第44話無謀と予感

二人を見送った後、いつでもここから出られるように藍はベランダの隅に置かれた靴に手を伸ばす。

ふと、手が止まりちらりと後ろを見た。視線の先にあるのは横たわった雫の身体。再び、この部屋に足を踏み入れたときはもう目にすることはないだろう。


死体は時間が経つたびに腐敗し死臭が空気に交わり、漂う。その空気はこの部屋に留まらず、外にも漏れ出すことになる。そのため雫の言う通り、死体はこの部屋から近々移されるはずだ。

もし、雫が自分の元に訪れるのが一日でも遅かったら死体の情報を得ることができなかった。明日以降だと死後硬直が解け、指の形に違和感があったことに絶対に気づかなかった。


“思い立ったら吉日”


状況的にも当てはまり、自身が座右の銘にしていることわざ。その時藍はハッとし、ある考えが頭の中をよぎる。

その言葉を今、実行するべきではないか?

時間が経てば経つほど情報が得られないのは死体に限った話ではない。雫の兄弟や雫の父親の過去の情報もそれに当てはまらないだろうか。考えれば考えるほど膨れ上がってくる。

たしかに雫の身体は今日中にしか調べられない。しかし、今日中にしか調べられないことが他にもあるのではないか。そんな風に思えてならない。

雫の言いたいこともわかる。この部屋から出たら3人と鉢合わせる可能性もあるし、また家族が犯人ではない証拠がない以上、下手をしたら己の身が危険に陥る可能性だってある。


(………それでも)


藍は伸ばした手を引っ込め、立ち上がる。視線は窓の外。

二人が周囲を確認するため、それぞれ別方向に飛んで行ったところを目にした。


二人が戻ってきたらここを脱出しなくてはいけない。もう、しばらくすれば二人が戻ってくるだろう。この部屋から出たと二人に知られれば、ひどく二人を悩ませることになる。心配をかけ、迷惑をかけるのは確実だろう。藍自身もさきほどまでは、一刻も早く脱出したいと思っていた。


(………それでも、それでも)


雫は父に教わった祝詞の「禊祓詞」という言葉を思い出す。

嫌な気配・予感を感じたときに唱える祝詞。


高天の原に神留ります 神魯岐 神魯岐の命以ちて

皇御祖神伊邪那岐命

筑紫の 日向の 橘の 小門の 阿波岐原に

禊払い給う時に 生れませる祓戸の 大神達

諸々の禍事罪穢を祓い給い 清め給えと 白す事の由を

天津神・国津神・八百万の 神達共に聞し食せと 恐み恐み白す


雫は教わった祝詞を静かに唱える。不安でどうしようもない負の感情を払拭するかのように。

祝詞を読むことを奏上といい、神に申し上げる言霊。声に出すことで力を分け与えてくれるという。

神職に携わる家系なのか、意味を理解した上で唱えることで落ち着きを取り戻し不思議と済んだ感覚に包まれる。


藍は踵を返し、横たわった雫の死体の傍に寄った。


「ごめん、雫」 


目を静かに閉じた死体に囁くように呟いた。ドアを開けるということは安全地帯から出るということ。雫の言う通り、家族全員がいない日に出直すべきかもしれない。


(………それでも、それでも、それでも)


藍は汗が滲み出るほど両手の拳を力いっぱい握り締める。


「ここから出ても私はきっと後悔する。だから私は、後悔の少ないほうを選ぶ」


目を伏せながら呟いた後、藍はドアに手をかけ廊下に踏み出した。


藍は音が出ないようにことさらゆっくりとドアノブを回し、ドアを閉めた。

廊下はしんと静まり返っている。すべての部屋のドアは閉められており、耳を澄ましても物音が一切聞こえない。家の中にいる3人は勉強していたり眠っていたりと各自、現在進行形で実行しているらしい。それはいつ、誰が自室から出てきてもおかしくないということでもあった。閉まっているドアからでは当然その様子は見られない。雫が言うには3人ともしばらく部屋から出てこないと言っていたが、油断はできない。藍はどのドアも開く様子がないことを確認した後、忍び足で素早く廊下を進む。

雫が言うには部屋は各自防音対策がされているらしい。防音が効いた部屋は百パーセント音を遮断できないと聞くが、忍び足で歩いた足音はきっと届かないだろう。藍は階段まで進んだ後、ゆっくりと振り向く。


「よし」


誰もドアから出てくる様子はない。

藍は1階にあるという書斎に向かうため、階段を下りて行った。


藍が出て行ってすぐに雨が降り出したが、藍はその雨にもスポーツバックやベランダをゆっくりと濡らしていることにも一切気づくことはなかった。



◇◇◇



薄暗い天から落ちてくる雨がアスファルトの上にしぶきと波紋を作り、まばらにいくつもの水たまりを作り出していく。勢いは増していき、激しい雨音がそこいらじゅうに響いていった。身を縮めながら突っ切ろうとするものや顏にかかるしぶきを遮断するため前方に傘を向けているものなど、行き交う人は突然の雨に翻弄される。


その中で雫と玖月だけは違った。雨の粒は二人の身体をすり抜け、地面に落ちていった。

雨は二人にとって障害になることはない。


「やばい、やばい」


雫は今、雨以外のものせいで気が急いていた。玖月と合流するため、急いで来た道を戻る。


「玖月くん!」


先に分かれ道にいた玖月に雫は声を張った。声を掛けられた玖月は振り向く。


「雫さん、こっちには誰も………」


「玖月くん、ちょっとやばいかも。早く戻らないと」


雫は玖月の言葉を遮断し、早口で言い放った。雫の珍しい焦り顔に玖月は眉を少し顰める。


「穂積さんが帰ってきた」


「穂積さんが?」


雫は向こう側を指差す。ここからではまだ、穂積の姿は捉えられない。


「たぶん、あと5分くらいで帰ってくる。いや、早足で来ているからもっと早いかも」


「早足で?」


「藍と同じで傘忘れたみたいだったから。それに洗濯物もあるから」


「………行きましょう」


玖月は静かに答えながら、素早く体を五月雨家に向ける。


「うん」


雫も玖月に続く。一刻も早く、藍を脱出させなければいけない。

五月雨家の侵入者=「死」に直結する。


絶対に痕跡は残せない。そのためにはすべてを元の位置に戻す必要がある。二階に登るために利用した3つのバケツも含めてだ。


ギリギリだと思うが間に合う。

今は雨が降っている。しかもどしゃぶりの雨。

足跡も物音も雨で流してくれるだろう。


でも、それは藍がベランダからすぐに出られる準備をしていた時の話だ。


「………………藍、じっとしていてくれればいいんだけど」


嫌な予感が雫の脳裏をよぎる。一応、藍には動かないよう釘をさしたつもりだった。

雫は門の近くまで進むとベランダ上に顔を向けた。

今、雨のせいで視界が不明瞭になっている。ベランダに藍の姿が見えないのは雨のせいだと雫は切に願った。


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