第96話

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 訳が分からない。あの教頭先生の態度は理解に苦しむ。あんなにも簡単に感情を露わにする人とは思わなかった。たかがカラスが飛んで来たぐらいで。それもだ、カラスと聞いた途端に震えだしたりして。

 これから三年Α組の生徒たちと初めて顔を合わすというのに、加納久美子は本郷中学に居心地の悪さを感じた。

 同僚の先生たちは普通に挨拶をしてくれて歓迎の言葉も添えてくれた。しかし何か腑に落ちない。何か大事なことを隠されているような気がしてならなかった。

 時間になって加納久美子は教頭先生に連れられて自分が担任を務める教室へと向かう。足取りは重かった。二人の間に会話はない。

 クラスは三階にあって窓からは校庭の隅々まで見渡せた。最初に教頭先生が紹介してくれたが言葉数は少なかった。この場から早く立ち去りたいという気持ちが窺えた。

 教頭先生が教室から出て行って教壇に一人になると少し気が楽になった。「みなさん、おはようございます。今日から三年Α組の担任になりました加納久美子です。よろしく」

 一呼吸して生徒たちの顔を見る。みんなが笑顔だ。このクラスはまとまりがあって教えやすいと聞いていたが、その通りらしい。「みなさんの顔と名前を一致させたいので、さっそく出欠を取ります」

 静かだ。意味のないジョークを飛ばして注意を引こうという生徒はいない。久美子は名簿を開き、あいうえお順になっている名前を読み始めた。「青木大輔」

「はい」

 久美子は声のした方向に目をやり、生徒の顔を確認する。「伊藤信行」

「はい」

「石橋涼」

「はい」

「植木哲也」

「はい」

 十五人いる男子生徒の名前が終わりに近づいたときだった、窓の外で物音がした。バサっという紙の束が地面に落下したみたいな響き――。「あっ」A組の生徒たちを前にして久美子は驚きの声を上げてしまう。

 見ると、窓の外側にある手すりに黒い鳥が一羽とまっていた。久美子は瞬時に思った。教頭先生を襲ったカラスに違いない、と。これって、どういうこと? まさか、――そんな。教頭先生に急降下したのは偶然じゃなかったの。

 次の瞬間、加納久美子の全身が凍りつく。

 生徒たちは笑顔のままだった。誰一人として窓に振り向いた者がいない。物音は聞こえたはずだ。ど、どうして? 何人かの女子生徒が軽い悲鳴を上げても不思議じゃないのに。全員が新しい担任教師に顔を向けて無言で先を促していた。

 これは、……どうして。久美子は次第に息苦しくなっていく。つらい。身体に力が入らない。無理そう。これが終わったら早退したい。せめて出欠だけは最後まで……。

 「渡辺」やっと次の男子生徒の苗字を口から搾り出す。が、すぐに声が出せなくなった。先が続けられない。まさか……、これも偶然じゃないのかもしれなかった。力を振り絞って名前を呼んだ。「拓磨」

「はい」

 不安は的中。声には聞き覚えがあった。悪寒に包まれながらも返事をした生徒を目で捜す。息苦しさと共に心臓の鼓動が早くなっていく。窓側の最後列、そこに半年前に加納久美子を犯そうとした少年の姿があった。取り逃がした獲物を再び見つけたような目で笑っていた。

 うっ、嘘でしょう? ……信じられない。



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