったわ。私が求めていたのは『島』の外の世界に連れ出してもらうこと、それだけだった」

「いかにもお嬢様の発想だねえ。外の世界には危険が一杯だぜ。王子様だと思った男に利用されて捨てられるなんてことは日常茶飯事だ。クレタ島の宮殿でお姫様としてちやほやされてた方が良かったんじゃないのかい」

「そうね……。確かにあの島で迷宮の巫女として暮らしていれば何の不自由なく暮らしていけたと思う。でも私は物心ついた時から外の世界にあこがれてたの。きっとそこには私と運命を共にする『半身』がいるはずだから」

「お前の運命の相手はこのデュオニソスだよ。神の妻になることに何の不満がある?」

「あなたは私の運命の人じゃないわ。あなたに出会った時、私の心に暗雲が立ち込めても稲妻が私の心臓を貫くことはなかったもの」

「言ってくれるねえ。けれど外の世界に出たところで運命の人に会える保証なんてないだろう。目の前にいる男で満足する気はないのかい?」

「あなたは確かにイイ男で私をお姫様のように扱って幸せの絶頂に導いてくれるのかもしれないわ。でもあなたは私を何かに利用しようとしている?そうでしょう?」


 デュオニソスは不意に真顔になるとアリアドネの目をじっと見つめた。

「ああ、その通りだ。だが、俺はお前を利用したいと思っている。だが、そんなことのどこが悪い。俺がお前を利用するならお前も俺を利用すればいいだけのことだ。男と女の関係っていうのはそういうものだろう?」

「世間の恋人たちというのはそうなのかもね。けど私が求めているのは利用し合うだけのパートナーじゃなくて魂を分け合う半身なの」

「半身、ねえ。俺にはよくわからんなあ。そんなもんは夢見る女の子の空想の中にしかないんじゃないのかい?」

「世界中を探せば見つかるかもしれないわ」

「けど、お前が行ける場所は今や俺の腕の中だけだぜ。あるいは海に飛び込むかだが、そんなことをさせるほど俺は甲斐性ナシじゃないんでな」

「そうね、どんな方法で島を出ても私はあなたに捕まってしまう運命なのかもしれない」


 けれど。アリアドネは心の中でひとりごちる。

 私は島から外の世界に脱出することに何度も何度も失敗してきた。英雄になりそうな男を誘惑して船隊に乗り込んでも、一人で船を盗んでも、ダイダロスの発明品で空を飛んでも必ずディオニソスのいるこの島に彼女は流れ着き荒々しい神に捕まる運命を辿ってきた。

 ひょっとしたらクレタ島から脱出する方法なんてないのかもしれない。

 冥宮の巫女として一生を終えるか、あるいは神の花嫁になるか二つの選択肢しか自分の前には示されていない。そんな風に思ったこともあった。

 けれどアリアドネはいちかばちか第三の手段を取ることを考えていた。

 海から逃げても空から逃げても自分の身が冥王ミノスの手から酒神ディオニソスの手に落ちるだけならば。

 命をかけて冥宮に挑む。それが自分に取れる最後の道だろう。テセウスは必ず私を裏切る。だとしたら私自身が冥宮に挑み、ミノタウロスを倒し生贄たちが赴く冥界へと向かう。その道こそが外の世界に脱出し半身と出会う唯一の道なのかもしれない。

「私を花嫁に選んでくれたことは感謝するわ。けれど私は半身を追い求める。さよならディオニソス様。私とこうして出会ったことは『なかったこと』になってしまうだろうけど」


 そう言った途端にアリアドネの髪の毛が光り出し蠢き出した。毛先はくるくるとドリルのように螺旋を描き毒蛇のように宙に向かっていった。そして空はひび割れ髪の毛に導かれアリアドネ自身もひび割れの中に吸い込まれていく。

 迷路の中でほどいた糸玉を辿るようにアリアドネは時をさかのぼっていった。

 その様子をじっとディオニソスは眺めていたが、やがてにやりと笑みを浮かべた。

「可愛い花嫁よ、せいぜいあがくがいい。お前は最終的には俺の伴侶として新たな世界の作り手になるのだからな」

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