episode・45 八王子千人町
八王子千人町にある増田蔵六の組屋敷の茶の間で、永倉新八は、ため息をつきながら寝返りをうった。
蔵六の屋敷は、板敷きの部屋が、茶の間とその隣。畳敷きが、蔵六夫婦が休む座敷と奥の間の、四間取りである。
武士にだけ許された玄関と式台がなければ、そこいらの百姓家とかわらぬ間取りだが、武家屋敷なので、囲炉裏はなかった。
奥の間は、一段高い上段の間で、床の間と違い棚がもうけてあり、身分の高い者が宿泊できる格式になっている。
(それにしても藤村殿に、ばったり出くわすとは……)
新八は、寝付けずに、再びため息をついた。
新八は食客として、道場の奥の座敷に、気楽に寝泊まりしていた。
ところが、たまたま知行地の視察にきていた、神道無念流の同門の剣士である、二百五十石の旗本・藤村順之介が、蔵六の道場を訪ねて新八に出くわし、詳しい身元を知られてしまったのだ。
藤村の知行地は、八王子から青梅に向かう途中、戸吹村の先で秋川をわたった先にあった。
青梅にある新之助の道場の英名録に、藤村の名前を見つけたときは、さほど違和感を感じなかったが、よくよく考えてみると、公務以外で旗本が江戸を離れることは、基本的に許されない。
藤村は、知行地に出かけるのを口実に、剣術が盛んな多摩郡の道場を回っていたのだ。
さて、その新八の身元である。
新八は、天保十年四月十一日、下谷三味線堀の松前伊豆守の長屋で生を受けた。
父は永倉勘次といい、松前藩の江戸定府取次役で、家禄は百五十石だから中級の武士である。
そして母、利恵子は、大和国柳生藩の家老である柳生家から嫁していた。
さらに大叔母、
廣年が、
つまり新八は、すこぶる血筋のいい家系の武士だったのだ。
当時は、身分にうるさい時代である。
藤村の口からそれを知った蔵六は、食客ではなく、賓客として迎えるため、物置小屋に毛が生えたような道場から、新八を自宅に移したのである。
普通なら喜ぶところだが、新八には、これが苦痛でならなかった。
新八は、誰にも気兼ねせず道場に寝るほうが、客として、丁重に扱われるよりも、性にあっていたからだ。
どうせ寝付けないのであればと、新八は刀を手に、蔵六夫妻を起こさぬよう、静かに庭に出た。
屋敷の裏手は広々とした畑である。青白い月明かりが畝を照らし、月影が縞模様を描いていた。
新八は刀を抜くと、蔵六に教えられた型を使いはじめた。
剣を振るたびに、風が鳴り、月明かりが刀身に、きらきらと反射する。
しばらくひとりで型を使っていると、蔵六の隣の河井安左衛門の屋敷の勝手口から、誰かが出てくるのが目に入った。
「和多五郎さん……こんな夜更けに、どうしたんですか」
出てきたのは、松崎和多五郎であった。
「ちょっと手洗いにな」
松崎は、蔵六のもとで修行していたころの兄弟子である、河井の屋敷に泊まっていたのだ。
「それよりもどうしたってのは、こっちの台詞だぜ。真夜中にひとり稽古か?」
「どうにも寝付けなくて……」
「熱心なこった。ひとりじゃあ、やっててもつまらんだろう。どれ、しばらく俺が受太刀をしてやろう」
そう言うと和多五郎は、嬉々として道場から天然理心流独特の、まるで棍棒のような木刀を持ち出してきた。
「和多五郎さんは、あまり型に興味がないのかと思ってました」
蔵六の弟子たちから、戸吹にある松崎の道場は、型稽古が中心の蔵六の道場とちがい、竹刀による試合形式の荒稽古で知られている……という話をきいていたので、新八は、少し意外な感を受けた。
「ああ、そのことか。今どきの若いやつらは、型ばかりだと嫌がるからな……俺も竹刀で、ポンポンうちあう遊びは嫌いじゃないし、そのほうが弟子も増える」
「あ、遊びですか!?」
呆れた新八が、あんぐりと口を開けた。
「竹刀でポンポンうちあっても、小手先の技が器用になるだけで、技の本質は向上しない。剣術の真髄は、型にこそある」
「では、竹刀稽古に意味はない。というのですか?」
「もちろん、ちゃんと意味はあるさ。型によって身についた技を、実際に、どのように使うのか、それを試すことができる。
実戦では、身についていなかったら死ぬだけだ。反省して稽古し直そうにも、あの世では、稽古もできまい」
「なるほど……言われてみれば、まったくその通りですね」
「ところが、近頃じゃあ本末が転倒して、試合が目的みたいになっていやがる。竹刀の試合なんてものは、文字通り試し合い。そこを勘違いしてるやつが多すぎる……なんて話は、どうでもいい。さあ、最初は基本の平晴眼だ。さっさと構えろ!」
和多五郎が斜、新八は平晴眼に構えて対峙する。
平晴眼は、初伝の二本目。天然理心流の基本的な技である。
斜に構えた受太刀が斬り上げると、仕太刀がそれを正面で受け、受太刀の剣を払う……と、同時に、一歩足をすすめながら、受けたそのままのかたちで、太刀を受太刀に突きこむのだ。
型稽古というと、約束事だから、実戦の役には立たない……などと言うものがいるが、それは型稽古の意味をまったく理解していないからである。
剣術の型は、実戦を仮定したものではない。型こそが技そのものなのだ。
ふつう人間は、ほとんどの動作を、無意識に、かつ自動的に行っている。
しかし、その動作をいくら強化し、洗練させたとしても、日常的な動作の延長線上にあるかぎり、もともとの肉体的資質や、戦闘的資質に優れた者が相手では、勝ち目がない。
よく言われるように、同じぐらいの資質を持っていても、身長160センチ、体重50キロの人間は、身長190センチ、体重100キロの者には、物理的に勝てないことになってしまう。
スポーツに、体重分けがあるのは、そのためだ。
そういった圧倒的に、肉体的資質に恵まれた者を倒せずして、それが術と呼べるだろうか?
型は、実戦の演習ではなく、そうした日常的な動きの延長線上の動きから、武術的な動きに転換するためのマニュアルなのである。
したがって、日常的な動作から脱却し、動きを術に変換するため、決められたかたちで、決められた動きを、きっちりと行わねばならない。
月明かりのもと、新八は和多五郎に受けをとってもらい、ひたすら平晴眼の型に熱中した。
木刀が合するたび、乾いた鋭い音が鳴り響く。
「和多五郎さん……こんなに激しく稽古したら、河井さんが、起きちゃいませんか?」
「ああ、あのひとなら大丈夫だ。一升も空けたんで、頭の上で鉦や太鼓を鳴らしても、ぐっすりだろうよ」
そう言って、和多五郎は笑ったが、不意に表情を引き締めた。
「それよりも新八……後ろ足が外に開いて、正中線からずれているぞ。きっちりと撞木に足を揃えるんだ」
構えた姿勢から、一歩足を踏みだして斬る。天然理心流では、このさいに、踏みだした足と後ろ足を、正面から見て一直線に揃える。
この古流に特有の撞木という構えには、非常に動きにくいし、不合理なかたちだと言う剣道家は少なくない。
それは、地を蹴って、その勢いを利用するスポーツ的な意味合いにおいては、たしかにその通りだ。
だが天然理心流は、スポーツではない。命懸けの武術なのだ。
剣術では、地を蹴った反動を利用する動作を、厳に戒めている。
なぜならば、地を蹴った段階で、動きに拍子を与え、その動作がいかに速くとも、動きの起こりを、容易に相手に捉えられてしまうからだ。
「地を蹴り、踏みだすのではない。膝を抜くのだ。膝を抜いて落下する身体の動きで前にでる……そうでなければ、起こりがまる見えだぞ」
「わかってはいるのですが……」
竹刀剣術に慣れ、前後左右に素早く移動するため、つい、後ろ足が開きがちな新八に、和多五郎が檄を飛ばす。
「いいか……平晴眼は、切っ先を相手の顔につけ、身体のすべてを刀の陰に隠す。その上で刀身を寝かせぎみに開き、相手の動きを誘う……
正中線から身体がはみ出せば、そこを斬ってくれと、言っているようなものだ。斬られたくなかったら、そのことを、肝に命じるのだ」
「わかりました」
「よし、ではもう一本!」
再び激しい型稽古がはじまり、深夜の畑に、天然理心流に特有の、棍棒のような木刀が、乾いた音を響かせる。
木刀の重さに、最初は戸惑いを見せていた新八も、二ヶ月あまりの間に、すっかりその重さに慣れていた。
稽古をはじめて半刻あまり。ふたりは夢中になり、周りの景色も時間の経過も意識から消え失せ、お互いの存在以外、なにも目に入らなくなった。
新八が平晴眼。和多五郎が斜に構える。深夜なので気合いはかけず、音のない対峙だ。
型は約束事……などというが、いつ技を仕掛けるかは、打ち合わせもなければ、目で合図するわけでもない。
それは、お互いに、いま、技を仕掛けるという、相手の心の動きを読むことからはじまる。
動きの起こりというのは、心の動きとは同時ではない。意識に現れてから実際に動くまでに、わずかなズレがあることは、よく知られている。
型には、相手のこのわずかな差異を察知する、という意味合いも含まれており、それは、動きを限定した条件に設定する、型だからこそ、なし得るのだ。
構えたふたりの間には、硬質な緊張感が漂う。
このときふたりは、ただ相手の息遣い、身体から漂う気だけを感じている。
(――来る! いまだ!)
和多五郎の木刀が閃く。その寸前、起こりを捉えた新八の木刀が風を斬った。
渇いた音が、深夜の畑に鳴り響いた。
新八の木刀が、和多五郎の木刀を払い、そのまま一歩足をすすめると。
「よし。いまのはよかったぞ」
その切っ先は、和多五郎の胸に、ぴたりとつけられていた。
「ありがとうございます」
新八が頭を下げると、和多五郎が続ける。
「――だが、俺の木刀を払った動きと、その後の動きが、まだ一拍になっていない。
いいか。斬り下ろす動きと押す動き。それを同時に行うのだ。この型は、そこが眼目だからな」
「わかりました……では、もう一本お願いできますか?」
和多五郎は、それにはこたえず、苦笑を浮かべながら、新八の後方に視線を送る。
新八が顔を振り向けると、そこには蔵六が立っていた。
「おまえら、いい加減にせんか。馬鹿者どもめ! やかましくて目が覚めたではないか!」
「新八、あとはまかせた!」
和多五郎は、新八に向かって木刀を放り投げると、一目散に逃げだした。
いささかの
「あっ、逃げた。ひでえ! 和多五郎さんも同罪ですよ」
新八がそう口にしたときは、和多五郎の姿は、すでに闇に紛れていた。
「和多五郎め。四十をすぎて、まだバラガキ気分が抜けておらん。まったくあやつは……」
やれやれと蔵六が嘆息した。
「本当に困った大人ですね」
と、新八が同意したとたん、
「馬鹿者! おぬしもじゃ!」
「いてっ!」
蔵六の拳が新八の頭を叩き、目からチカチカと星が飛び散った。
新八には、その蔵六の動きの起こりを、捉えることができなかった。拳ではなく刀だったら、あっさりあの世行きである。
「やっぱり師範はすげえ……」
新八がそうつぶやくと、蔵六は、ふん、と鼻を鳴らし、踵を返して、さっさと歩きだした。
「いいから、もう寝ろ」
その口元は、いかにも楽しそうに、笑みのかたちを、浮かべていた。
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