アンディゴ河
◆1-1
――ネージ王国の中で一番広く長い、アンディゴ河は古くから、船を惑わす美しい鳥妖精が現れるという伝説があった。
銀月が支配する夜に船を出すと、どこからともなく美しい女の歌声が聞こえてきて、それに気を取られているうちに舵を奪われ、船を沈められてしまうという。
川辺に住む漁民達は、建国前からこの地に住むものが殆どであり、教えを守り続けてきた。妖精の存在など誰も信じなくても、この辺りの川底は深い場所と浅い場所があり、夜中に船を動かせば船底に穴を空ける危険がある。それを避ける為に生まれた昔からの知恵だと、誰もが思っていた。
しかし他国との貿易が増えてきた今、王都から大きな船が夜でもお構いなしに松明を掲げて航行するようになった。
漁民達はそれを苦々しい目で見送り――その船が、海へ下る途中の岸壁にぶつかって沈むことが多発してから、恐れをなした。
王都の人間は鳥妖精に襲われて船を沈められたのだ。迂闊にあれの怒りを買えば、我々の船も襲われるかもしれない。あんな大きなお貴族様の船も沈められてしまうのだ、我々の小さな漁船などひとたまりもない――。
漁民達の生活は決して楽なものでは無く、船を出せなければ村ごと飢えてしまう。
どうするかと村の長達が集まり、益体も無い話し合いをしている中――その男は集会場の扉を力いっぱい引き開けて、朗々と宣言した。
「やあやあ、この村の長殿達とお見受けする! 吾輩の名はビザール・シアン・ドゥ・シャッス、化け物退治を生業とする者だ! 君達の不安はこの吾輩が全て取り除く故、安心したまえ!!!」
胡散臭い。その一言に尽きた。
従者らしい浅黒い肌の少年を一人だけ連れたその男は、声だけは非常に立派な、威厳のあるものだったが、それを発した体が色々と台無しにしている。
何故ならその男は――太っていた。
貴族ならばその暴食が体に出ている者も珍しくは無かったが、それにしても酷く太っていた。
腹が出ている、というよりは、球体に手足を突き差した、と形容した方が良い。その腕も足もぱんぱんに膨れており、折角の綺麗に仕立てたのであろう絹の装束が今にも悲鳴を上げて破れそうだった。顔立ちはまあ愛嬌があると見られるかもしれないが、顎にもたぷたぷとした多量の肉がついており、丸顔どころか下膨れだ。胸元に着けた豪華な宝石飾りと、この国ではまだ珍しい純銀の片眼鏡を付けていた為、まぁ金持ちなのだろうということは理解できたが。
正直胡散臭い貴族など叩き出したかったが、藁にでも縋りたかった気持ちは皆の中にあった。一番の理由は、「今回の仕事に対する礼金は、外海に出たい貿易商から既に頂いている」という説明に安堵したからだったが。
こちらの懐が痛まず、もし解決出来なかったとしても貴族の屍がひとつ浮かべば、国も本腰を入れてくれるかもしれない。そんな打算により、古い物で良いので小舟を一艘売ってくれ、という太った男の提案に一も二もなく頷くことになった。
そして――小舟の持ち主である老人一人を漕ぎ手として、太った男という大荷物のせいで今にも沈みそうな船は、夕暮れの河を下って行った。
×××
「いやはや、すまないねご老体! 貴方もこのような場所に駆り出されて迷惑でしょう」
「へ、へぇ。いえ、うちのぼろ船にあんだけの金を出して下さるんなら、何も言うこたぁありやせん」
漕ぎ手の老人は、声の大きい太った貴族に正直辟易していた。言った言葉は事実だし、孫娘が隣村に嫁ぐことになって何かと入用な今、こんな古い船一艘で金が貰えるなら文句を言うつもりもない。
しかし年嵩であるからこそ、夜の夜中に行燈の光一つで河を下るのは、言い伝えを思い出して正直身が竦む。例え多少目が悪くなっても河のことには慣れている為、無様に底を擦るようなことはしなかったが。
「ほ、本当に鳥妖精は、いるんでしょうか?」
「さてさて、まことの鳥妖精ならば、原因は間違いなく夜の縄張りを侵したせいだろうがね。吾輩の友人にして依頼主の名誉の為に言わせて貰うなら、夜に船を出したのは彼ではないよ。だが相次ぐ事故のせいで友人お抱えの船乗り達も海へ出るのを嫌がっているようでね、何とかしろとこちらに押し付けてきたのだよ。まぁ船を無くした哀れな商人の代わりに謝礼を奮発してくれたのだからきちんと仕事はしないとね。まあそれの半分以上はこの船の買い上げで使ってしまったがね! ンッハッハッハッハ!」
「へ、へぇ……」
責められているのかと思ったら心底陽気な声で笑われて、老人はげっそりとしていた。たまに様子を見に来る領主達のような居丈高さは無いが、このどこからどこまで本気なのか解らない胡散臭い男のお喋りをずっと聞いているのも中々に体に悪い。
「旦那様、お喋りはそのぐらいに。ご老人がお困りのようです」
「おっと、すまないねヤズロー。どうにも口が回りすぎるのは吾輩の悪い癖なのだよ。お前に幾ら叱られてもこればっかりは如何ともしがたい、何せこの体で一番楽に動かせる部位だからね!」
「へぇ、あの……」
窘められても全くめげず、尚も言葉を募る太っちょにどう言えばいいのか解らず、老人はちらちらと横を見る。
船の上には老人と太った貴族の他に、彼の従者であろう浅黒い肌の少年が一人いた。服だけなら所謂執事然とした、仕立ての良い装束を纏っているのだが、十五の成人をまだ迎えていないのではないかと思えるぐらいの矮躯だ。更にその両手両足を、時代遅れの甲冑のような手甲足甲で覆っているのもさっぱり意味が解らない。愛想は一欠けらもなく、自分の主であろう貴族にすら、強く舌を打つ横柄さを見せている。
貴族などまともにお目にかかったことは無いが、少なくともこの主従が色々と規格外なことは老人にも理解できた時、不意に。
生温かい風が、緩やかである筈の川面を擽り波立たせる。老人の背筋がぞわりと震えた。最初に声を上げて立ち上がったのは、従者の少年だった。
「旦那様」
「ふむ、来たかね」
「き、来たって」
「静かに。やれやれ、ほんの少し美しい歌声を期待していたのだが、やはり違ったか」
ぼこぼこと水面が泡立ち、魚にしてはやけに大きな影が行燈の光に照らされている。……どう見ても人の丈ほどもある影。こんな大物はこの辺りにはいない筈。
「まだ人が此処に住みついて間もない頃、この河は彼等の陣地だった。人は果敢に自らの糧を得る為彼らと戦い、やがて川底に彼らを封じるに至った。それが僭越ながら吾輩のご先祖でね、六代前の著書に書かれていたよ。単純に『鱗人』などと呼ばれていたようだが」
いつの間にか川の流れが止まっている。溜まりに船を動かしてしまったのか、櫂を動かそうとするが――動かない。まるで何者かにがっしりと掴まれているかのように。
「だ、旦那ぁ」
恐怖で上擦った声を上げる老人に対し、太った男は顔に笑みさえ浮かべて滔々と語る。
「恐らく大きな船で川底を叩いて、封印をずらしてしまったのだろうね。ご先祖様を信じるのなら、生憎言葉による説得などは効果が無いらしい。恨みはたっぷり、逃がす気は無いというわけだ」
「助けてくだせぇ!!」
顔を引き攣らせて悲鳴を上げる老人に、男はやれやれと言った風に肩を竦めて――竦めきれずにもちりと顎を震わすだけで終わった――何故かとても偉そうな顔で堂々と告げる。
「ンッハッハ、生憎吾輩一族の中では大変な落ちこぼれでね! 魔の者に対する武器一つ、術式一つ碌に操れないのだ。つまり吾輩の華麗なる活躍などは一切期待しないでくれたまえ!」
「そ、そんな――」
「故に、吾輩は命じるだけなのだよ。――後は頼んだぞ、ヤズロー!」
「仰せのままに」
従者の答えがはっきりと聞こえて、老人は恐怖のあまり瞑っていた目を見開く。そして、自分の見間違いかと何度も目を擦り――間違いは何もないと知る。
動かない船。揺れる行燈の火。増え続ける影。その先の水面に――少年が、立っている。間違いなく沈む筈の重い足甲のまま、水の上に、立っている。
そんな馬鹿な、と思ったが、何度目を擦ってもそれが事実だった。時代錯誤な意匠で造られた、銀色の手甲と足甲を嵌めた執事服の少年が、まるで嘘のように。
少年は愛想の一つも無い顰め面のまま、低い声でぼそりと告げる。
「少々お時間を頂きますが」
「構わんよ。封印されていた場所を知りたいから、逃げたら追ってくれ」
「畏まりました」
そして少年は主の――太った男のやはり明るい声に是と答え。背に背負っていた荷物に巻き付いていた布を解く。出て来たのは、少年の背丈の倍ほどもある、これまた時代錯誤の巨大な槍斧。非常に重いだろうその得物を少年は軽々と抱え――その足先も全く水に沈むことはない。
「気を付けたまえよ、足と違ってその槍斧には水除けの呪いはかかっていない。取り落としたらそれだけ沈むぞ」
「ご心配なく。捨てることは有り得ませんので」
二人の主従の会話を遮るように、激しい水音と飛沫が上がる。そして、行燈と月明かりに照らされた自ら出てきたその姿を、老人は見た。
形は、人だ。だが、体中に青黒い鱗を生やし、手足は鰭になっている、まるで魚と蛙のあいのこのような悍ましい姿に、老人は悲鳴すら上げられなかった。
爛々と光る金色の目に浮かぶのは、恐らく怒り。自分達を追いやった人間に情けなどかけるつもりは無いのだろう。耳があるであろう辺りまで割けた口の中は血のように赤く、そこには鮫のような歯がずらりと並んでいた。
明確に己に対し襲い掛かってきた化け物に、巨大な武器を持った少年は――ぐいと刃を引き、水を蹴立てて思い切り振り抜く。
ぞぼっ、という鈍い音と共に、魚人の体が真っ二つに、千切れた。
悲鳴も上げぬまま、その肉体がぼしゃりと河に落ちると、まるで餌に群れる魚のように、他の影達が寄っていく。助けるのかと思いきや――じゃぶじゃぶという音の中、ごりごりという音がする。……咀嚼音だ、と気づいた老人はついに気を失ってしまった。
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