episode・35 伊庭是水軒秀明
部屋のなかには、重苦しい空気が澱んでいた。
日影和田の千人同心・石川良助の道場の長屋門の一室である。
歳三たち三人は、松岡の道場で稽古したあと石川道場に戻り、こちらでも軽く稽古をしているうちに、すっかり陽が暮れてしまい、石川は、歳三たち三人に、再び宿泊を勧めた。
三人は、川の字に寝転がったまま、光岡を斬った者について話していた。
「では、トシさんは、斬ったのは、祐天一家の者ではないと?」
八郎が言った。
「ええ。八王子で、やつらから得た感触からして、それは間違いないでしょう。祐天一家の三下たちも、単純に甲府に向かう。と、考えていたようですから」
「そういえば、祐天一家の三下を痛めつけて、訊いてましたよね。トシさんは、おっかねえからなあ……かわいそうに、あの三下、ちびってましたよ」
峯吉が、けらけらと笑った。
「よけいなことを、言うんじゃねえ」
「ほら、やっぱりおっかねえ」
ふたりのたわいないやり取りに、八郎が笑った。
「となると、青梅宿で、たまたま例の馬鹿長い太刀を差した男と出会い、斬りあいになった。という経緯でしょうか……」
「争っていた様子はなく、むしろ親しげな様子だったことから、理由はわかりませんが、石川師範の推測どおり、尋常なたちあいだったと考えるのが、いちばん筋がとおります」
歳三が、冷静に分析する。
「もしくは、たちあいは、以前からの決め事だったとか……」
「だとしても、小男と出会ったのは、たまたまでしょうね。光岡さんが、祐天一家を抜けだしたのは、八郎さんとの偶然の出会いが原因で、それは、誰にも予測のつかないことですから」
歳三の言葉に、八郎が考えこむ。そこに峯吉が、唐突に口をはさんだ。
「ねえ、トシさん……小男っていえば、俺んちの近くで見た、盗賊一味の先頭を走ってたやつも、小男だったよね」
「――!!」
峯吉の、何気ないひと言に、歳三の動きが止まった。
「そうか……そういえば、たしかに小男だった。しかも、あのただ者じゃあない身のこなし……」
「ね、やっぱりそうだよね。小男ってより、子どもみたいな背丈だった」
「峯吉、よく気付いた。お手柄だ……というより、俺が間抜けすぎだ」
「……?」
八郎が、怪訝な表情を浮かべる。
「トシさん、それは、なんの話しですか?」
「ああ、じつは……」
歳三が、深夜の陣馬道で、盗賊一味らしき集団に出会った経緯を説明すると、八郎の顔に緊張が走った。
「しかも、松岡師範にきいた話だと、新八さんが、八王子の名主にたのまれて探っていたのも、その盗賊一味……
もしかしたら、話は、見えない糸で、つながっているような気がします」
「となると、やはり鍵となるのは、その小男と甲府でしょうか」
「俺には、そう思えますね」
「では、わたしは明日、甲府に向かいます」
「俺も行きますよ。乗りかかった舟だ。こうなったら、行くところまで行くしかないでしょう」
「あ、トシさん。俺も行きますよ。置いてきぼりは、ごめんですからね」
峯吉が脳天気にこたえる。この男、物見遊山と勘違いしているとしか思えない。
「うるせえ。わかったから早く寝ろ!」
歳三が、ぶっきらぼうに言った。
歳三と峯吉のやりとりに、八郎が笑いを噛み殺している。
「やっぱりトシさんは、おっかねえ……でも、俺は、どこまでもついていきますよ」
「ふん、勝手にしやがれ」
峯吉の言葉に嘘はなかった。
このとき歳三は、まったく本気にしていなかったが、なにしろ峯吉は、京都、大阪、宇都宮、会津から仙台、そして最後は函館と、旧幕府軍が壊滅するまで、歳三と共に転戦したのだから……。
前澤は、新家の道場に戻ると、部屋には、まっすぐ戻らず、鼻唄を歌いながら、いまは使われていない中庭の一角で、立ちしょんべんをした。
意味のない詩に、常磐津のような節をつけ、上機嫌に歌いながら、しずくを切ると、ふらふらと道場に入る。
「おっ、前澤の旦那、ご機嫌ですね」
道場に入ると、新家の内弟子、左古田が、からかうように声をかけた。
「おお……甲府には、江戸のころからの馴染みがおってな。嫌というほど飲まされてしまった」
「そのかた……もしかしたら、甲府勤番ですか?」
「なんだ、おまえ。よくわかったな……そうだ。彼奴は、飲む打つ買うの三拍子が揃った道楽が過ぎて、甲府勤番島流しだ」
前澤は、笑いながら階段を登る。
左古田が、あきれて見ていると、階段の角に足をぶつけ、前澤は、口汚く罵りながら、倒れこむように部屋に転がりこんだ。
「ちぇっ、酔っぱらいが……」
前澤の部屋からは、鼻唄がきこえてくるが、やがて静かになった。
どうやら、酔って寝てしまったらしい。
ところが、部屋に寝転がった前澤は、寝てはいなかったし、酔ってもいなかった。
(やはり、あの小屋には、誰かが潜んでいやがる。内弟子のふたりは、おそらく盗賊の一味か……)
前澤は、泥酔したふりをして、素面で入ると怪しまれる場所を、ひそかに探っていた。
江戸で、悪党を相手に、悪御家人稼業を続けてきた前澤には、疑り深い習性が染みついていたからだ。
そのまま一刻ほど横になり、新家の道場が寝静まると、前澤は忍び足で、内弟子の部屋の様子を伺った。
部屋のなかからは、
前澤は、音もたてず台所から中庭に出て、裏の平屋に忍びよった。
部屋からは予想したとおり、話し声がきこえてきた。前澤は、倉本の家から失敬してきたお椀を懐から取りだすと、壁につけて耳をそば立てる。
「新家の女房は、ほんとに気付いていないと思うか?」
「ああ。怪しいとは、思っているだろうがな……だが安心しろ。小頭が始末をつけるはずだ」
「殺るのか?」
「当たり前だ。災いの芽は、摘みとらねばなるまい。もっとも、小頭が戻ったら仕事が待っている。捨五郎が居場所を突き止めたら、祐天一家に、金で始末をつけさせる手筈だ」
「ちえっ、また祐天に下請けかよ……あんなやくざ者に弱味を握らせるなんて、小頭は、なにを考えていやがるんだ」
「いや、祐天は抜け目のない男ではあるが、清河先生には、めっぽう心酔している。心配することはあるまい」
「だといいがな……どのみち俺たちには、次の仕事が待っているから、女に関わっている暇はねえが」
「うむ。あとは、小頭の帰りを待つだけだ」
そこまで耳にすると、前澤は、音も立てず静かに後退り、部屋に戻った。
(ふうん。新家の女房がずらかったか……まあ、消されるのは、かわいそうだが、俺には関わりのないことだ……)
行灯の明かりにわずかに浮かぶ、天井板の模様を、ぼんやりとながめているうちに、前澤は眠りに落ちた。
前澤は、刀掛けに愛刀を掛けたことがない。うっかり抜き取られないように、下緒をほどいて身体の下に回し、刀を抱くように眠る。
襲撃に備えたこの寝姿を見ただけで、この男が平安などとは、無縁の人生を送ってきたことが、見てとれた。
朝餉を終え、八郎と峯吉が、石川道場の居間で茶を一服していると、道場主の石川良助と師範代の木村佐太郎に、出立の挨拶を済ませた歳三が、部屋に戻ってきた。
「八郎さん。佐太郎さんが褒めてましたよ。伊庭道場の跡取りなのに、少しも
「いや、偉いなんてとんでもない。以前から柳剛流には興味があったので、よい勉強になりました」
「でも、柳剛流ってのは、心形刀流から派生した流儀なんですよね? それなのに、学ぶことなんてあるんですか?」
峯吉が八郎にきいた。
「峯吉さん。それは違います。たしかに柳剛流は、心形刀流から派生しましたが、異なった理合も含まれています。学ぶ価値のない流派など、ありません」
「へえ。そんなもんなんですかねえ……」
「そもそも、心形刀流の成り立ちというのが、いくつもの流儀の良いところを、流祖の是水軒が、自らの理合で、まとめたものなのです」
心形刀流は、天和二年に、伊庭是水軒秀明により創始された。
流儀名は「しんぎょうとうりゅう」と読む。これは、当時の伝書には、そう記されており「しんけいとうりゅう」と書かれたものは、見あたらないことからして、まず間違いないであろう。
是水軒は、幼いころより武術を志し、江戸にて新陰流、二天一流から派生した武蔵流などを学んだ。心形刀流に、二刀の型があるのは、あるいは武蔵流の影響かもしれない。
その後、武者修行に出て、上州の山中で安藤不睡という剣客に出会い、一刀流の奥義を得た。
しかし是水軒は、それに飽きたらず、柔術で知られる竹内流、関口流などを学び、東海から近畿まで足を伸ばし、その地において、本心刀流の
是水軒はこの謙寿斎を、弟子の大藤弥次右衛門ともども試合でうち負かすが、本心刀流の理合に感銘を受け、謙寿斎の弟子となり、本心刀流を学んだ。
「ええっ、やっつけた相手なのに、その弟子になっちまったんですか!?」
峯吉が、すっとんきょうな声をあげた。
「そこが流祖・是水軒の偉いところです。たしかに剣の実力は、流祖が上でしたが、本心刀流の優れた稽古体系と、流儀名にこめられた“本心に帰す”という思想に共鳴したのです」
「本心に帰す?」
「稽古は『
その形を研鑽することによって、自らの『本心』を見極め、それを悟ることで、目に見えないその形を『刀』という、実際の武器に
そうした『流』れを感じ、それを体現することこそが、我が流儀『心形刀流』の奥義なのです」
「へえ。流儀の名前に、そんな深い意味合いがあるなんて、大したもんですねえ」
峯吉が素直に感動していると、
「おい、峯吉。感心するのはいいが、おめえ、天然理心流の流儀の由来を、知ってるのか?」
歳三が、皮肉な声で言った。
「えっ、いや、たしか天然の理をもって……あの、その……」
こたえに詰まり、峯吉が頭を掻いた。
「流祖、近藤内蔵之助は……
いかなる相手に対しても動じない極意必勝の実践を教え、自然にさからわず、天に象どり地に法り、以て剣理を究めることから、天然理心流と命名した。
馬鹿野郎、おめえも理心流の門人なら、これぐらい覚えておきやがれ」
「へへへっ、俺は、こむずかしいことが苦手なんで」
八郎が、ふたりのやり取りに、思わず吹きだした。
「さあ、出発だ。ぐずぐずしてる暇はねえ。峯吉、さっさと支度しろ」
歳三たち三人は、旅支度をととのえると、玄関まで見送りにでた、石川と佐太郎に挨拶をすませ、日影和田をあとにした。
いざ甲州に向かうが、もとより歳三に、なんらかの方策があるわけではない。
「トシさん。甲州になにか足がかりは、ありますか?」
八郎の問いかけに、
「じつは笹子峠より先には、一度しか行ったことがありません。なあに、当たって砕けろですよ」
歳三が朗らかにこたえた。
「トシさんも、意外と適当ですね」
先ほどの仕返しとばかり、峯吉が揶揄すると、
「おめえに言われたくねえな」
歳三がまぜ返す。
「ならば、わたしのほうがましですね。甲府に、祖父の弟子が道場を開いていて、いまは、その子息が、道場を引き継いでいるはずです。まずは、そこから行ってみましょう」
江戸っ子の信仰が厚い御嶽山を横目に、眼下に多摩川をのぞみつつ、三人は、次第に山々がせまる青梅道を、甲府に向かって歩きだした。
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