◆3-4
「……まあ、本当に翡翠で造られたお屋敷がありますの?」
「ンッハッハ、吾輩の友人の話が法螺でなければですがね。様々な濃さの緑によって葺かれた屋根に、金の龍が飾られているそうで」
部屋に入ると、思った以上に和気藹々と二人は会話を続けていた。船でなければ辿り着けない南方の国のことを話しているらしく、少女は頬を両手に当てて、好奇心に目を輝かせている。
「想像できません、どんなに美しいのでしょうか?」
「淑女がお望みならば、いくらでもお連れ致しますよ?」
「……いいえ、それは」
しかしその輝きは、ビザールが上げた提案により僅かに陰ってしまった。慌てたように太っちょの男は両手をむいんむいんと揺らしながら振り、深々と頭を下げる。
「おお、これは失敬! お会いしてすぐの淑女にいきなり逢引を求めるとはあまりにも不躾でした、お許しを」
「い、いえ、そのような! お気持ちだけは――大変、嬉しゅうございます」
本当に嬉しそうに、でも済まなそうに――ただ本音の言葉だと告げた話に、メイドがほんの僅か悲しそうに目を伏せて――ヤズローは全く空気を読まずに声をかけた。
「男爵様、そろそろ一刻。お時間ですが」
「おお、残念ですがお別れのようです。もし貴女が許して下さるならば、是非もう一度、出来れば二度、お会いしたいものです」
「男爵様。本当に、ありがとうございます。ですがどうか、もう二度と、お会いしない方が宜しいでしょう。これ以上は……男爵様に、ご迷惑をおかけしてしまいますので。……お見送り致しますね」
立ち上がり、そこで初めて、少女は明確に微笑んで見せた。それは酷く儚く、まるで相手を拒絶するような笑顔で――男爵は何ら気にした風もなく、よっこらしょと立ち上がる。
「ありがとうございます、淑女。すっかり長居をしてしまいました。願わくばどうか――貴女の御心が少しでも、お過ごしやすくなりますよう、僭越ながら尽力させていただきますとも」
そう言った瞬間、男爵はその体からは想像できない速さで淑女の前にしゃがみこみ。
真っ白な少女の手を自分のまるまるとした手でそっと包み、透き通るような手の甲に自分の唇をそっと押し当てた。
「あ――」
驚きに少女が青い眼をまん丸に開いて、傍付きのメイドの眦が吊り上がり、部屋に伏せていた幽霊達が激昂して飛び出すよりも先に――主が笑い、従者が動いた。
「ンッハッハ! では失礼、またお会い致しましょう! ヤズロー!」
「畏まりました、旦那様。――ぅおらァッ!!」
普段の会話では出さないように厳しく躾けられている乱暴な掛け声と共に、ヤズローは、ちょうどタイミングを合わせて床にその身を躍らせた主の背中を、思いっきり蹴り飛ばした。そのまま肉団子は凄まじい勢いで転がっていき、どばんと音を立てて部屋の扉へ突っ込み――吹き抜けの中に身を躍らせた。
「だ――男爵様っ!?」
慌てて少女が駆け出して、階段の先へ飛び出そうとするのをありったけの幽霊が止めているうち、まん丸の体は重力に逆らわぬままひゅーんと落ちていき――ぼんよっ、と床に弾んだ。
「ンォッハッハ! ではまた、お元気でえええええ!!」
肉の体は怪我一つなく、そのままごろごろと丁度開いた正面扉まで転がっていき――、いつの間にかほぼ並ぶ形で並走していた従者も後を追った。人間としては有り得ない動きに幽霊達が呆然としている間に扉は再び閉じられ、何事も無かったかのような静寂が戻ってくる。真っ先に我に返ったのは、淑女の傍付きであるメイドの幽霊だった。
「な、なんなのですかあの狼藉者は……! お嬢様、ご無事ですか!?」
「え、ええ、大丈夫です、ヴィオラ。驚きましたけど……」
ほんの僅か、真っ白だった少女の頬に、花弁のような赤みが僅かに浮き出ている。その姿に幽霊達が体を恨みのままに変形させている中、リュクレールと名乗った少女は僅かに息を吐き、何の痕も無い自分の手の甲をそっと撫ぜた。まるで、其処に残った温もりを確かめるように。
×××
汗の滲んだ掌で懐中時計を握り締めながら、エール・コンラディンは只管その文字盤を眺めていた。
きりきりと僅かな発条の音を立てて、一番長い針が少しずつ、天辺に向かって進んでいく。固唾を飲み、それを見逃さないよう目をはっきりと凝らして。
5,4,3,2,1――
「っ!」
息を飲み、がちん、と音を立ててもう片方の手で抓んだ、鍵穴に差し込まれた銀の鍵を回した瞬間。
「ぬううううん!!!」
「うわああああ!!!」
どばん、と音を立てて扉がはじけ飛び、中から肉団子が飛び出して来た。そのまま巨大な肉塊は叢をごろごろと転がっていき、同時に駆け抜けてきた従者の少年が、
「扉を!」
と声を上げた瞬間、慌ててエールは扉を掴んで閉め、しっかりと鍵をかけた。
「は……、ビ、ビザール殿!?」
安堵の息を漏らしてから、肉塊の正体の名を慌てて呼ぶと、手近な木にぶつかって止まっていた塊がむくりと起き上がった。
「いやはや、見事なお仕事でしたなエール殿! 待ち合わせに遅れることなく、お陰で助かりました」
「い、いえ……ご無事なのですか」
草塗れで悠々と歩いてくる丸い物体におずおずと問いかけると、男はやはり快活に笑い。
「ンッハッハ、問題ありません。この装束は絡新婦アラクーネの糸で編まれた軽くて丈夫、滅多に破れず衝撃に強いというかなり便利な代物なのです! この程度の高さから落ちたぐらいでは、玉の肌に傷もつきませんぞ!」
「旦那様、一番の理由はその肉布団かと」
「そうとも、吾輩のチャームポイントだからな! さてエール殿、ご心配をおかけしましたが、色々と解りましたとも。しかしまだまだ一つ二つ三つ、真相に辿り着くには足りません。今お伝えできることは、この塔に入らない限り、コンラディン家の皆様の安全は保障されております。どうぞ不安に思いませぬよう」
「はぁ……ですが」
「無論、無論、この塔にコンラディン家を仇名す悪霊がいることはまず間違い御座いません。それを如何に祓うべきか、まずは作戦を立て直さねばなりません。――ヤズロー!」
「はい、旦那様」
先刻主を思い切り蹴り飛ばしたことを微塵も見せず、荷物を纏めて立ち上がった従者に対し、ビザールは告げる。
「調べて欲しいことがあるので、洞窟街のレイユァのところへ。吾輩は一旦家に戻るが、客を呼ぶので、日が変わるまでには帰ってくるように」
「畏まりました」
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