第17話緑と穂積
「うっ!?」
砂霧は口元を押さえだし、表情を歪ませた。
「あぐ……う」
そのまま苦悶に満ちた声を出し、椅子から転げるように落ちた。
「な、何?体が……体が痛い
」
霞はふるふると震え、箸を落としてしまった己の右手を凝視したまま思いっきり床に倒れこんだ。
「緑、さん」
吹雪は床に膝をつき、苦しそうに悶えながら必死で顔を上にあげた。もう顔を上げる動作すら見るからに難しそうになっている。
「ふふふっ」
緑はただ口元に歪んだ笑みを浮かべている。倒れこむ人間の一人一人の苦しむ様子を愉しんでいるかのように。
「はぁ、はぁ」
出雲はフォークを床に落とし、息も絶え絶えにテーブルに突っ伏した。
「ほず……み」
出雲は思わず傍にいる人間の名を呼んだ。しかし、当の穂積は何も行動を起こそうとはしなかった。ただ、無表情に出雲を見下ろしたままだ。まるで、こうなることをはじめからわかっていたようだった。
「無駄よ、その子に助けを求めても。もう私の『弟』はあなたの命令は聞かないわ」
あざ笑いながら緑は穂積のもとに歩み寄った。
「やったわよ、私たちはついにやってやったわよ。今まで我慢させてごめんなさいね、本当に大変だったわよね」
緑は達成感に満ちた幸せそうな顔で自分よりも少し高い穂積の肩を両手で抱え込んだ。
「どうしてこんなことになってるかわかる人っているかしら?いないわよね。あなただってわかってないはずですよ、零時さん」
緑はずっと無言で小刻みに震え、俯いている零時ににやりとした嫌らしい笑いを向ける
「まぁ、プロであるあなたたちならわかるでしょうけど一応言っとくわね、毒よ毒。全部の料理に毒を仕込んでおいたのよ。じわじわと全身を侵していく強力な毒を」
穂積の腕を絡めながら緑は声を弾ませる。
「ああ、違うわね。あなたたちが知りたいのはどうして毒を仕込んだかよね」
緑はわざとらしく考え込む素振りを見せてくる。
「でも、教えてあげない。私たちが本当は誰でどうして殺されたのかわからないままあなたたちは死ぬのよ」
緑の顔からすっと笑顔が消える。その瞳の奥には強い憎悪と憤怒が入り混じっていた。
「……と言いたいところだけど、あなたたちが毒で完全に息絶えるまで時間がかかるらしいのよね。それまでただ見てるのも飽きてしまうから少しだけ教えてあげる」
瞳に憎悪の光をたたえたまま、緑は口角を上げた。
「まず私たちは日本人じゃないの、中国人なの。幼少期に両親を亡くした私たちは揃って人攫いに遭い、奴隷として日本に売買されたの。そこは貧民街だったし私たちには身寄りもなかったら探されることもなかった」
緑は両手を後ろで組み、テーブルの周囲を歩き回る。
「まったく気づかなかったでしょう?ここまで流暢に話せるようになるまで本当に苦労したんだから。想像できる?見ず知らずの人間に身体を売りながら耳で必死で日本語を覚えたのよ。そう、あなたくらいの歳まで売春宿でずっとそんな生活をしていたわ、霞くん」
倒れ、目が虚ろになりつつある霞を跨ぎながら冷めた目を向ける。
「いつ抜け出せるかわからない地獄の中にずっといたわ。でも、そんな私たちに手を差し伸べてくれる人が現れたの。その人は中華街に拠点をもつ中国マフィアの下部組織のボスだった。お客から外で酷い扱いを受けていたときに助けてくれたの。たぶん同情だったのね。でも、私たちは同情でもよかった。わけのわからない理由で殴られたり罵られたりせずに済むなら。その人は私たちを通訳として傍に置いてくれたわ。その人はマフィアだけど私たちには良くしてくれた。綺麗な洋服や美味しい料理、何より屋根のある部屋に住まわせてくれた……少しはピンときたかしら。いいえ、まだ無理ね。だってあなたたちはだいたい殺した人間の顔や名前は忘れるみたいだから」
テーブルを回っていた緑は足を止めた。
「そう、あなたたちは私たちの恩人を殺したのよ。突然のことだったわ。アジトを襲撃され、構成員は皆殺された。私たちは運よくボスの別宅にいたからそれから逃れることができたわ」
緑の声が低くなる。暗く、そして固い。
「あなたたちにとっては仕事をしただけでしょうね。マフィアが瓦解したのは因果応報だって思ってる?汚い金を得ているから?銃器や麻薬を密輸しているから?そうね、確かに理不尽なことをしてきたかもしれないわね。復讐なんて筋違いよね?殺されたのは当然の報いよね?でもね、私こう思うの」
緑は心底可笑しそうに両手で胸元をおさえる。
「あなたたちだって理不尽の側でしょ?理不尽を理不尽で返して何が悪いの?あなたたちは私たちの安らぎを奪った。居場所を奪った。救い主を奪った。あなたたちに復讐する理由なんてそれだけで十分よっ」
緑はゆっくりと再び足を動かした。今度は倒れている人間の顔を覗き込むように。
「あなたたちは裏社会では名の知れた殺し屋一家らしいわね。一時期しかマフィアに所属していなかった私たちにだってあなたたちの噂を耳にしてたわ。だからこそ苦労した。だってあなたたちの情報一つ一つがかなり高いんだから。でも私たちは諦めなかった。そして、私たちはあなたたちの居所を見つけることができた。まさか、こんなありふれた住宅街に並ぶ一軒家だとは思わなかったけど」
緑は鋭い眼光で忌々しそうにぐるりと部屋中を見回した。
「居所の情報を得たからって復讐心に駆られて乗り込むなんてバカなことは考えなかったわ。どうなるかなんてわかりきっていたし。私たちでも殺せるチャンスはあるか考えていた時ツテの情報屋からあなたたちの父親がハウスヘルパーを探していると聞かされた。掃除が上手い人間と料理が上手な人間を。私たちはチャンスだと思った。弟は売春宿でよく壊れた人間や客の汚物まみれの部屋を処理させられていたからそういう掃除は身に付いていたし、私はマフィアに所属していた時ボスに喜んでもらおうと料理の腕を磨いていたから」
ずっと無言のまま立ち尽くしていた穂積は緑の傍に歩み寄った。
「まず弟を送り込ませたわ。腕の良い掃除屋として。でもまさか、こんなひどいことをするなんて思わなかったけど」
緑は指先で穂積の首元の傷をそっと触れた。
「この子にはどんな小さな情報でもでも逐一報告させたわ。あなたたちの性格、性癖、特技、趣味、料理の味の好みをね。そして、私は2ヶ月前あなたたちの父親に料理の腕を売り込ませてハウスヘルパーとしてこの家にやってきた。気さくで優しいお手伝いさんとしてね。私の料理おいしかったでしょ?あなたたち好みに腕を磨いていたんだから。でも、さすがプロね。全員、家の中でもなかなか隙を見せようとしないんだから」
緑は穂積から体を離し、嬉々とした笑顔で倒れている霞たちを見下ろす。
「私はずっと待っていたわ、あなたたち一同が気を緩ませる時を。もう、わかるでしょ?その時が訪れた、それが今日だったのよ。雫が死んだと聞かされた時、突然のことで私も驚いたけど絶好のチャンスだとも感じた。皆、身内が死んだばかりの今日は隙が生まれると思ったから。そして、私は実行に移した。まさかこんなに上手くいくなんて本当に笑っちゃうわよね」
笑いながら緑は一つに束ねていたヘアゴムを素早く外し、エプロンも床に脱ぎ捨てた。緑は再び、視線を元に戻し周囲を確認する。話を聞かせていた零時たちはいつのまにかピクリとも動かかなくなっていた。
「あら、死んじゃったの?そういえば私、いつのまにか全部話しちゃったわね、少しだけしか教えないつもりだったのに」
緑は口に手を当て、驚いて見せる。
「やっぱり浮足立ってるのね、私」
緑は足取り軽く歩き、動かなくなった砂霧たちを見下ろしている穂積に近づいた。そして、己に向き合わせ、背中に腕を回し優しく抱き寄せた。
「まだ、信じられないわ。裏社会で指折りの殺し屋たちを仕留めることができるなんて」
穂積もゆっくりとした手つきで緑の背中に手を回した。
「話が長い、なんか途中で飽きてきちゃったな」
雫と玖月はリビングの壁際で傍観していた。緑たちの身の上話を聞く羽目になった雫は少々冷めた口調で場を見据える。
「あ~あ、かわいそうに」
「………雫さん、どうして」
「何?玖月くん」
「どうして、皆さん死んだふりをしているんですか?」
「……ほんと、かわいそうな緑さん」
雫は肩をすくめながら頭を少し振った。
「長いことごめんね。嫌だったでしょ?自分の首を裂いた男の世話をするの。でも、もう大丈夫よ」
「………」
「明日にでも、こんな家出……て」
緑の保っていた笑みが徐々に消えていく。一瞬何が起こったのか理解できず、目を見開く。
抱かれていた肩に鋭い痛みを感じたからだ。緑は恐る恐るその方向に目を向けようとする。目に入ったのは細くて長い、黒い針。その針が己の左の後ろ肩に突き立てられている。
緑は震える。震えが止まらなかった。その針を己の体に突き立てているのは弟の穂積だった。
「あ……あああ」
緑は悲鳴とも狼狽ともとれる声を出す。緑は床に倒れこんだ。震えながら手に床をつき、なんとか顔を上に上げようと震えながら力を入れる。
「ど……して」
「………」
戸惑いの声を穂積に向ける。声を出せない穂積は何も返すことができなかった。しかし、穂積は声ではなく別のものを緑に対して向けていた。
視線だ。表情は変えないままで憎悪と軽蔑を交えた視線を射貫くように向けていた。
それは今日初めて見せた穂積の強い感情の色だった。
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