それでもこの冷えた手が
夏村響
第1話
気が付くと目の前には大きな月があった。
満月には少し足りない、いびつな月だ。
けれど、その輝きに嘘はない。
綺麗だな、と素直に思う。
そう言えば、こんなふうに月を見上げることはついぞなかった。いつぶりだろうと目を細めて考えていると、不意に声を掛けられた。
「お入りになられますか?」
声がした方にのろりと顔を向けると、いつの間にか、至近距離にひとりの青年が佇んでいた。彼は夜の闇の中に体半分を溶かすようにそこにいて、僕を見て柔らかく微笑んでいる。
「……あ、あれ?」
僕は夢から覚めたようにはっとして辺りを見回し、そこでまたはっとした。
どうやら考え事をしていたせいで、いつの間にか知らない路地に迷い込んでしまったようだ。狭く薄暗いここは、きっと大通りから外れた寂れた裏路地。当然ながらごく普通の会社員たる僕は、こんな怪しげな場所には一度も足を踏み入れたことはない。
そして今、そんな路地の一角で見知らぬ男に声を掛けられているのだ。これはかなり恐ろしいことのように思えた。僕は相手に気付かれないようにそっと後ずさりしながら、それでも愛想よく答えた。
「すみません、どうも迷い込んでしまったようで。すぐ、出て行きます」
「迷子ですか」
ふっと彼が一歩前に出た。
折角、一歩下がったのに、これではまた元通りの距離になる。僕は戸惑いながら、彼に言った。
「あ、あの、帰りますので」
「帰られますか?」
「……え? どういう意味ですか?」
「迷子、なのでしょう?」
「あ、それは……そういうわけでは……大通りに出れば道は判ると思うので……」
「少し、休んでいかれては?」
青年は身体を斜めにすると、手で後ろを指し示した。素直にそこに目をやると、ひとつの扉が見える。そしてその傍らにあるコーヒー色の看板も。
「……『乱反射』?」
看板に書かれている文字を読むと、青年はひとつ頷いて言った。
「僕の店です。どうぞ」
彼がその扉を開くと、柔らかな光がふわりと暗い路地にあふれ出た。その光はまるで、さっき僕が見惚れていた月の光そのものだ。
「いらっしゃいませ、お客さま」
彼の微笑に僕は何故か抗えなくて、言われるがまま、その扉の奥へと足を向けた。
僕と
いわゆる自然の成り行き。恋い焦がれるよう熱烈な恋愛感情はなく、何となくいいなあ、と思っていた女友達が隣にいつもいて、いつしかそういう仲になっていた。その頃、何故か彼女とふたりきりになることが多かったのだ。
後から共通の友達に聞くと、友紀から頼まれてふたりきりになるように仕向けていたとのこと。つまり偶然を装って、上手く友紀に嵌められていたわけだ。
しかし僕は、種明かしをされても、なるほど、そういうことかと納得しただけで、不快には思わなかった。恋愛なんて大抵そんなもの。誰かの欲望やら企み、思惑によって成り立つのだ。
かくいう僕だって、友紀の外見……モデルのような容姿に惹かれていたのだから。
彼女と一緒にいると、すれ違う男たちはみんな羨望の眼差しを僕に向けた。優越感に浸っていなかったと言えば嘘になる。それ故、僕は友紀が恋人でいてくれるのならと、いつもその我儘な性格には目を瞑っていた。
「何を差し上げましょうか?」
カウンターの向こうから、青年は言った。
彼はこの店のマスターで、名を
「ああ、それではハイボールを」
「かしこまりました」
軽く会釈して、彼はグラスを手に取った。その何気ない動作のひとつひとつが何だか優雅で、思わず見惚れてしまう。
この店の内装もアンティックで落ち着いていて、下世話な店を想像していた僕は、ほっと安堵の息をついていた。そしてなによりも、この珠城という人がとても魅力的だと思った。
暗い路地に立っていた彼は、何だか不気味に思えたが、こうして、間接照明とはいえ、明るい店内で見る彼は感じのいい優しげな青年なのだった。特に美青年というわけではないが雰囲気のある素敵な人で、なによりもあの柔らかな微笑みがいい。
いつの間にか、珠城という人に対する警戒心は薄れていた。
不思議な人だ。
上目遣いに彼の様子を眺めていると、不意に彼がこちらを向いた。真っ直ぐに目が合ってしまっておたおたしていると、彼は、そんな僕の狼狽をさらりと受け流し、静かにハイボールのグラスをカウンターの上に置いた。
「お待たせいたしました」
「あ。ありがとう」
礼を言って慌ててグラスを手に取る。それから少し迷いつつ、僕は彼に言ってみた。
「こんなところにバーがあるとは知りませんでした。いい感じのお店ですね。落ち着きます」
「ありがとうございます」
丁寧に頭を下げると、彼は続けた。
「どうぞ、ごゆっくり」
「……そうだな。別に急いで帰ることも……ないか」
「何か気になることでもあるのですか?」
「え? どうしてそう思うのですか?」
驚く僕に、珠城は穏やかに言った。
「悲しそうでしたから」
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