第98話


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 若い保育士が黒いツナギ服の男に車検の費用や自動車のキイを渡すところを、児童養護施設の園長が事務室の窓を通して見ていた。不安は募るばかりだ。その思いが自分の痩せた体を更に貧弱に見せているらしい。最近よく、「どこか具合でも悪いんですか」と人から訊かれる。

 私用で中古車の業者が施設内に入ることは知らされていた。それは問題ない。園長を悩ませていたのは保育士の五歳の子供に対する愛情の注ぎ方だ。まるで普通じゃなかった。今もそうだが、いつも一緒にいる。溺愛と言っても過言じゃない。それが毎日どんどん酷くなる。いくら忠告しても彼女は聞く耳を持たなかった。

 園長は十九歳になる我が子のことを考えた。口に出して言うことはないが、自慢の息子だと心の中では常に思っている。自分なりに一生懸命に愛してきた。それ故に叱ったり、喧嘩したりすることも数多い。だけど、それが普通じゃないだろうか。あの若い保育士の接し方は、どこか変だった。

 中学では息子のクラスメイトで優秀な生徒だ。それが友達に唆されてやった万引きを切っ掛けにして成績が落ちていく。結局は君津商業へ進むのが精一杯だった。卒業すると駅前のパチンコ店で働き始めた。半年もしないで夜の仕事に移る。金遣いが荒くて、とうとう高収入が期待できる風俗店へ面接に行く。娘の素行に困り果てた両親が相談に来て、手を差し伸べることにした。いい子だっただけに立ち直ってもらいたい。物欲に囚われないで自分を大切にして生きることを諭した。この施設で二年間勤務させてから、保育士の免許を受けさせた。

 合格してくれて良かったが、保育士として相応しくないぐらいに男友達が多かった。いつも仕事が終わると外に誰かが待っていてデートに行く。毎回のように人が変わった。他人のプライベートに口出しはしたくなかったが、注意すべきだと判断した。あまりにも男女関係が激しい。

 ところが手遅れだった。その前に事件が起きてしまう。写真撮影を許した男に乱暴されたのだ。大声を上げてレイプされるまでには至らなかった。スターレット・ターボの頭金を出したのに抱かせてもらえなかった男の欲求不満が爆発した形だ。近くのローソンへ、全裸に近い姿で逃げ込んで助かった。中学の頃からカメラが趣味だった男は警察に強制猥褻で逮捕されて懲役刑に服している。

 これからは生活態度を改めるように、しっかり注意した。そして護身用のボールペンを買って持つべきだと助言を与えた。普段は筆記用具で、いざとなれば車の窓ガラスを割れるし、強力な武器にもなる便利な品物だ。他の職員、特に若い女性スタッフには強く勧めていた。

 反省した表情の保育士の口からは、もう一度に付き合う男性は三人以内にします、という言葉が出てきた。

 呆れてモノが言えない。じゃ、これまで同時に何人の男と付き合ってきたの、と聞き返したかった。  

 男の子は五歳になって乳児院からこの児童養護施設へ送られてきた。何か問題があって両親に育ててもらえない幼児が辿る通常の移動だ。しかし園長だけは、その子供に関係する書類には記載されていない事実を聞かされていた。なんて、おぞましい。

 あの子の母親は中学校の美術教師だった。魅力的な女性で、大勢の生徒たちから慕われていたらしい。ボーイフレンドも何人かいたようだが、未婚のまま双子の男児を出産。しかし一人は死産。傷心だったには違いないだろうが、その後に彼女が起こした行動とはどう考えても結びつかない。

 産婦人科の保育室で赤子に母乳を与えていたのが、母親が最後に見せた正常な姿だ。近くにいた助産婦が電話で呼び出されて――イタズラ電話だったらしい――戻ってくると、その母親は隣に寝ていた他人の赤ん坊の首を鋭利なナイフで切り裂き、逆さに吊るして流れ落ちる鮮血を自分の子供に浴びせていたと言うのだ。書類では、母親は心神喪失で施設へ収容としか書かれていなかった。

 次は何をしでかすか分からない。危険なので母子は直ちに引き離された。彼女の几帳面だった性格も一変して、移送される際でも身の回りの整理は全く出来なかった。ただ奇妙なことは、知り合いの女が見舞いで持ってきた白いチューリップの花――飛び散った血で赤黒い染みがついていたにも関わらず――を、母親は大切そうにずっと手にしていたらしい。

 ああ、恐ろしい。

園長は聞いてしまったことを後悔した。忘れようと努めれば努めるほど、頭の中に鮮明な絵が浮かんでくるのだ。

 シーツが乱れたベッドの横で椅子に腰掛けて空を見つめる放心状態の母親。かつては美しかったが、その面影は残っていない。老婆のようだ。ただ痩せ細った手で赤黒く汚れたチューリップを大事そうに握っている。そんな夢を見ては夜中に何度も目を覚ました。

 もしかして呪われた子なのだろうか? 高い教育を受けたはずの園長の脳裏に、最近そんな非現実的な言葉が頻繁に現れる。その度に理性で否定するが、保育士とその子供の異常なほどに親密な関係を見ていると徐々に自信が無くなっていく。今では子供の方が相手を操っているようにも窺えたし、世話をする保育士の顔には恋をしている女の表情さえ浮かぶ時があった。日報にしては、あの子のことしか書いていない。

 子供が普通の子であってほしい、と切に願う。特別に聡明でなくていい。何かに秀でていなくてもいい。無邪気に遊んだり泣いたりする五歳の幼児の姿を期待した。

 この児童養護施設で自分がコントロールできない何かが進行している思いが消えない。あの子が施設に来て以来、不安で園長の体重は減り続けている。

 お昼近くだった。その保育士が画用紙を片手に、前年度分の領収書を整理していた園長の前までやって来た。足音からして何か急いで知らせたい事が持ち上がったのだろう。ところが彼女は無言で、しかも一方的に子供が描いた絵を机の上に広げたのだ。仕事中の上司に対する態度じゃない。年齢だって親子ほど離れているのに。せっかく束ねた領収書が散らばってしまうじゃないの。ムッ、と腹が立った。何も説明しない方が相手に強いインパクトを与えると、彼女が勝手に判断したのが明らかだ。だから敢えて、すぐには画用紙に目を落としてやろうとはしなかった、ところが--。

 「えっ」思い通りにはなるまいと身を構えた園長だったのに、反射的に驚きの声を漏らしてしまう。

 絵そのものは五歳ぐらいの子供がクレヨンで描いた稚拙なものだった。花壇に咲いた花を写生したに違いない。特徴的な形だから種類も分かる。ところが、その植物は異様にも全体が真っ黒に塗り潰されていたのだ。

 なんで、一体どうして? チューリップが真っ黒なの。 

 保育士の声には相手の反応に満足した響きがあった。すっかり自分の発見に興奮しているらしく、まるで我が子を友達に自慢する口調に聞こえた。「あの子ったら、地面に映ったチューリップの影を描いたんだって。どう、凄くない? ねえ」

園長の女は若い保育士の言葉遣いを窘める気にも、また子供の非凡さに感心する彼女に同調しようという気持ちにもなれなかった。それどころか、いきなり頭から冷水を浴びせられたみたいに戦慄が全身を貫いた。

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