第89話 展開(2)

「だから・・戻ってきて欲しいと。 それだけでした・・」


萌香は小さな声でそう言った。


「それだけ・・」


志藤は何だか申し訳ないが気が抜けてしまった。


また


十和田が権力を利用して、彼女を追い込んだのではないかと思っていたから。



「迷いました。 このまま・・私が東京に残りたいと駄々をこねれば・・何とかなったのかもしれません。 でも『それ』を待つのが・・すっごく、すっごくイヤだったんです、」


萌香はまたハンカチで目頭を押さえた。



時が経てば


彼女は自由になれるのかもしれなかった。


しかし


仮にも


学校を出してもらって、生活の面倒をみてもらった


十和田に対して


萌香が自分がどうするべきか大いに迷ったことが


手に取るようにわかった。



「・・私は・・あの人に許してもらって・・自由になりたかったんです、」



そう言ったとたん、彼女の大きな瞳から


水晶のように


ぽろぽろと


丸い涙が頬を伝わる。


志藤は


彼女が


迷い、苦しみ


この決断をしたことを


思い知った。




「・・そっか。」



「会長の奥様は、もう昔から私のことは知っていて。 一度も会ったことはありませんが・・向こうから何も言われることもなくて。 今も・・ヘンな話ですがお互いに気を遣いながら・・会長を看病して。 私もあまり出すぎたことはしたくないのですが会長が・・私に会いたがるので、」



彼女の気持ちは


よく理解できた。



しかし


「斯波に・・せめて電話をしてやってくれないか?」


志藤の言葉に萌香は少し考えて、首を振った。



「声なんか・・聞いたら。 きっと耐えられなくなってしまいます。 私は生まれてから今まで恋なんかしたことなくて。  ほんとに・・彼と想いを通じ合えたのは嬉しくて。 でも、怖くて。 あの人を好きになればなるほど・・。」


「あいつ・・泣いてた。」


と言われて萌香は顔を上げた。


「え・・」


「ああ、本気なんやなあって。 本気でおまえのこと思ってる。 そして、何とかおまえを自由にしてやろうって、そう思ってる。 あいつは実のある男やから。 おれから見ても黙っててもキチンとやることはやるし。 信じていいと思う、」


萌香は涙をこぼしながら前髪をかきあげて、


「私は・・あの人に愛される資格なんてあるんでしょうか。 結局、あの人を裏切っているんじゃないかって。 今は・・とても・・彼に会うことはできないです、」



もう


良心がつぶされそうで。


萌香はたまらない気持ちだった。




「会長には、会える?」


「・・あまり体調がよくないみたいで。 私が行っても寝ていることが多くて・・」


「仕事あるから、東京に戻らなくちゃならないけど・・おれからも話をしてなんとか会長に許してもらいたい・・おまえの気持ちはほんまにようわかるから。 それで、きちんと別れたほうがいい、」


志藤は身を乗り出した。



萌香は


何も言わずにうつむいたままだった。




志藤は最終の新幹線に乗った。


疲れてしまい目を閉じながら、別れ際の彼女の言葉を思い出していた。



『斯波さんには・・まだ連絡はできません。 家賃は必ずお返しするとお伝え下さい。 私も、今は自分でもどうしていいかわからない状態なので。』



無理に連れ戻すことはできなかった。



たぶん・・時間がかかる。


部署のみんなには・・なんて言おう・・



志藤はだんだんと眠くなり、そのまま眠ってしまった。




「ただいま・・」


志藤が家に戻ったのは12時近かった。


「お帰りなさい。 びっくりした・・帰れないと思ってました、」


ゆうこは言った。


「めっちゃ・・疲れた・・もう、寝る。」



志藤はそれだけ言って、すぐに寝室に向かった。


ゆうこは彼から押し付けるように手渡されたバッグと上着をわけもわからずに受け取った。





とにかく


眠りたい・・





いろんなことをなんとかしなくてはならないのだが。


今はそれを考えることもできないほどつかれきっていた。



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