episode・32  日影和田 石川良助


 青梅宿は、気の遠くなるような、長い年月をかけて、多摩川が作った谷の、南側に面した台地にある。

 その青梅宿から多摩川沿いを、半里ほど上流に向かって歩くと、日向和田ひなたわだという集落があった。

 この日向和田という集落の名前の由来は、陽当たりがよいことからきている。

 一方、日向和田とは、多摩川をはさんで対岸にある集落は、現在は、縁起が悪いということで、単に和田と呼ばれているが、かつては陽当たりの悪さから、日影和田ひかげわだという地名であった。

 しかし、その地名からくる、薄暗いイメージとは裏腹に、日影和田は、梅の里として知られており、この地で収穫された梅は、江戸にも出荷されていた。


 歳三たち三人は、八王子から、その昔、畠山重忠も進軍したという、いにしえの鎌倉街道に抜け、梅林に影を落とす馬引沢峠を越えて、日影和田の集落にある柳剛流・石川良助の道場を訪れた。

 石川家は、この集落の名主の流れを汲む千人同心で、屋敷は長屋門を構えた、茅葺きだが、堂々たる佇まいである。


「へえ、同じ千人同心でも、俺んちより立派な家だなぁ」

 立派な長屋門を見上げて、峯吉がぽかんと口を開けた。

「石川師範の家は、このあたりの名主の筋だからな」

 そう言いいながら、歳三は無遠慮に、道場の玄関をくぐり、

「たのもう!」

 と、大声でよばわった。まるで道場破りである。が、しかし、その表情かおには、まったく緊張感がない。

「どおれ!」

 野太い声で、厳めしく男がこたえる。が、歳三の顔を見ると態度を一変させ屈託のない笑顔を浮かべた。

「あれぇ、なんだ。トシさんじゃないか。一昨日きたばかりなのに、いったい、どうしたんだい。石田散薬なら、まだ、たんまりあるぜ」

 驚いた表情をうかべ、男が言った。

 この男は、石川道場の師範代の木村佐太郎。歳三とは、かねてより馴染みの仲であった。


「佐太郎さん。今日は薬の話じゃなく、別の件で、お邪魔しました」

「うちの師匠なら、いま青梅に行ってて留守だぜ」

「そいつは間が悪かったな……いつ頃、こちらに帰られるか、わかりますか?」

「それが……ちょっと、ややこしい話でさ。ゆうべ熊野神社で、斬りあいがあって、どうやら斬られたのは、師範の知り合いらしいんだ」

「な、なんですって!」

 歳三と八郎が、思わず顔を見あわせた。

 心なしか、八郎の顔が青ざめている。峯吉は、わけがわからず、ぽかんとした表情を浮かべていた。


 青梅宿には、新町の粂蔵という道案内(十手持ち)がいて、草鞋履物を商うかたわら、八州廻りの手先を務めていた。

 歳三たち三人が、問屋場の隣にある、小さな番屋に駆けつけると、土間には筵が敷かれ、そこに光岡伊三郎の遺体が横たえられており、粂蔵と石川が検分しているところだった。

「光岡……!」

 八郎が、沈痛な声で言った。

 振り向いた石川が、歳三を見て目を丸くする。

「なんだ。トシさんか。とうしたんだ。立て続けに……そちらの方は?」

 石川が驚くのも無理はない。なにしろ歳三は、一昨日、置き薬の石田散薬を、取り替えにきたばかりなのだから。

「師範。この方は、伊庭八郎さんといって、光岡殿の……」

「おお、あなたが練武館の……このたびは……」


 石川が言葉に詰まった。というよりも、かける言葉が、見つからなかったのだ。

「石川師範……これは、どういう経緯いきさつだったのでしょうか?」

「うむ。所用があって、わしもちょっと前に、来たばかりでな。詳しい経緯なら、粂蔵にきいたほうがよい」


 歳三の問いに、粂蔵がこたえる。

「へえ。今朝早くのことでした。熊野神社の禰宜ねぎさんが……」

 明け六、禰宜の助太郎に、叩き起こされ、寝ぼけ眼をこすりながら、粂蔵が神社に駆けつけると……。

 参道の脇の藪から、男の足がはみ出しており、粂蔵の眠気は、一瞬で消しとんだ。

 さらに、その遺体は、以前、石川道場で見かけた顔だったので、あわてて手下を、石川道場に向かわせた。

――というわけです」

「伊庭殿。この斬り口をご覧くだされ」

 石川が、遺体の肩口を示す。

「むう、見事な斬り口……斬ったやつは、かなりの腕でしょうね」

 呻くように八郎が言った。

「さよう。そして、こちらが、光岡さんの刀です」

 遺体のかたわらには、抜き身の刀が置かれていた。石川は、刀身を見るよう、八郎をうながす。

「刃こぼれが激しいですね。そして、切っ先には、微かに血曇りが見られる……ということは……」

「そう。どうやら闇討ちなどではなく、たちあいだったようなのです。と、いうのも……」


 石川の言葉を粂蔵が継ぐ。

「じつは、昨日の夕方、笊屋のおたか婆さんが、このお方と、やけに背の低い男が、なにやら親しげに話しながら、熊野神社のほうに向かって歩いてゆくのを、見たそうで」

「顔見知りだったけど口論になり、ついカッとなって……という線も、考えられますね」

 歳三が口をはさんだ。

「へえ。ですが、おたか婆さんは、ふたりが争っているような様子は、なかったと言っておりやして……

それからしばらくして、神社から、てめえの身の丈の、半分ほどもある大刀を差した、尻っ端折りの小男が、ひとりで、でてくるのを見たとか……」


「その小男というやつを見たものは、ほかに、いないのかい?」

「今朝がた、宿場内のすべての宿屋を回りましたが、ゆうべ、この宿場に泊まった、お武家様は、ひとりもおりやせん」

「まあ、ひとを斬ったあと、その宿場に泊まるやつなんて、いるわけねえか……」


 歳三が、そうつぶやくと、

「一昨日までは、八州廻りの馬場俊蔵さまが、小者ふたりを連れて、四日ほどご逗留しておりましたが、昨日の朝早く、坂戸に向かって出立いたしまして、それからは、公務で甲州に向かう勤番侍と、そのふたりを除いて、この宿場に、お武家様は、入ってねえんでさ……」

「昨日まで、馬場の旦那が滞在していたのか……」

 歳三の目が、すうっと細められた。八州廻り馬場俊蔵は、義兄の佐藤彦五郎とも昵懇の間柄である。


(陣場道で見た、あの盗賊どもが、箱根ヶ崎で青梅道に入らなかったのは、そういう理由だったというわけか……)


 このとき、盗賊の行動と、八州廻りの動向をを結びつけた、歳三の勘の冴えは鋭い。

――が、まさか、その盗賊一味の先頭を走っていた男が、光岡を斬った御子神紋多だとは、さすがの歳三も、思いつかなかった。

「その男は、青梅には、泊まっていませんが、ついさっき、手先の松吉を、新町宿の宿屋に向かわせましたので、夕方には、そちらのほうも調べがつきやす」

 歳三は、刃傷沙汰を起こした隣の宿場に、泊まる馬鹿は、いねえだろうなあ……とは、思ったが、

「そいつは、ご苦労なことで」

 と、ねぎらいの言葉をかけた。が、先ほどから、八郎が沈黙しているので、ふと顔を向けると、その目には、うっすらと光るものが浮かんでいた。

「八郎さん……」

 歳三もまた、石川と同様、八郎にかける言葉を、見つけることができなかった。



 その日の早朝。山口一は、錦町に建つ、倉本の屋敷の居間で目を覚ました。

 ゆうべ前澤が帰ってすぐ、倉本が所用から戻ると、酒盛りがはじまり、そして、ふたりで、しこたまのんで、いつの間にか酔いつぶれてしまったたらしい。

 横を見ると、倉本がだらしなく、口を開けて寝りこけている。

 思えば江戸にいたころは、喧嘩や悪所の用心棒の日々で、いつ誰に襲われるかわからず、常に緊張を強いられており、酔いつぶれたことも、ぐっすりと眠ったこともなかった。


「くそっ、俺としたことが……」

 自嘲気味につぶやくと、山口は倉本を起こさないように、静かに部屋を出て、裏庭の井戸で顔を洗い、ついでに、たっぷりと冷たい井戸水を飲んだ。

 見上げると、夜明け前の東の空が紫色に染まり、またたく星が、夜の名残をひきずっていた。

 山口は、ため息をつくと、勝手口から、ふらりと甲府の町に出た。

 夜明けの町には、すでに物売りや、早出の職人、大工、早発ちの旅人などが、ちらほらと歩いている。


 特に行き先は決めずに歩きだすが、なんとなく前澤のことが気になり、柳町に足が向いた。

 柳町は、宿場町だけあって、倉本の住む錦町とは違い、行きかう旅人たちで、早くも活気に満ちている。

 探すまでもなく、新家の道場は、すぐに見つかった。


(ふん。前澤の言ったとおり、見た目は、味噌醤油問屋のままだな……)


 まだ七つを過ぎたばかりなので、もちろん道場には、なんの動きもない。

 そのとき、道場のはす向かいにある茶店で、若い娘が、店を開く支度をしているのが目に入り、

「もういいのか?」

 山口は、腰掛けを並べていた小娘に声をかけた。

「はい、どうぞ。おかけになってください」

「うむ……まずは、冷たい水を。あとは、団子でもなんでもよい。何かつまむものと、熱い茶をたのむ」

「かしこまりました」

 小娘が、元気な声でこたえる。


 小娘から湯呑みに入った水を受けとり、山口は、二日酔いの身体に流しこむ。ようやく頭がすっきりすると、今度は猛然と腹が減り、瞬く間に団子を平らげた。

「あれまあ、お侍さん、よっぽどお腹が空いてたんですねえ」

 小娘が目を丸くした。強面こわもての山口を、少しも恐れていないのか、遠慮のない口のききかただった。

「夜更けまで、酒をのんでいたんでな……ろくに、ものも食べておらんのだ」

「お団子、もっと召し上がりますかね?」

「うむ。では、あとふた串もらおうか」

 山口が追加の団子をかじっていると、道場と蔵の間にある勝手口が開き、ひとりの女が忍び出た。


 女は、菅笠をかぶり、手甲脚絆、背には風呂敷包を、着物の裾をたくしあげ、裾を紐で縛った旅支度である。

 何気なく女を見ていた山口だが、菅笠を直したときに見えた女の顔を見て、一瞬、息が止まった。

 その女の雰囲気が、己れのいたらなさで、むざむざ死なせてしまった、下総の百姓の娘に、そっくりだったからだ。


 あらためてよく見ると、十人並みの容姿だった百姓の娘と違って、こちらの女は、大年増だし、だいいち、人目を惹くような美形である。

 しかし、そういった容姿よりも、男好きのする、妙に色気をたたえた、愁いのある表情が、よく似ていたのだ。

 女は、せわしなくあたりを見回すと、甲州道中を、急ぎ足で、江戸の方向に歩きだした。


 女が去り、山口が団子を食べ終えて、茶を一服していると……。

 道場の奥にある廃屋のような小屋から、その汚い外観とは、あまりにも場違いな、ぱりっとした身なり商人が顔をだした。

 商人は、あたりを素早く見回し、周りにひとがいないのをたしかめると、女の去った方向に歩きだす。

 笠で隠れてはいるが、堅気とは思えない、鋭い目付きだ。


(ふうむ。怪しげな……前澤め。やつらに引っかかったようだな。それにしてもあの女、よく似ておった……)


 山口は、卓に小粒を置くと、立ちあがる。

「あれっ、お侍さん、こんなにいただいては!」

「釣りは心付けだ。とっておけ」


 小娘に声をかけると、山口は、後ろも見ずに、茶店をあとにした。



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