第7話 雨のこと
それはひどく天気の悪い午後だった。
朝から重く垂れ込めていた雲は正午過ぎにぐずつき出し、あっという間にあたりを叩きつける勢いを持ち始めた。
窓から覗く外の景色は溢れんばかりの水滴に覆い尽くされ、向かいの建物にも窓枠にも、激しい勢いで雨が降りかかっているのが見える。
まるで蜃気楼みたいだ。
凄まじい雨の中に見える光景はその輪郭がぼんやり淡く、消えてしまいそうで。
存在を確かめたくて思わず伸ばした手は、冷えたガラスに遮られた。
これらの景色すべてが蜃気楼のように現実にはないものであるなら、どれだけ良かっただろう。
ここにある己の存在さえ消えてしまったとしても、それはそれで構わない。
少女の正気を奪い、少年達を泣かせる。そんな場所、ホンモノである必要なんてないんだ。
なのに、ひどい雨も雨に煙る景色も、それを囲われた場所から眺めているあたし自身も、全てこの世界に、確かに存在している。
ああ。なんて無様。
それでもなぜか、あたしはいつも雨降りの外から目をはなせない。
そう、それはあの日から。
あの日、雨の中アイツを見た。
濡れるか濡れないかギリギリのところ。
それでも、跳ね返る飛沫にその重たげな白衣は濡れて。
そんなこともお構いなしに庭に続くドアの前に立つアイツを、あたしは見た。
その視線は、一つの場所にくぎ付けとなっていた。
それは、庭の片隅。
ミハルが大切に世話をしている白い花の群れ。
アイツの目は、豪雨に濡れ、折られようとしている花を捉えて離さなかったのだ。
その目の中に在る感情を、あたしは知っていた。
この世界の中でただ一人、あたしだけが知っていた。
あれは、愛だ。
ミハルの花は、どんどん雨の勢いに負けていく。
くたりと首を折り、地へとひれ伏していく。
だって自然は容赦のないもの。
どれほど知能が優れていようと、人だって逆らえはしないのだ。
諦めにも似た気持ちでそんなことを思うあたしの目の前を白い影が飛び出していったのは、いよいよ雨が激しさを増していった頃。
それは確かにアイツだった。
手には少し壊れかけたビニール傘。
とてもじゃないけれど、こんな豪雨の日には似合わない。
それでもアイツは、その傘だけを持って飛び出したのだ。
今にも朽ち果ててしまいそうな花へと。
濡れた花に傘を差し出すアイツなんて知らない。
自らはびしょ濡れになりながらも何かを守りたい、なんてそんな殊勝なこと考えているアイツなんて知らない。
それでも、目の前の霞む世界で起こっているのは、蜃気楼でも幻でもなくただ事実で。
何故か見てはいけないものを見たような気持ちになって、あたしは部屋の分厚いカーテンを勢いよく引いた。
雨に濡れる窓も、雨に濡れるアイツも、か弱い花も、すべてが遠くなる。
それでも、あたしの目には焼きついていた。
常に感情をまとわないガラスの色したアイツの目が、わずかに優し気に揺れていたこと。
そして、そこには紛れもない愛が含まれていたこと。
ひどく苦い気分になって、あたしはそっと目を閉じた。
心が導き出す答えはただ一つ。
アイツは、ミハルを、愛していた。
どうしようもなく、愛していた。
そしてそれは、誰もが知るはずのなかった事実で。
ただ吹き付ける雨だけが、それを見ていた。
轟々とうなりをあげながら進む風だけが、それを感じていた。
そして今日。激しい雨の午後。
今日もまた、哀しい騎士はミハルの花を守る。
けれどその愛は、決して彼女には届かない。
アイツが壊してしまったから。
彼女の中の最もやわらかで瑞々しい部分は、アイツ自身が自らの手で壊してしまったから。
そんな不毛な愛は、雨の中いつもゆらゆら揺らめいている。
そして、そんな哀れな愛に胸が苦しくなるあたしもまた、どうしようもなく溢れだしそうな思いを必死にごまかしている。
人の心は、なんてままならないものなのだろう。
この胸の中、芽生えてしまったもの、それは。
ああ。なんて無様。
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