第6話 神さま

 吹き抜ける風の音で、男はまぶたを開いた。

 聴覚を、嗅覚を研ぎ澄ませ、ゆらりと立ち上がる。


「……なるほど、如何いかにもな「挑発さそい」よ」


 ぽつり、と古めかしい言葉を漏らし、傍らの日本刀を手に取る。

 戸を開き、紫に彩られつつある空を見上げる。黒曜の瞳が、半分ほどの月影を映して金色に輝く。


しばし、様子見と参ろう」


 穏やかな声音が揺らぐことはない。

 男は黒髪を揺らし、泰然と歩を進めた。




 ***




 空中で、奈緒の体勢は飛び蹴りへと変わる。

 放たれた爪先が喉元をえぐろうとするのを、少年は青白い両手で阻んだ。

 ずざざ、と、スニーカーがアスファルトを擦る。


「……ッ」

「どうしたのさ坊やァ! さっきの威勢はどこ行った!?」


 奈緒の一撃は、少年の細い腕に鈍い痛みを与えた。

 わずかに怯んだのは、美和の目でさえもわかる。繰り出される蹴りを寸前で交わし、少年はひらりと宙に舞った。


「……ちょっとからかっただけじゃん。なに本気にしてるの?」


 むくれた様子で植え込みの縁に飛び乗り、少年は赤から碧眼へと瞳の色を変える。


「喧嘩売ったのはそっちじゃん?最後まで付き合ってよ」

「やだね。こう見えて僕は紳士なんだ。……君は思ったより野蛮なお嬢さんみたいだけど」


 うたうようなボーイソプラノが、奈緒のたかぶった心に火をつける。

 地面を蹴り飛ばし、少女のしなやかな身体が弾け飛ぶ。油断した少年の胸元に、鋭い拳がめり込んだ。


「……ッ!? ま、さか……君……も……」


 苦しげに息を吐きつつ、少年はかろうじて立っていた。


「人間だよォ? 先祖代々、何の変哲もないただの人間」


 はぁ、はぁ、と胸を抑える少年の耳元で、少女は囁く。


「弱いね、君」

「……何だと……!」


 牙を剥き出し、再び瞳が赤く光る。

 ……しかし、攻撃を繰り出すことはできなかった。それは決して、奈緒に怯んだからではない。

 ……脳裏に悲鳴が蘇る。


 何度も何度も母をいたぶり、笑った「あの男」よりも、何よりも……


 恍惚とそれを受け入れた母が恐ろしかった。


 別の悲鳴が記憶の蓋を揺らす。


 平然と人を殺し、旨そうに血を啜った父が恐ろしかった。


 少年は、暴力そのものが恐ろしかった。

 それこそ、血を欲して生きるヴァンパイアとしては致命的なほどに。


「……なるほど、やはり「挑発」が能力か」


 ゆらりと、和服の青年が姿を現す。

 あ、と、声を上げたのは美和だった。


「……大上先生……?」


 奈緒が首を傾げている隙に、少年は逃げるよう距離をとる。


「何だよ……お前も、僕を笑うって……!?」


 ぎろりと太郎を睨みつけ、少年は自身を奮い立たせるよう吠えた。


「何。笑いはせぬ。震えの止まらぬ脚で、よくぞ立ち向かった」


 ぎく、と少年は唾を飲む。

 どれほど取り繕おうが、どれほど平気なフリをしようが……この男には


「貴君は、我らが神域を荒らす者ではない。むしろ、不埒物を捕らえに来た側であろう」

「……そうだ。ヴァンパイアの不始末は、僕たちヴァンパイアで片をつける。……僕にだって、それくらいできる」


 唖然とする美和と、瞳を輝かせる奈緒の横で、2人の異形は言葉を交わす。

 ……されど、かたかたと震える身体は、「異形」と呼ぶにはあまりに情けなかった。


「その心意気や良し。……娘御よ、ここはどうか、手を引いてはくれぬか」

「別にいいけど……えーと……大上先生……じゃないよね? 誰?」


 返答までには、わずかなためらいがあった。ふっ、とまつ毛を伏せ、嘆息がちに言葉を紡ぐ。


「……愚弟がいつも世話になっている。我が名は太郎右近。次郎の兄にてそうろう


 2人に深々と頭を下げ、太郎は少年に向き直る。


「大上家41代紅牙守、太郎右近と申す。……して、其方そちらの名は」


 金色の瞳が、赤い瞳を捉える。

 少年の震えが、やがて緊張へと変わっていく。


「……ロベール。ロベール・エカルラート」


 少年は静かに名を告げた。奈緒に激しく打たれた胸を押さえ、よろめく。

 ……「弱いね、君」。……その言葉が悔しくて、やり切れない。

 奈緒はその心情を知ってか知らずか、


「じゃ、帰ろっか美和。お取り込み中っぽいし?」

「え、でも……」


 ロベールにはもはや興味をなくしたかのように、へらりと笑う。

 後ろ髪を引かれるよう、美和が見たのは太郎の方だった。


「帰りは送らせる。……仁左衛門にざえもん

「はっ」


 どこから聞き付けたのか、もしくはどこに隠れていたのか。

 夕闇の影から大柄な男が現れ、奈緒と美和の前に跪く。


「くれぐれも深入りはなされるな。……今宵のことは、忘れた方がよろしい」


 仁左衛門の声に美和はぎこちなく頷いたが、奈緒はロベールの方を振り返る。

 2人の視線がかち合う。

 キッとロベールは奈緒を睨み、奈緒は、「また会おーよ」と笑った。




 ***




「そろそろ梅雨か……。新しい傘、考えとくか」


 牛乳やキャベツを持った晃一が、ぽつりと呟く。


「わたしは……家にある傘でも構いませんよ?」


 卵やレトルト食品を持ったシャルロットが小首を傾げる。家には、晃一が出先で雨に降られた時にどこからか持ってきた傘が山ほど置いてある。


「違う違う。梅雨が明けたら、陽射しが強くなんだろ? ……それなら日傘とか、いるんじゃない?」


 きょと、と、シャルロットは目を丸くする。

 ……そこまで気を回してくれることが嬉しくもあり、それでもやはり、申し訳なくもあった。


「柄って、やっぱり俺じゃわかんないし」


 事も無げに呟きながら、晃一が日の暮れた夜道を先導するように歩く。


「……あ、はぐれないでね、シャルちゃん」


 そして、振り返ってへらと笑う。

 赤くなった頬を必死で隠すように俯いて、シャルロットはその後を早足で追った。

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