episode・10  千人同心 増田蔵六


 新八が八王子横山宿に着いたのは、まだ朝の五つを回ったばかりの時刻であるが、驚いたことに、町はすでに喧騒にみちていた。

 八王子は、かつては北条氏の居城、八王子城の城下町として栄えたが、天正年間に、北条氏の滅亡とともに、いったん寂れてしまう。

 しかし場所を移し、徳川幕府が制定した五街道のひとつ、甲州道中の宿場町として、再び繁栄を取り戻していた。


 甲州道中沿いに、約一里、十五宿も続く繁華な宿場で、横山に本陣一、脇本陣二、八日市に脇本陣二(のち一軒焼失)、この時代、人口は約六千人あまり。これは、東海道の大きな宿場に匹敵する規模である。

 東海道や中仙道などのような、日本の動脈ならばいざ知らず、高尾山のふもとにある、いたって地味な立地に不相応なこの繁栄には、大きな理由があった。

 八王子を貫く甲州道中は、参勤交代に利用する大名家こそ三家と少なかったが、さまざまな街道が交差しており、甲斐と江戸を、そして、相模と武蔵、上野を結ぶ、物産の重要な中継地だったのだ。


 なかでも絹の取引が盛んに行われ、早朝から縞市と呼ばれる市がたち、街道沿いには、何軒もの大店が軒をつらねていた。

 通りには、荷馬や旅人、近隣から集まった農民、商いをする人びとが、せわしなく行きかっている。


 八日市、八幡、八木とすすみ、追分までやって来ると、新八は歩みを止めて道標を見た。

そこには『左・甲州道高尾道。右・あんげ(案下)道』とある。

 千人同心は、この追分付近に居を構え、そのあたりは千人町とよばれ、千人同心の屋敷が連なっている。左手には、敷地が五千百坪もある旗本格の千人頭・萩原頼母の拝領屋敷の長屋門がそびえていた。

 新八は、高尾道をゆき、馬場横丁の手前まで来ると、府中で書いてもらった地図を取りだした。

 家並みは続いているが、このあたりは、横山宿とはちがい、さすがに繁華ではなく、田舎じみた景色である。城下町でもないのに、広大な敷地の武家屋敷が並んでいることが、異彩を放っていた。


 ほどなくして新八は、風雅な腕木門を構えた茅葺きの建物の前で立ち止まった。地図によると、ここが増田蔵六の屋敷のはずだ。

 門の横には、道に沿って道場のような建物があるが、ひとの気配はなく静まりかえっていた。

 しかし、同心というからには、江戸にある、同心の組屋敷のようなものを想像していたのに、右手奥に見えるその家は、どう見ても、百姓の屋敷にしか見えなかった。

 念のため地図を見ても、この場所にまちがいはない。そこで、板塀越しになかを覗くが、屋敷にもひとがいる気配はなかった。


 板塀で囲われた敷地のなかには、茅葺きの家が建っているが、その周囲には畑がひろがっている。

 あたりを見回すと、その畑で、しきりに土を起こしている老人がいたので、声をかけた。

「もし、ご老人……ちと、ものを尋ねるが、千人同心の増田蔵六殿の屋敷は、こちらでよろしいのだろうか?」

 老人は、ゆっくりと振り向き、

「はあ……そうじゃが、それがなにか?」

 と、言った。

 老人は、継ぎのあたった、みすぼらしい野良着の裾を端折り、ねずみ色の股引きを穿いた、見るからに田舎臭い風体である。

「もし増田蔵六殿を、ご存知なら、取りついでいたたけませんか」

「いや、その必要はない」

「どういうことですか?」

「わしが、その増田蔵六じゃ」


 新八は、がらんとした、だだっ広い板敷きの道場に通された。

 正面には、神棚があり、壁に木刀や槍、棍棒などが並べられ、門弟の名札がかかっているだけで、いたって質素な佇まいだ。

 蔵六は、府中の茂平からの添え状に目を通し、

「ふん、あの爺い……まだ生きておったか」

 と、つぶやいた。

「茂平さんとは、どういう付き合いなんですか?」

「ふふっ。なあに、今からもう三十年以上も前に、剣勝負をした間柄さ」

「真剣勝負……」

 思わず新八が口にだした。

「さよう。あのころは、お互いに若かった」

「で、その勝負は……」

 蔵六は、にやりと笑うと、着物をはだけて、上半身を見せる。

 そこには、肩から胸にかけて、一直線に白い傷痕があった。

「茂平にも、似たような傷痕が残っているはずじゃ。まあ、若気のいたり……って、やつじゃな」

「どおりで、あの爺さん、ただ者ではないと思ったぜ……」

「ところで、おぬし、武者修行の旅だとか。流儀は神道無念流……岡田十松の門弟か?」

「はい。先代に入門し、当代に皆伝を許されました」

「ふふん。先代の教え子か。――どれ、新八とやら。早速たちあおうか」


 これには、新八もいささか驚いた。道場主ならば普通は、もっと警戒するか、もったいつけるものだと思っていたからだ。

 蔵六は、立ちあがると、防具をつけるのは面倒じゃ、と、つぶやきながら、壁にかかっていた朱色の袋竹刀を、新八にわたした。

 袋竹刀は、新陰流が使用する竹刀で、一般的な竹刀とは、大きくちがっている。

 戦国末から江戸初期にかけて、多くの剣術流派が勃興した。

 その当時は、稽古や試合でも真剣や木刀を使っていたので、怪我人はもとより、多数の死人がでた。

 そこで、新陰流の柳生家が、発明したのが袋竹刀である。

 袋竹刀は、ささらに割った竹を、馬の革で包み、それに漆を塗ったもので、昨今使われている竹刀よりも、はるかに柔らかい。

 だから、面籠手などの防具をつけなくても、痛い思いをするだけで、大怪我をすることはなかった。

 余談だが、柳生新陰流という流派は存在しない。正しい流派名は、である。新陰流の宗家が柳生家ということから、混同されてひろがったのだろう。


 蔵六は、下段晴眼。新八は正眼に構えて対峙する。

「いざ……」

 その瞬間、新八に戦慄が走った。

 そこに立っていたのは、先ほどまでの田舎臭い老人ではなく、紛れもない武人そのものだったからだ。

 蔵六の身体からは、ゆらゆらと炎のように、剣気が吹きあがる。その圧倒的な闘気に、新八の肌が粟立った。


(こいつは、まさに真剣勝負だぜ……)


 蔵六の手にあるのは、たとえ急所を、したたかに打たれても、怪我ひとつせぬ袋竹刀にすぎない。

 しかし、新八には蔵六の竹刀が、真剣と同じ圧力を持って迫っていた。いままで一度も味わったことのない重圧感に、早くも額に汗が伝わる。

 ふたりはまだ、攻防の間合いには、入っていない。

 それなのに、どうしても身体がひけてしまうことに、新八は戸惑っていた。

 三味線堀で、はじめて真剣でをしたときも、これほどの重圧は感じなかったからだ。 


(いかん、完全に呑まれている……)


 新八は、正眼に構えた竹刀を、ゆっくりと振りあげ、大上段にとって、気合いを入れた。

「やっ!」

 すると、それまで圧され気味だった気持ちが、みるみる平常心を取り戻した。

「――ほう」

 蔵六が感嘆の声をあげる。

「気を跳ね返しよったか……どうやら、ひとりやふたりは、斬ったことがあるようじゃな」

 蔵六が、じわじわと間合いを詰める。


 新八は、臍下丹田に気を下ろし、蔵六の起こりを捉えようと集中力を高めた。

「ゆくぞ!」

 蔵六がそう言ったとたん、暴風のような殺気が、新八を襲った。

 比喩ではなく実際に、暴風が、身体に叩きつけられたように感じた新八は、

「やあっ!!」

 思わず反射的に、竹刀を振りおろす。

 そのタイミングに合わせて、蔵六が下段の竹刀を振りあげると、新八の竹刀が跳ねあげられ、軌道を外された。


(――しまった!)


 と、思った瞬間、新八の竹刀は飛ばされ、蔵六の竹刀が、新八の肩先を打っていた。

「どうやら勝負あり、じゃな」

 蔵六が楽しそうに笑った。

「いまのは……」

「天然理心流、龍尾剣」

「参りました。完敗です」

「なあに、新八さん。その若さで、そこまで使えたら、なかなかのもんじゃ」


 試合を終えて、ふたりが道場の奥の、八畳の座敷で向かい合って茶を飲んでいると、ひとりふたりと、門弟たちが集まりはじめた。

「ずいぶん稽古がはじまるのが遅いのですね」

「わしの門人には、武士もおるが、千人同心や百姓が多い。稽古に来るのは、畑仕事がひと段落してからじゃ」

「なるほど……ところで、天然理心流には、剣術のほかに、柔術や棒術もあると耳にしましたが……」

「さよう……その三術ができぬものには、指南免許は与えられぬ。先代はもうひとつ、気合術も得意であったが、それを誰にも伝えないうちに、世を去ってしもうた」

「気合術……それは、いったい、どのような術なのですか?」

「口で言ってもわかるまい。どれ、わしも初歩だけは、かじったので、ひとつ披露しよう」


 蔵六は、立ちあがると、道場から出てゆく。新八が、あわててあとを追った。

 蔵六の屋敷がある、窪田岩之丞組の組屋敷の敷地は、四千坪近い広さがあり、道場の裏手には、のどかな田園風景が広がっている。

 庭の片隅で、大きな柿の木が枝をひろげ、その枝には、一羽のメジロがとまっていた。

「あの鳥を、よく見ておれ」

 蔵六は、そう言うと、

「えいっ!!」

 鳥をゆび差し、鋭く気合い声をかけた。

 すると、鳥は、なにかに撃たれたように、ぱたりと地面に落ちた。

「……!!」

 信じられない光景に、新八が目を丸くする。

「これが気合術……我が師・三助は、鉄砲を持った猟師と決闘になったとき、気合いをかけると、猟師は動けなくなり、引き金を引くことができずに、一刀のもとに斬られたそうじゃ……

馬の鞭で、ひと抱えもある岩を、気合いもろとも真っ二つにした、などという話も伝わっておる。

まあ、わしにできるのは、せいぜい小鳥を、落とすぐらいじゃがな」

「それは、ひとを相手にしても、効くものなのでしょうか?」

「おぬしが、思わず竹刀を振りおろしたのは、なぜじゃ?」


 新八は、蔵六から叩きつけられた、凄まじい殺気を思いだしていた。

「そう……倒せなくとも、あのように使えば、多少は、役にたつ」


(あの気合いをまともに受けたら、気の弱いやつなら失神ぐらいするかもしれねえな……)


 などと、新八が考えていると、

「なに糞! という気概があれば、あの程度の殺気は、跳ねかえすことができる。おぬしも、わしが最初に仕掛けたとき、見事に跳ね返したではないか。

我が流儀では、そういう気組きぐみを大切にしておる」

「気組……」

「気持ちは、常に戦場に在れ。――それが剣客の心得じゃ」

「しかし、気合いぐらいは、誰でもかけるのでは?」

「近ごろの撃剣の気合いなど、単なるかけ声にすぎん。本来の気合いは、己の能力ちからを高め、相手を畏怖させねばならん……天然理心流の気組とは、そういうものじゃ」

 新八は、激しく心を動かされていた。

 はじめて真剣の斬りあいをしたときも、山岡鉄太郎とたちあったときも、小手先の技術など消しとび、気合いの勝負だったからだ。

「蔵六師範。しばらく俺をこの道場に置いてもらい、稽古をつけていただけないでしょうか」

「ふん。それはかまわんが……そのかわり、畑仕事を手伝ってもらうからな。剣術より、よほど大変じゃ」

 そう言うと蔵六は、楽しそうに笑った。

 柿の木の根本に眼を向けると、気絶していたメジロが、ブルッと身を震わせ、あわただしく飛びたっていった。

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