◆4-2
地上の町外れ、貴族としては随分とこじんまりとした、ビザールの屋敷にヤズローが帰り着いた時には、夜もかなり更けていた。大体はあの蜘蛛女のせいだ、と限界まで歯を噛み締めながら、勝手口の戸を開ける。
すぐに土間と台所に続いているその部屋には、茶の用意をしている年嵩のメイドがおり、ヤズローを見遣ると冷たい真顔のまま、静かに告げた。
「遅かったですね、ヤズロー。急ぎ身形を整えたら書斎へ。旦那様がお待ちです」
「畏まりました。すぐに向かいます」
まるで針金のような細い体を真っ直ぐに伸ばし、粛々とヤズローを見送る彼女は、メイド頭ドリス。二代前の当主からこの家に仕えており、男爵の乳母でもあった。他の使用人たちが落ち目の男爵家を見限り去ってしまってからも、家のことを全て切り盛りしている辣腕であり、魔女術ウィッカを習得した魔女でもある。
もはや老齢に差し掛かった顔には皺が浮き出ているが、その瞳には決して衰えを見せない鋭さがあった。執事としてのいろはを全て彼女に叩き込まれたヤズローにとって、男爵以外で本心から敬語を使う唯一の相手だ。
炊事場の二つ隣、ヤズローに与えられた私室は、家の中でもかなり狭かったが本人に不満は無い。元々私物など持っていない彼にとって、狭い寝台と着替え――全て同じ設えの執事服――と、後は白布に包まれた大きな専用の槍斧ぐらいしかない。雌蜘蛛の甘ったるい匂いがこびりついた服を脱ぎ捨て、手足の継ぎ目にも慣れたもので綺麗に着替え終わる。迷わず二階に上がり、男爵の寝室の隣、書斎である両開きの扉をノックした。
「失礼いたします」
返事を待たなくても良いと言われているので、すぐに扉を開ける。壁一面に広がる巨大な本棚が詰まった部屋の、片隅に設えられた応接間には、主のほかにも先客がいた。
「あら、ヤズローお帰りなさぁい。もー、この肉団子と話してて息がつまりそうだったのよー、こっちおいでなさいな」
口調だけなら蓮っ葉な女性とも取れるが、声は低い。その声をあげた、ビザールの隣のソファに陣取っていたのは、線は細いが体格はどう見ても男性。南方系のゆったりとした絹の衣装を身に着け、三人掛けの古いが立派なソファの上に堂々と寝そべり、ヤズローを手招きしている。主に対して随分と無礼な格好だが、彼の正体を知っている従者は丁寧に頭を下げる。
「ご無沙汰しております、
「んもー、相変わらず硬いわねぇ」
ヤズローの言葉に肘をついて不満げに眉を上げる彼――瑞香は、ビザールの学生時代からの数少ない友人であった。黒髪に濃い青の瞳は南方人の証であり、この国に留学した際ビザールと知り合った、のだそうだ。以来、本国とこちらの国を行き来しながら、商人として生計を立てている。扱うものは多岐に渡り、男爵家の仕事で必要となる様々なものも用意してくれている。口調がこのような理由は、どうも本国でこちらの国の言葉を習った際、教師が女性だったからなのだそうだ。
「お帰り、ヤズロー。さあさあお前も座りたまえ、ドリスが杏のパイを用意してくれたぞ」
「畏まりました、旦那様」
そんな友人を招いて男爵は上機嫌なのか、ぱしぱしとソファの手すりを叩きながら忠実なる部下を呼ぶ。ヤズローも遠慮なく、瑞香の真向い、主の隣、一人がけソファに腰を下ろす。屋敷の中では、当たり前のように彼も座ることが許されるのだ。
ヤズローが魚醤をかけられそうになったパイを何とか無傷のまま一切れ確保して、遅れてやってきたドリスが三人分の黒茶を入れた後、その杯にも遠慮なく砂糖をぶち込みながらビザールが口を開いた。
「さてさて、ヤズローも帰ってきたので話の続きをしようか。まずは瑞香、頼んでいたものを」
「良いわよ。
その声に、今までずっと瑞香が座るソファの後ろに佇んでいたにも関わらず、完全に気配を消していた男が動いた。恐らくこの部屋にいる者の中では一番高いであろう背と、簡素な南方服の下からでも解る鍛え上げられた体は、どうしても矮躯のヤズローが羨望してしまうもので、見る度にその感情を唇を僅かに噛んで堪えている。
小目と呼ばれた男は、ヤズローの葛藤に気づいた風は微塵も見せず、ただずっと手に持っていたらしい小さな飾り木箱を、主たちが囲むテーブルの上に置いた。蓋が開かれ、ビザールとヤズローがほぼ同時に覗き込む。
「おお! これは素晴らしい! この華美なる装飾は正しく南方国の細工であるな」
「ほほほ、そうでしょう凄いでしょう。あたしの伝手を全力で使った代物なんだから、有難く受け取りなさいな」
箱の中に入っていたのは、美しい銀の小剣だった。レイピアほどの刃渡りは無いが、その細さはまるで針のようだ。鞘や柄には美しい花を彫り込んだ細工が刻まれており、あまり目利きができないヤズローにも高価な代物であるのは解った。
「けど、なんで急に『女性でも使える銀武器の類、出来れば剣、華美ならなお良し』なんて発注かけたのよ。お代は月末払いにしてやってるんだから、何に使うかぐらい教えなさいな」
「ンッハッハ、友達甲斐のあるお前に免じて教えてやろう。美しい淑女に対する手土産なのだよこれは!」
「ヤズロー、こいつの話をまともに聞いたあたしが馬鹿だったから、本当のこと教えてくれない?」
いつものように腹を揺すって笑う男爵に呆れた溜息を吐き、ソファから起き上がって悠々と長い脚を組むと、膝に肘をついて尋ねてくる主の友人に対し、ヤズローは少し迷ったものの、推測される事象をまず主に確認した。
「旦那様、こちらはあの塔の女性に?」
「勿論だとも。淑女に再びお会いする為に、手土産を用意するのは当然だろう? 彼女はあの塔に住まう従者達により、護身程度ではあるが剣術も修めているとお伺いしたのでね」
「え、本気? ちょっと待って、さっきから話半分で聞いてたんだけど、あの首吊り塔で可愛いお嬢さんと会ったって本当なの!?」
どうやら主は親友に対し、今回の仕事について説明をしていたようだが、本気にされていなかったようだ。慌てたように食いついてくる瑞香に、ヤズローは視線で主に確認をとってから話す。
「女性の美醜に関しては正直、良く解りませんが。……旦那様のことを、不愉快には思われなかったようでした」
ヤズローとしても、主にあそこまで不快感を出さずに話す女性を見たのは上司のメイド長ぶりなので内心驚いていたのだが、自分よりも付き合いの長い瑞香にとっても更に驚くべきことだったらしい。
「ウッソでしょあんたの浮名なんて来世になっても流れて来ないって思ってたのに……!」
「ンッハッハッハ! 日頃の行いの成果だろうね!」
「ぃやっかましいわよこの肉饅頭! 振られろ!」
端的な呪詛を吐いてから、寝転び直して瑞香は改めて問う。
「で?」
「ふむん?」
「フムンじゃあないわよ。結局どんな状況なのか教えなさいよ、適当に使ってこっちの飯の種にするから」
お気に入りらしいクッションを抱えて足をばたばたとさせる、かなり無作法な姿すら様になっている。足の長さが主のおよそ二倍はあるからだろうか、とパイを齧りつつ不敬な事をヤズローが考えている内に、主はよいせと身を乗り出して説明に入る。
「では、改めて最初から考えてみようか。かの淑女の名はリュクレール・コンラディン。初代コンラディン家当主の娘であると名乗られた」
「コンラディン家って下手すると建国以前からの家柄じゃなかったっけ? 年齢換算すればとんでもないおばあちゃまね」
「ところがだね、コンラディン家の家系を建国時期の資料で調べてみたのだが、初代コンラディン家当主には直系の子供がいない。後を継いだのは分家の従弟であり、彼が家督を継ぐ前に奥方とも死別しているようだ」
この書斎には、長年シアン・ドゥ・シャッス家が集めた様々な文献が詰まっている。今日一日主はここをひっくり返し、必要な資料を漁っていたらしい。ヤズローにはとても信じられないが、何処に何があるかは目録を見なくても、ドリスも男爵自身も理解しているそうだ。
瑞香も資料の内容について異を唱えるつもりはないらしく、男にしては赤い唇をついと指で撫でてビザールへ問う。
「……ありがちだけど、隠し子っていうのは?」
「無論、有り得るね。それならば彼女があのように『隠されていた』のも納得がいくが――そも、建国より四百年を数えている中、己の魂の形をあそこまで崩さずに保てていることの方が、奇跡に近い。故に――ヤズロー」
「はい、旦那様」
「レイユァに聞いてきたことを教えてくれたまえ。今と、十五年前のコンラディン家に如何なることが起こっていたのかを」
「蜘蛛のお姐さんからの情報? やっぱり気に入られてるのねーあんた」
「不本意ですが。……コンラディン家次男は、奥様の不義を疑っておられるようでした」
「あらま」
貴族の醜聞には瑞香も興味があるらしく、身を乗り出してくる。ヤズローは内容に対する不快さを堪えつつ、グレアムから聞き出した情報を全て主へと告げた。
「なるほどねぇ」
その手の話自体は物珍しいものではないのか、納得したように瑞香が頷く。
「そういう噂、あたしも聞いたことあるわよ。奥方は十年以上前から全然表に出て来たことがないから、噂でしか聞いたことはなかったけど」
「ふむ、ふむ、ふむん。なるほどなるほど」
顎の肉をたぷたぷ揺らしながら、ビザールは何度も頷き、黒茶を一気に飲み干し――大量の砂糖のせいでじゃりじゃりと咀嚼音がした――、従者を労った。
「そして、あの女は生きている、と言ったのだね。ありがとう、ヤズロー。非常に有意義な情報だったよ」
「勿体ないお言葉です」
「あらやだ二人だけで解り合わないでよ。どういうこと?」
理由は解らないが主にとって有力な情報だったことは解ったのでヤズローは密かに安堵の息を吐き、置いて行かれた瑞香が不満そうに唇を尖らす。二人の顔をぐるりと見回し、ビザールは改めて背を椅子に預けた。
「塔で行われた不義の逢引。そうして生まれた赤子と、塔の中の少女。全てとは言わないが、そこそこ繋がってきたよ」
「勿体ぶらないで早く教えなさいな。結局、あんたのお気に入りのお姫様は何者なわけ?」
「自分で名乗っていた通り、彼女は初代コンラディン当主の娘だろう。其処に偽りはまずあるまい。そして彼女の母は、現当主の妻、カメリア・コンラディンに相違ないだろうね」
「――」
あまりにもさらりと言われた聞き捨てならない言葉に、瑞香とヤズローは同時に絶句した。ヤズローが混乱しているうちに、主の突拍子もない言動にも慣れているらしい瑞香は立ち直り、眉間を指で抑えながら問いかけた。
「ちょっと待って。ええとつまりあんたが思うに、その子は、コンラディンの奥様が身籠ったっていう四人目の赤ん坊で、で、そのお相手が――ええ?」
「落ち着き給え瑞香。何も珍しい話では無い、幽霊と番った伝説など、お前の国にも幾らでもあるではないか」
「そりゃあ、そうだけど……有りなのそんなの?」
「ヤズロー、お前ならば知っているだろう? 幽霊とは『物質に触れにくい』が『物質に触れられない』ものではない。強い未練を持つ者ならば、他者の温もりに執着し、乱暴に至っても不思議ではあるまい」
「……納得は、出来ます。ですが、ならば……赤子に、『成長する未練』があった、ということなのでしょうか?」
「赤子とて、母の腹の中から生に対する欲求はあるだろう。流された子が母に取り憑くというのも決して珍しい話でもない。だが、確かに――あそこまで成長出来るというのは、珍しいだろうね。その点、彼女は恵まれていたのだろう。彼女の周りには彼女を守ることを望む幽霊が大勢いた。あのメイド殿を筆頭にして、彼女を健やかに人として育てることが出来たのだよ」
二人の驚きを引き出せて満足したのか、男爵はいっそう朗々と語る。
「だがそれでも、難しいことには変わるまい。赤子の魂はそれだけ無垢で、単純だ。何の寄る辺もなければすぐさま世界に散ってしまうだろう。そうならなかった理由は、もうひとつ」
ぱちりと肉に埋もれるウィンクを従者に決めて、主は言った。
「彼女には、肉――即ち物質の体『も』あるのだよ。紛れもなく、現世に生きる母の腹から生まれて来たのだから」
そんな推論から辿り着いた事実に、従者と客人は今度こそ絶句した。
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