◆3-2
しんと静まり返った塔の中に、扉が閉まる、錆ついた重い音が響き渡った。
塔の中は思った以上に広い。エールの言っていた通り完全な吹き抜けで、見上げれば綺麗に丸く切り取られた空が遠く見える。丸い壁面には恐らく屋上まで上がれる、壁に据え付けられた階段が続く。しかしどうも途中からは壁から突き出された只の棒になっているようで、昇るのは中々に恐ろしいだろう。窓は見えないが、階段の途中に幾つか扉が見えるので、見張り部屋のようなものがあるのだろう。
ヤズローは上を見上げながらそう考えていたが、主の興味は床にあるようだった。また体を前に傾げてふんふんと歩き回り、石畳の綺麗な床を見て――首を傾げる。
「おかしいな」
「はい、旦那様」
主の疑問はヤズローにも解った。十五年前から封じられていた塔の中、吹き抜けから落ちてくる雨風や埃などで、床が汚れていてもおかしくない。だが、一ヶ月前に入ったアルテ達の痕跡は確認できないばかりか、床自体が綺麗に磨かれていた。まるで誰かが掃除しているとしか思えない程に。
そして、主の興味は次に、綺麗に磨かれた床に刻まれた神紋に移った。
「しかも、ふーむ。まさか床に銀月とは」
「どのような効力があるのですか?」
「なんだ、気づかなかったのかヤズロー。神紋による結界の効果、ドリスにちゃんと習わなかったのかね?」
シアン・ドゥ・シャッス家に古くから仕えるメイド頭であり、自分の教育係でもある女性の名前を出され、ヤズローの眉間に明確な皺が寄った。確かに習った気がするが、字すらろくに読めない彼にとって覚えるのは非常に骨が折れる行為だった。他に沢山仕事を任されている故、ついついその手の知識は疎くなってしまう。
「……申し訳ありません、浅学なもので」
「ンッハッハ、今にも舌打ちしそうな顔で謝られても怖いだけだぞヤズロー! まあ覚えておくと良い、闘争、暴虐、病と円を描き、死女神を門へと刻む。典型的な『魔の集約』の奇跡だ。ここは封じると言うよりは集める、吹き溜まりのような場所だと言う事だよ」
「……ですが、中心に銀月があれば変わる、と?」
円形の床に彫り込まれているのは、銀月女神ルチアの神紋。邪神扱いはされていないが、金陽に背を向ける者――罪人や、侠者、娼婦、物乞いなど、法の網から零れる者達の信仰を集める存在であり、この国では地下街ぐらいにしか神殿が建てられていない。
「銀月の女神が司るは、解放。地に刻まれれば其処は空となるだろう。少なくともこの塔に紋を刻んだものは、集めるだけで終わらせるつもりは無かったということだね。しかし、ならば何故――」
「……! 旦那様、お下がり下さい」
顎に手指をもちりと当てて考え込んでいたビザールの言葉が途切れ、一瞬遅れで気づいたヤズローが素早く彼を守る位置に立つ。
床に敷かれた石畳の隙間から、じわりと湧いて出た黒い煙のようなもの。それはゆらゆらと揺らぎながらも、集まり、絡まり、形を成す。
それは、鎖だ。黒い何某かで造り出された、数多の鎖。それは、じゃり、じゃり、と鈍い音を立てながら、何かを地の底から引き摺り出してくる。
古めかしい装束を着込み、頸を大きく折り曲げた貴族を。
西方の衣装を纏い髭を生やし、その身に無数の矢が突き刺さっている戦士を。
甲冑にその身を包んだ大柄な、兜に包まれたままの首を小脇に抱えた騎士を。
他にも、他にも、ありとあらゆる場所から滲み出た、黒い鎖に繋がれた白い靄は次々と人の形を取り、塔の中を埋め尽くさんばかりに増え続けていく。
数多の幽霊達は、その姿に差異があれど――皆、やってきた侵入者を胡乱な目で睨み付けている。
「これはこれは、随分と物騒な歓迎ですな」
そんな、常人ならば腰を抜かしそうな状況に、男爵は全く緊迫感を見せず、軽く肩を竦めてみせた。ヤズローが主を守るために腰を落とし、背負った武器に手を伸ばしかけた時、一体の幽霊が口を開く。
『何奴か! 此処をコンラディン家の領地と知っての狼藉か!』
一番豪奢な衣装を着けた、折れ曲がった首のまま壮年の男が問う。
『ここは我らが民の最期の地。何人たりとも侵すことは許されぬ!』
次に西方の装束を纏った、矢ぶすまにされているもう老境に差しかかった男が宣誓する。
『……!!』
最後に板金鎧に身を包んでいるが、首が無い為声を出すことが出来ない男が、腰の剣を抜いてビザール達に向けてくる。
周りの幽霊達も次々と武器を構え――やはり兵士の人種も、兵装も様々であった――侵入者たちを血祭りにあげるべく気焔を吐いている。
しかしでこぼこ主従はこの程度の修羅場に慣れているのか、何を気にした風も無く。
「ふむん? おかしいね」
「何か?」
目の前の敵から目を離さずに身構えていた従者が、その体勢を崩さずに主の疑問を促す。主は全く緊張感無く、豊満な顎をもちもちと摩りながら答えた。
「まずそちらの彼はコンラディン家の者だと言うが、矢傷の彼の衣装はどう見ても長らく我が国と争っていた西方のもの。首なしの彼の鎧には家名も何も入っていないし時代が古すぎる。何の共通点もない、嘗ては敵対もしたであろう彼らが、この地にて共闘する理由があるのかね?」
全く緊張感のないまま紡がれた言葉に、幽霊達は皆一様にその身を僅かに震わせた。驚きの後、警戒心が高まっていくのが解る。恐らくは男爵の指摘が事実なのだろう。
「更に、先日こちらを訪れたアルテ・コンラディン殿は、名乗りを上げた瞬間何の申し開きも出来ずに首を吊られたと聞いた。それよりは圧倒的に胡散臭い我々がやってきたというのに、不意打ちもせずに堂々と脅してくる。故に問いましょう、貴方がたはアルテ・コンラディン殿殺害の下手人ではありませんな?」
断言すると、しんと塔の中は静まり返った。幽霊達はざわめきを止め、初めて見る奇矯な存在に戸惑っているようにも見えた。
「どうにもあなた方は随分と警戒しておられるようだ。突然の訪問については、まず謝罪させて頂きましょう。しかし吾輩達の目的はあくまで、この塔に起こった悲劇を解明すること。そしてそれはコンラディン家の御令息、エール・コンラディン殿に依頼されたものです。もしそのことについて、何か思うことがあるとするならば、ここの主殿にぜひともお話を伺いたいのですよ」
幽霊達の緊張が高まる。ヤズローは己の銀の手甲をぐっと握り締めて構え直す。一触即発の空気が塔に満ち、今にもはじけ飛びそうになった時――
「皆、下がりなさい。わたくしが直接、お客様にお話を致します」
凛と響く、まるで清らかな鈴のような声が、塔の上から響いた。
『お嬢様!』
『お嬢様』
『リュクレール様』
ざわざわと幽霊達は一層さざめき、一斉に塔の上方を見る。つられてビザールとヤズローが顔を上げた其処には――
真っ白な、少女がいた。
屋上に続く階段、其処に立つ少女は、雪のように純白のドレスの裾をふわりと広げ、何の躊躇いも無く、宙を舞った。
思わず、受け止めるべきかとヤズローの足甲が一歩前に出るが、主の手がちょいと服を引っ張った為止められた。
そうしているうちに、白い少女はまるで花びらを散らせず、房ごと落ちてくるかのように、しかしゆっくりと舞い降りてくる。
幽霊達は自然とその場を開け、少女の足を包んだヒールがこつんと床を鳴らすと同時、彼女はドレスの裾を抓み優雅にお辞儀をしてみせた。正しく、貴族の淑女の如く。
「おお、これはこれは」
思わず、といった風に男爵の口から感嘆が漏れる。そうしてしまうことが納得できるほど、その少女は美しかった。
年の頃は精々、成人したばかりの15,6にしか見えないが、透き通るような色白の肌と、ほんのり乗せられた淡い桜色の唇、そして、瞳孔を中心として縦に分かれた二色、金と青の混じった不思議な瞳をしていた。貴族の淑女としては珍しく髪はかなり短く切っていたが、それが惜しいと思える程に美しい銀髪だった。
淑女は、傍に控えて腰を折った幽霊達に労うような視線を向けてから、改めて招かれざる客人であるビザールとヤズローに近づく。その顔は僅かに強張っていたが、敵対心というよりは、どこか怯えを堪えているようにも見えた。
傍らに、恐らく従者なのであろう紫髪のメイドの幽霊をひとり連れ、少女は恭しく、丁寧に客人たちに向かって告げた。
「突然のご無礼、申し訳ありません。彼らはわたくしを守るために、気を昂ぶらせておりました。どうぞ、お許しくださいませ」
「いやいや、これはこれはご丁寧に! どうぞお気になさらず、どう考えても狼藉者は我々ですからな! しかしこのような美しい淑女がいらっしゃるのならば、花のひとつも手土産に持ってくるべきでした。このビザール・シアン・ドゥ・シャッス男爵、一生の不覚! こちらこそ、どうぞ許されたい!」
まるで戯曲に出てくる気障男のように、短い手足を繰りながらおどけた礼をしてみせる男爵に、美しい少女は不思議な色の瞳を瞬かせて――ふ、とほんの僅か、硬い表情を緩ませたように見えた。
「不思議な方ですね、貴方様は。男爵様と、お呼びすればよろしいでしょうか?」
「もったいなきお言葉。まことに僭越ではございますが、美しいお嬢さん、貴方の事は何とお呼びすれば」
「まあ、これは失礼をいたしました。わたくしの名は、リュクレール。リュクレール――コンラディンと、申します。初代コンラディン家の娘として、この塔を領地として預からせて頂いております」
もう一度、ドレープを優雅に抓み一礼をしてから、ほんの少し辛そうに、少女は口を開く。
「……お客様に対して、とても心苦しく思いますが、どうぞお帰り頂ければと存じます。さもなくば――アルテ・コンラディン様の悲劇が、再び行われることになるやもしれません」
そんな、脅しのような台詞を綺麗な声で告げた少女に対し、男爵は――面白そうに、にんまりと笑って見せた。
「成程、つまり――貴女の手では、アルテ殿の悲劇を止めることが出来なかった、ということですかな?」
僅かに少女の肩が揺れ、俯く。同時に、傍に控えていたメイドと、武器を下げていた男の幽霊達が一斉に怒りをあらわにし、男爵を睨み付けたが、すぐに少女は顔を上げた。そこに、僅かな驚きを乗せて。
「皆、おやめなさい。……はい、わたくしは、出来ませんでした。ですが、どうして……男爵様は、わたくしがあの傷ましき事件の、下手人ではないとお分かりになられたのですか?」
言われて、ヤズローもそこに思い至り、驚いた。この塔の幽霊達を率いる謎の少女、恐らくエール・コンラディンが見たという白衣の少女に相違ないだろう。アルテ・コンラディン殺しの容疑者としては筆頭だ。しかし己の主、ビザールは最初から彼女のことを、悲劇を止めようとした側であると断じていた。
さわさわと辺りに疑問の波が広がると、男爵は丸い腹をずいと突き出して見せた。たぶん胸を張ったのだろう。
「ンッハッハッハッハ! これは異なことを仰る。もし貴女がその細腕で、大の男の首を括ったのならば、吾輩がこの塔に入ってきた瞬間に同じようにすれば済むことではないですか。こうやって吾輩の前にお出で下さり、且つ丁寧に辞去を求めて下さる、この時点でかの下手人とは一線を画しているでしょう。何より、こんな美しい淑女が下手人とは、俄かに信じたくありませんからな! ンッハッハ!」
途中まではそれらしい理由が語られたが、最後は完全な個人の感情だった。思わずヤズローは瞼を半眼にして主の背中を睨み付けたが、それに対している真白き少女は。
「……、」
ほんの少し、青白い頬に朱が乗っていて、口をもごもごと動かしている。どうも、社交の場に慣れてはいないらしく、このような軽い褒め言葉でも彼女にとっては中々の威力だったようだ。少女が戸惑っているうちに、男爵は改めて周りを見渡すと、すいと少女に向かって短い腕を伸ばして宣誓する。
「吾輩の望みは、コンラディン家に横たわる暗鬱たる黒雲を排すること。貴女がかの家に連なる方だと仰るのならば、決して忌避したいものでもありますまい。どうかほんの僅かでもよろしいので、この吾輩にお時間をいただけませんかな?」
少女は、やはり迷っているようだった。辺りを見回し、他の幽霊達が戸惑いつつも彼女の決定を待っているのを感じたようで――、ふ、と諦めたような吐息を一つ漏らし、膝を折って頭を下げた。
「畏まりました。お客様を玄関でお帰ししては、コンラディン家の恥ですもの。何分、初めてのお客様ですので、何のおもてなしも出来ないやもしれませんが、どうぞ、お上がりくださいませ」
「ンッハッハ! ――光栄です、淑女。では参ろうかヤズロー! 麗しの乙女の花園へ!」
「言い回しが不愉快です、旦那様」
最後に余計な事を付け加える主に思わずいつも通りの容赦ない罵声を浴びせると、周りの幽霊達はやはり戸惑い、白い淑女は――驚いた後、困ったように、眉尻を下げてみせた。
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