第46話完全な恐怖

「………暗い」


階段を降りれば降りるほど暗がりで視界がぼやけていき、歩調も無意識に遅くなる。書斎の明かりがなかったら完全な暗闇で閉ざされてしまうだろう。藍は緊張を孕みながらも、足を後退することはなく階段をゆっくりと降りて行った。


階段が終わり、地面に足を降ろす。

空気が籠もっているせいか息苦しく感じる。窓がない地下だからか酸素が地上よりも薄く、胸やけも酷い。しかも静けさと薄暗さも相まっているのでぞっとした嫌なものが背筋に感じる。


書斎の明かりを頼りにしたくても扉自体は小さく、階段も長かったため藍が立っている場所までは照明はほとんど届いていない。藍は目を細めながらあちこちに視線を動かす。真っ暗闇というわけではないので、早めに目が慣れていった。


藍が立っている場所は細長い通路でL字型。

通路の突きあたりにはまだ何があるかわからないが、通路の両端に二つの両開き式の引き扉があることはわかる。手触りから二つとも鉄製で開けるのに少々骨が折れそうなほどの重厚な質感。


双方の扉を見比べる。一方の扉には南京錠がかけられているが、もう片方はかけられていなかった。藍が探しているのは重大な秘密が記されている資料。鍵がかかっている扉にある可能性が十分にある。しかし今は時間がないし、もちろん南京錠の鍵は手元にない。

ここは次善の行動を取るべきだろう。


改めて藍は気を引き締め、鍵の付いていない扉に手をかけた。質感通り頑丈な扉は腕を少し引いただけではびくともしない。藍は一度息を吐き両手を取っ手にかけて思い切り扉を引く。扉は軋むような鈍い音を立てながらゆっくりと開いていった。


「うっ!?何、この臭い!?」


それは扉を開けた瞬間だった。今まで嗅いだこのない強烈な、むせ返るような臭いが鼻腔にまとわりついてきた。藍は条件反射で臭いを遮るように腕で鼻と口を覆う。扉の奥は真っ暗なため臭いの発生源はわからない。


「………………っ」


藍の心臓がドクンと嫌な音を立てる。これ以上進むなと、と脳内で警告音が出る。神経が張り巡らされた体に冷や汗が背中に伝っているのを感じた。本能のままに一歩足を後退させる。しかし、足はそれ以上、下がらなかった。

恐怖もある、躊躇いもある。けれども、それ以上に膨れ上がった好奇心とずっと燻っている使命感が本能的な警告を抑えつける。藍は耳に響くほどの動機を顧みることなく、少しだけ開けておいた扉を全開にして一歩部屋に踏み出した。


室内は暴力的な臭気で満ちていた。一歩一歩進むたび、臭いは強くなっている。藍は手で口元を押さえながら、臭いの発生源を探ろうと目を細める。


「何か………ある?」


暗闇に慣れていった瞳にぼんやりとしたものが映る。位置は部屋の中心地。それが臭いの正体の可能性が高い。しかし、それが何なのかはわからない。藍は照明のスイッチがあるかどうかを確認するため、入り口付近の壁をペタペタと触る。壁はつるつるとしていて手触りから重厚で頑丈な質感のコンクリート素材だとわかる。何回か探るように触ると、あるでっぱりが指先に当たる。指先で確認してみると、照明のスイッチだとすぐに察した。


「これかな?」


藍は迷わずスイッチを入れた。入れた瞬間、辺りは明るくなった。

藍は臭いの発生源であろうその先に目を向けた。


「―――っ!!!―――!!??」


目にした瞬間、藍の呼吸が一気に荒くなる。全身すべての機能がこの場は危険だと警報を鳴らす。


―――逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ。


痛烈な命令が体中を駆け巡る。しかし、藍の身体は動かない。動けなかった。ただ、ガクガクと膝を小刻みに震わし続けるしかなかった。一度も味わったことのない恐怖が完全に藍を支配していた。


藍が目にしているのは大型作業台の上の解体された女の死体だった。

作業台は血と肉片で飛び散り、そこの空間だけが赤く広がっている。手足は原型が留まっていないほど先端からバラバラに切断され、断面図から白い骨と筋肉がむき出しになっていた。さらに無作法に胴体が切り広げられ、何かの道具でかき回されたかのように臓器すべてがぐちゃぐちゃになっている。作業台の下には転げ落ちたであろう首が落ちていた。両目が潰されていた顔は想像を絶する痛みを受けたまま事切れたことがわかるほどおぞましい表情をしている。


「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」


藍の浅くて速い呼吸だけが室内を響かせる。一向に呼吸は止まる様子がない。


―――こんなの嘘だ。現実じゃない現実じゃない現実じゃない。


何度頭の中で唱えたことかわからない。


これが夢だったらどんなによかったか。目の前にある死体が幻覚だったらどんなによかったか。

しかし、部屋中に充満する独特の腐臭が無情にも藍に現実を突きつける。


「あ、あああ、あああ、ああ」


藍がやっと発した声は今まで出したことのない、狼狽からくる叫びだった。この部屋から一刻も早く出るべきなのに恐怖で体がすくんでまったく動かない。


―――動け動け動け動け動け。


呪文のように何度も脳内で繰り返す。この異常な空間にいてはいけない。

藍はゆっくりと右足を引いた。そして、左足も一歩引く。

硬直した体を震えさせながら反転させ、死体に背を向ける。たった、それだけの仕草が今の藍にとって容易ではなかった。


藍はぼやけた瞳で扉の先を見つめる。目の前にあるのが死体ではなく、扉。その事実に呼吸が幾分か緩くなるのを感じた。藍はふらふらとおぼつかない足取りで一歩、また一歩と足を進ませた。


「はぁっ!」


部屋を出た藍は倒れそうになる体を気力で支え、扉を閉めるためよろよろと取っ手にかけた。


「………………電気」


藍は照明を点けっぱなしでいたことに気づく。死体を目にした瞬間、余裕というものがまったくなかったが部屋を脱出できたおかげなのか、恐怖と困惑で埋め尽くされていた藍の脳内に一握りの小さなスペースを生み出していた。藍は死体から目を背けながらバンバンと乱暴な手つきで壁を殴りながらスイッチに近づく。突起部分に手が触れると掌で思いっきり叩くようにして電気を消した。

その瞬間、辺りは暗闇に包まれる。藍は急いで部屋から出ると開けたとき以上に両手に力を込めて一気に扉を閉めた。


ガタンと音が響くと同時に辺りに充満していた、むせ返るような臭いが消えた。

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