第48話『こころ』

 7月22日、月曜日。

 ゆっくりと目を覚ますと、部屋の中はうっすらと明るくなっていた。部屋の時計を見ると、午前6時半過ぎだった。

 昨日の夜はエリカさんと一緒に寝たけれど、今は彼女の姿はない。平日だと俺よりも先に起きるのが普通になっているけど、今はそれが寂しく思える。掛け布団やシーツに彼女の温もりや匂いが残っているからか尚更。

 寝室を出てリビングへと向かうと、そこにはいつも通り、エプロン姿のエリカさんとメイド服姿のリサさんがいた。


「あっ、おはよう、宏斗さん。もう少しで起こそうと思っていたんだけど、起きてきた」

「おはようございます、宏斗様」

「おはようございます、エリカさん、リサさん」


 メイド服姿のリサさんももちろんだけれど、エプロン姿のエリカさんもとても可愛らしい。好きになるってことは、見える景色も違ってくるのか。ただ、このままだとニヤニヤしてしまいそうで恐い。


「どうしたの、宏斗さん。手で両眼を隠して」

「……ま、眩しいなと思って」

「起きたばっかりだとそういうことってあるよね。さあ、仕度してきて。朝食を用意するから」

「分かりました」


 思った以上にドキドキするな。今の状況が続くと、エリカさんやリサさんに変な態度を取ってしまいそうだから、早く告白する勇気を身につけないと。

 朝の身仕度をして、俺は2人の作ってくれた朝食を食べる。今日も美味しいな。彼女達が来てから朝食をしっかりと食べるようになり、それまで以上に仕事に集中できるようになった気がする。


「ごちそうさまでした。今日も美味しかったです」

「ふふっ、良かったです。今日もお仕事を頑張ってくださいね」

「それで、今日もお昼ご飯には……はい! 2人で作ったお弁当と冷たい緑茶だよ」

「ありがとうございます。どんなものなのか楽しみです」


 俺はエリカさんからお弁当と水筒の入ったバッグを受け取る。

 大学になってからはお弁当よりも食堂で食べる方がいいと思っていたけれど、今はお弁当もとてもいいと思えるようになった。とても美味しいから、たまに愛実ちゃんにおかずをおねだりされるけれど。


「じゃあ、仕事もいってきます。何もなければ、7時までには家に帰ることができると思います」

「かしこまりました。帰りが遅くなるときは、ダイマフォンで私達に連絡をください。いってらっしゃいませ」

「お仕事頑張ってね、宏斗さん。いってらっしゃい」


 すると、エリカさんは恒例になりつつある頬のキスをしてきた。ただ、今日のキスはこれまでとは何だか違う感じがして。とても体が熱くなって、ドキドキする。思わずエリカさんから視線を逸らしてしまう。


「どうしたの? 宏斗さん。いつもと違って顔が赤くなっているけれど」

「えっ? キ……キスっていいなと改めて思っただけですよ」

「ふふっ、宏斗さんも可愛いことを考えるんだね。じゃあ、私にもいつもみたいにキスして。宏斗さんさえ良ければ唇でもいいけれど」

「へっ? い、いつも通り頬にします」


 俺はエリカさんの頬にキスをする。心なしか、今日のエリカさんの頬は柔らかくて甘い匂いがする。


「今日のキスは長かったね。じゃあ、いってらっしゃい」

「……いってきます」


 会社に向けて俺は家を出発する。

 梅雨明けして、夏も本番になったからか朝から暑いな。去年のような猛暑にならないといいけれど。昼はまだしも、朝晩は早く涼しくなってほしいものだ。

 電車に乗ると、学生さんが夏休みだからか、先週までよりも空いていた。そういえば、去年の今ごろもこんな感じだったか。出勤があまり苦痛にならないのは仕事をする上でも大きい。

 普段よりも気分のいい状態で会社に到着。すると、今日も愛実ちゃんは俺よりも先に出勤してきていた。


「おはよう、愛実ちゃん」

「おはようございます、宏斗先輩。何だか今日はいつもよりも顔色がいいですね」

「電車が先週よりも空いていたからかな。高校生までは夏休みだからさ」

「有希ちゃんも一昨日から夏休みですもんね。そういえば、あたしの方も空いてました。きっと、8月になったら、大学生もお休みになりますから更に空くでしょうね」

「そうだね。……いいなぁ、長期休暇」

「羨ましいですよね。改元で今年のゴールデンウィークが10連休を過ごしたからか」

「うん。休んでいる間は10連休が長く感じたけど、仕事してると10連休したいなぁって思うんだよなぁ」

「分かります。……あっ、来月のお盆の時期に、夏期休暇と有給休暇を使ってお休みをいただこうと思うのですが、いいですか? 帰省したり、ゆっくりしたりしたいと思って」

「もちろんいいよ」


 お盆とその周辺で休暇を取るチームメンバーが多いな。スケジュールもキツくないし、俺もその時期に夏期休暇を入れようかな。そのときにエリカさんやリサさんと実家に帰省できればいいな。

 そんなことを話しているうちに、始業時間である午前9時を過ぎた。今週も仕事を頑張るか。何か大きなトラブルや変更、先週のような出張が入ったりしなければ、残業せずに一週間を過ごすことができると思う。

 しかし、何でだろうな。仕事を始めた途端に、エリカさんの顔ばかり思い浮かぶのだ。テレパシー魔法でお仕事頑張ってと囁かれている気がするのだ。彼女のことが好きだからって、仕事に支障を来たしてはいけない。集中しないと。


「……ぱい。先輩!」

「うん?」

「プログラムで分からないところがありまして……」

「そうだったんだ。ごめん、集中しすぎて気付かなかった」

「いえいえ。ただ、先輩……いつもと違って、タイピングの速さや音が尋常じゃないですよ。何かあったんですか?」

「ううん、何にも問題ないよ。ただ、いい休日を過ごしたからその分集中しただけさ」

「それならいいですけど。今、大丈夫ですか?」

「うん。どこが分からないのかな?」


 エリカさんのことを考えないようにしていたら、普段以上に鵜を動かしてしまっていたのか。こうなるのも、誰かのことをこんなにも好きになるのが初めてだからだろう。

 いつも以上に集中して業務をした時間もあってか、今日の分の仕事は大分早く終わった。愛実ちゃんなどのメンバーも、特に問題なく進んでいるようだ。

 夕方に長めの休憩を取って、休憩スペースでコーヒーを飲みながらエリカさんのことを考える。


「……好きっていう一言なんだよな」


 勇気を振り絞って好きだと言った愛実ちゃんは凄いし、出会ってすぐにプロポーズまでするエリカさんは超人に思える。微糖のコーヒーを買ったはずなのに、やけに苦く感じる。


「どうしたんですか、宏斗先輩。外の景色を眺めて、缶コーヒーを飲みながら一人佇んで。絵になりますけど」

「……愛実ちゃんか。色々と考えたいことがあって。あっ、お疲れ様」

「お疲れ様です」

「200円渡すから好きなのを買っていいよ。その代わり、少し相談に乗ってくれないかな」

「もちろんですよ」


 200円を渡すと、愛実ちゃんはペットボトルのレモンティーを買った。お釣りを返そうとしてくれたけれど、気分的にあげた。


「それで、どんなことをあたしに相談したいんですか?」

「……仕事絡みじゃないんだけど。その……誰かに気持ちを伝えるときってどうすればいいのかなって。伝える言葉は決まってる。ただ、その人の前に立つと、どうも緊張して勇気が出ないんだ」


 それを愛実ちゃんに伝えたことが、気恥ずかしい。


「なるほど。それで、先輩に告白したあたしにアドバイスをいただこうと」

「うん。そういうことは、愛実ちゃんの方が先輩だからさ」

「……そうですか。あたしも伝えたい気持ちは決まっていても、勇気が出ない時期はありました。でも、今月になってからプライベートでも宏斗先輩と一緒にいる時間ができて、先輩との距離が縮まって。あのときは、今なら言えそうだって思ったから、先輩をあたしの部屋に呼んだんです。勇気や覚悟は必要なのかもしれません。ただ、状況とか勢いも重要かなって思うんです。……すみません、アドバイスになってませんね」

「そんなことないよ。ありがとう、愛実ちゃん」


 状況や勢いか。今はエリカさんにプロポーズの返事を待たせているし、ずっとエリカさんと一緒にいたいという確固たる気持ちがあるから、勢いで告白するのもいいのかもしれない。


「いえいえ。……家に帰ったら頑張ってくださいね、宏斗先輩」


 愛実ちゃんに耳元でそう囁かれた。彼女にもバレているのか。俺の今の状況を知っていて、こんな相談をされたら、気持ちを伝える相手がエリカさんだって分かるか。



 仕事は定時で終わって、俺は夏川方面の各駅停車の電車に乗る。

 夏休みの時期だからか、この時間帯の電車も先週より空いている。有希は宿題をコツコツとやっていくタイプだから、今日からもうやっているだろうな。美夢は大学の期末課題をやっているのかな。

 夏川駅に近づく度に緊張が増していく。仕事が終わって家に帰れるのに、こんな気分になるのはリサさんがやってきた直後以外にはなかった。

 このまま電車の中で、ずっとぽうっとしていたいと思っていた矢先に夏川駅に到着した。

 どこかに寄り道したいと思ったけれど、いつも通り帰ると朝に言ってしまったので、家の方に向かって歩き始める。


「そこのお兄さん。私と一緒にお家に帰りませんか?」


 その声を聞き、まさかと思って振り返ると、そこには桃色のワンピースを着たルーシーさんが立っていたのであった。

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