第143話 嫌忌
霞んだ視界の向こうに見える、カラドリオスさん達よりも大きなシルエット。
カラドリオスさんは恐らく私の腰のあたり程の小柄な体躯の方々だ。
その向こうの誰かは私達と同じ人のようだと思う。白いな。誰だ。
判断がつかいまま目を細める。やっぱり見えない。
りず君が
前者なら初めましてのルアス軍の人と言う確率が高い気がする。いや、服装が全て白い住人さんもいるのかしら。
考えたくはないが、後者なら――
「――時雨さん」
早蕨さんが私の前に出てきて、呼びかけるような声量を発しているのが耳に入った。
意味の理解出来たそれは、私の兄の名前だから。
兄さん達がそこにいる。カラドリオスの盆地に来ていた。何故。
早蕨さんは何か話しているが聞き取れない。
らず君の額を撫でて光ってもらえたが、早蕨さんの声は聞こえても兄さん達の言葉は距離的に拾えなかった。
近づくか。いや、今それは必要なのか。
「俺達はここに、氷雨さんと細流さんの呪いを解く方法がないか探しに来たんです」
早蕨さんの言葉は分かる。返答内容からして「どうしてここに来たのか」とでも聞かれたのだろう。白い誰かの口が開いた気がする。しかしそれが誰なのかは分からない。
あの、一番背の高いシルエットが兄さんだろうか。
駄目だ、もっと近づかなければ。らず君がどれだけ頑張ってくれても分からない。
歯痒さが私の胸の中で
時間は有限。ここで有限を意味無きものにしてはいけない。梵さんと私にはあと五日しかないのだ。
有限を慈しむべし。
スティアさんがくれた言葉を反芻する。意を決して早蕨さんの袖を引けば、彼は私を見下ろしてくれた。
首を横に振っておく。りず君が代弁してくれた。
「光、時間がねぇ、行こう。お前がカラドリオス達と話せるって信じてるなら。どれかを諦めろとは言わねぇから優先順位はつけとけ」
「……うん、そうだね」
早蕨さんの声が聞こえる。
らず君はヒビが痛んでしまったようで、泣きながら光れなくなってしまった。慌てて彼を抱いて硝子に入ったヒビを撫でる。
ごめん、ごめんね、ごめんらず君。頼り切って、君に全部の皺寄せを与えて。無理させて、不安にさせて、我慢させて。
「ごめんらず君、ごめん、いつも痛い思いさせて」
ぼやけたらず君が首を横に振ってくれたように見える。彼は私の腕を上って、左頬に何度も擦り寄ってくれたのだ。小さな輝きが零れて私に安堵を与えてくれる。
あぁ、温かい。
泣き虫な彼は、どれだけヒビを入れても温かいままでいてくれる。
ごめん、私が弱いままだから。ごめん、ごめんね。
想いながら兄さん達を視界に入れないように顔を動かす。
すると急にカラドリオスさん達が近づいてきて、私の足が固まるんだ。
包囲、囲み、右、お城、左、駄目、後ろ、早蕨さん、前、カラドリオスさん、何故、何、また捕まるッ
「うわ!」
「早蕨さんッ」
数秒考える間に、早蕨さんの悲鳴のような声が聞こえる。
反射で振り返れば、複数のカラドリオスさんが早蕨さんを包囲しているように見えた。まるで餌に群がる鳩のように。きっとカラドリオスさん達は鳩のような見た目ではないのだけれども。
私の足は迷ってしまう。
早蕨さんに手を貸すか自分を優先するか。
その迷いはひぃちゃんにも伝染してしまう。
「氷雨さん!」
耳元で迷ったひぃちゃんの声がする。
反応が遅れた私は、足や服の裾を嘴に掴まれてしまう。
カラドリオスさん。
振り、払、早蕨さ、駄目、決めろ、彼は跳べる。
判断力の無い私のせいで、ひぃちゃんが飛び上がることが出来なかった。
「離しなさい! なんなんですか!」
ひぃちゃんの悲鳴のような声がする。
私はりず君にハルバードに変わってもらうが、距離感が分からなくて腕が止まった。
これで振り抜けばカラドリオスさん達を傷つけるかもしれない。
私は戦いに来た訳ではない。ハルバードは違った。完全に間違えた。いつもみたいに牽制すら出来ない。
「氷雨! 大丈夫だ! 刃は丸い!」
りず君の声は届く。しかしそれが耳に入った時、突然足元から紫色の光りに照らされたんだ。
下から煽る光に目が眩む。
「なんだ、これ!」
驚いたと分かるりず君の声がして、体に静電気が走ったような衝撃が走る。
瞬きも出来ない間。正に一瞬。
喉から出そうになった呻き声は我慢はしたが、指先からは力が抜けて、手から、肩から、背中から、温かさが離れていった。
膝が笑う。
「氷雨!」
「氷雨さん!」
「ひぃちゃん、りず君、らず君!」
駄目だ、倒れる。
膝が地面に着いて体全体が痺れていく。
背中にひぃちゃんがいない。
手の中にりず君がいない。
肩にらず君がいない。
いないという事実だけが私の中にあり、酷く奥歯が震えてしまった。
筋肉が萎縮する。体温が下がっていく気がする。どうして、なんで。
あぁ、なんて無力なんだ。
今の私は余りにも無力だ。余りにも脆弱だ。
誰かに頼らなければ周囲の状況把握だって出来ない。一人っきりになった瞬間、世界から切り離されたような孤独感に襲われる。
震える体を抱き締めて周りを見るのに茶色も、緋色も、硝子の輝きも見えないんだ。
早蕨さんは無事に離れられたのだろうか。駄目だ、分からない。
見えない、見えない。世界が霞んで判別がつかない。
聞こえない、聞こえない。カラドリオスさん達の翼が擦れる音だけ。それも極小さな音で、世界から音が無くなってしまったように感覚がぶれていく。
不意に視界が暗転する。
何かを上からかけられた。反応出来なかった。こんな、容易く避けられるようなことにさえ。
体の末端から冷えていく感覚を味わいながら、かけられた物に触ってみる。それは肌触りの良い布だと理解出来た。
全身を包んでいるそれは端を地面と縫い付けられたようで退かせない。
どれだけ藻掻いても、藻掻いても、藻掻いても。
布を引っ掻いて、何も聞こえない空間が出来上がって。何も見えなくて、瞼を上げても下げても視界は変わらなくて。
あぁ、呼吸が早くなる。
早くなった心臓の鼓動が耳の奥でする。繰り返す呼吸の大きな音も。その二つはより私の焦りを増長させて、増長させて、増長させた。
奥歯が鳴る。体が震える。
何も見えない。何も聞こえない。
疑似的に作り上げられた暗闇は確かに恐怖の種を植え付けた。
怖い、怖い。何も見えないことが、何も聞こえないことが、こんなに怖いだなんて思わなかった。
微かにでも見えていた光りが遠く懐かしい。その温かさに知らぬ間に縋っていたと気づいてしまったら手遅れだ。
恐怖に体を
この布が取れないと分かって、りず君達もいなくて、早蕨さんの声もせず、何も感じることが出来ない。
顔を覆った時に感じた頬の痛みだけが、私はここにいると示している気がしたんだ。
なんて滑稽なんだ。
口角が上がる。頬が引き攣る。
自分の顔を指先でなぞれば、そこには笑っている弱虫がいた。
目を見開いて口元は弧を描き続ける。
怖い、怖い、怖くて怖くて堪らない。
だから笑え、氷雨。
カラドリオスさん達の考えを読め。話をしろ。この呪いを解く方法を知っているかどうか。この痣を癒すことは出来るのかどうか。
それだけでいい。
今、兄さん達の事は考えるな。
この現状での最優先事項は呪いの解き方を探すことだ。
もう四日目を迎えてしまっている。だから折れるな氷雨。立ち止まるな。考えることを止めるな。
お前が勝手に折れてどうする。勝手に震える足を止めるな。それは足手まといになるだけだ。梵さんを危険に晒すだけだ。
翠ちゃんを泣かせるな。祈君に罪の意識を与えさせるな。帳君を不安にさせるな。梵さんを死なせるな。
立て、氷雨。
崩れていた膝を立て、頭の上にある布を押す。それを持ち上げようと足に力を入れると、上から思い切り殴られた。潰すように、私を出さないとでも強く言うように。
それに舌打ちしたくなりながらも我慢して、地面と布を繋ぎ合わせている物を手探りで確認する。
全部で六ケ所。杭のような何かだ。深く刺さっているそれはらず君がいない私ではきっと抜けない。
だが被せられているのは
微かに射し込んできた光りは私に安堵を与えてくれて、布が引き攣る感覚が掌を通じてきた。
やはりこれはただの暗幕。ならば引き裂ける。力を込めろ。外へ出ろ。怯えて固まるな。動け、動け、動けッ
布が避ける感覚がする。
それに一瞬だけ喜んでしまった時、光りの向こうから影が出てきて、私が持ち上げていた布を無理やり下へと戻しやがった。
また視界が暗くなる。黒くなる。
手の中から勢いよく引き抜かれた布は掌を擦っていき、微かな摩擦熱に唸ってしまった。
「――足掻くな、氷雨」
頭の上、布越しに重さが乗ってくる。
感覚的に手が乗せられたの理解して、聞こえてくる声は低く耳に入り込んできた。
小さな声。違う、今の私の耳のせい。聞こえると言うことはそれなりに張られた声なんだ。
「お前が頑張ってどうする。一人で足掻いてどうする。お前が頑張ったところで誰が救われる」
布越しに肩を押さえつけられる。
動くなと伝えてくるそれは私を嫌うあの人の声。
「――呪いを解く方法はねぇ。カラドリオス達はそう言った。だからもう止めろ。足掻くお前は見苦しい」
言葉がしっかり届いてくる。届いて欲しくないものが届く。聞きたくなかったことが届く。
呪いを解く方法がない。
そんな、そんなわけない。
かけたものを解けないなんて酷いではないか。
余りにも一方的ではないか。
一方的な――暴力ではないかッ!
「嘘、嘘だッ」
「嘘じゃねぇ」
「ッ、離してッ、出して! カラドリオスさん達と話す! 邪魔しないでよ兄さんッ!」
振り上げた腕を前に振り落とす。それは確かに私を押さえつける兄に当たったのに、彼の手はびくともしないのだ。
くそ、くそ、くそッ
「兄さんには関係ないだろ! 私が死んでもいいんだろ! なら退けよ! 退いて! 離せッ、ここから出せよ!」
「氷雨」
「私だけじゃないんだ! 呪いを受けたのは梵さんもなんだ! こんな所で立ち止まってたまるか! 諦めてなんかやらない! 見苦しくてもなんでも、足掻くんだよ! だから、退けッ!」
何度も、何度でも兄さんを殴る。岩のように微動だにされなくても、どれだけ肩を押さえつけられても、頭を押さえつけられても諦めてなんかやるもんか。
思うのに、この暗闇は晴れてくれない。光りは戻ってこない。
なんで、なんで邪魔をする。
私の中に煮え
「なんで邪魔するんだよ、兄さん!」
「お前が、死ねばいいと思うからだ」
低い声がする。
押さえつけられる。
上から落とされた言葉は確かに私の胸を
あぁ、また、らず君にヒビが入った気がする。
これ以上、彼を傷つけたくないのに。
この人の言葉は鋭すぎる。
兄さんは等々我慢しきれなくなったのか、柄にもなく大きな声を出すんだ。私にちょうど良い声量で聞こえるってことは、そういうことだろ。
「いつも、いつでも笑う氷雨。お前見てると嫌になるんだよ、何もかも。無理してんのが伝わってくる。我儘も言わねぇ、学校の奴だとか親のことだとかッ、お前が無理して何になるんだ! うぜぇ、全部うぜぇ! 今だってそうだ! 早蕨に手を貸すかどうかで迷って捕まったな! カラドリオス達を傷つけるかどうか考えて
「ッなんだよ、なんで、誰かを思うのは悪いことかよ!」
「あぁ、悪ぃよ! 前にも言ったが、その姿勢を貫いてお前は救われたか!? 救われねぇだろ! イラつく、本当にイラついて仕方ねぇ! その痣が何よりの証拠だ! その痣は長に害だと認定されねぇ限り付けられなかった! お前は何でそれを与えられた!? 何で害だと思われた! お前が他人にいらねぇ気を配ったからじゃねぇのか!」
正論をぶつけられて、言葉が詰まってしまう。
確かにこの痣は私が海堂さん達を救いたいと思って、手助けがしたいと思って、刃を振るった代償だ。
けど、それを兄さんに指摘される道理はない。
貴方が私を嫌いだなんて、見て苛立ってるなんて、ずっと、ずっと、知ってたさ!
頭に血が上っていく。どれだけ藻掻いても押さえつけられて鬱憤が溜まっていく。
暗い、暗い、暗い、邪魔するなッ
私の道を、そこで塞ぐな!
思った時、りず君の声がはっきりと届いたんだ。
「うるせぇ! 退け!!」
「ぅ、ッ」
兄さんの手が離れる。地面に倒れるような音も小さくだが聞き取った。
布が裂かれる。茶色い、それは刃。
彼を握るのは、緋色の翼。
ぼやけたシルエットだが、それは私が知っている、私を支えてくれる、私の刃達。
「氷雨! 出ろ!」
「りず君、ひぃちゃん!」
「氷雨さん、すみません!」
布から飛び出す。足が縺れてしまわぬように。
倒れこみそうになった私をひぃちゃんが支えてくれて、お姉さんごと抱き締めてくれる人もいた。
「跳ねるよ!」
「早蕨、さッ」
私達を抱き締めて、膝を曲げる早蕨さん。私の中に浮かびかけた安堵の言葉は、考えることすら押し留めた。
駄目だ、これは思ってはいけない。戻れなくなる。彼を敵に出来なくなる。
そんな心中も知らぬまま跳ねようとした早蕨さんだったが、彼の体には力が入り、私の後頭部に添えられた手は震えていた。
「時沼君!」
早蕨さんの声がする。
時沼さんが私の後ろにいる。
どれだけ高く跳ねられる早蕨さんでも、転移が出来る時沼さんから逃げられるのか。
私にはその軌道が思い描けない。
だからきっと、早蕨さんも跳べないのだ。
「何が目的なの」
早蕨さんが私を強く抱き締める。その腕はやっぱり震えており、彼の良心が叫んでいる気がした。
そうだ、彼はこんな張り詰めた空気とか、戦いになりそうな場面とか嫌いな人だ。
でも、今その緊張をされると私の腕にいるひぃちゃんが出て飛べないから、状況を悪化させてしまうだけだ。
好転させられるかもしれない可能性を彼の緊張と焦りが潰している。
ひぃちゃん、りず君、らず君、ごめん、辛抱してね。
「関係なくないよ、俺は、氷雨さんと細流さんを救うって決めたんだ」
揺るがない人。
話の流れは上手く掴めないが、自然とそう思ってしまった。
目を夕焼けに焼かれる。それに透けたような早蕨さんの茶髪が見える。
その側頭部に蹴りが入るだなんて、予想もしていなかった訳ですが。
「ッぅ!」
「光!!」
早蕨さんの呻き声とりず君の悲鳴を聞き、抱き締められたままの私は傾いていく。
驚くほど強く蹴られたらしい早蕨さんは顔を苦悶に歪め、私の頭を守るように力を込めてくれた。
あぁ、足手まとい。
謝れないまま早蕨さんの体が沈む。地面が波打っている。
違う、波打っているのは――影だ。
「早蕨さん! 影が!」
「な、に、これ!」
体を起こす為に離れた早蕨さんを、影の中から出てきた闇雲さんが捕まえている。
それに手を伸ばすのに、らず君の輝きがあって見えているのに届かない。
早蕨さんが沈んでく。
「早蕨さん!」
「ほらな、お前は手を伸ばす」
伸ばした手を踏み
手の甲を強く踏んでいる靴は兄さんのもの。その足は早蕨さんの側頭部も蹴り飛ばした。
私は沈んだ早蕨さんと闇雲さんに心臓が震え、痛む手の甲に奥歯を噛み締めた。
「兄さん」
「氷雨」
らず君が強く輝いてくれて、兄さんの声はしっかり聞こえる。その声から感情は読み取れない。
どうしてさ。どうして、どうして、私の邪魔をするッ
「兄さん、私の邪魔をするのは……確実に死ぬように?」
「そうだな」
「祭壇を壊さず、生贄も救わずにここにいたのは、呪いの解き方がないのを確認するため?」
「あぁ、そうだ」
あぁ、なんて人。
悔しくて、悔しくて、悔しくて、両目の縁に熱い雫が溜まるのが分かった。
だがそれを流すことは決してしない。流してなどなるものか。
「――嫌いだよ、兄さん、貴方が私を嫌いなように。私は貴方が大嫌いだ」
伝える。震えてしまった唇で。
兄さんの口は動いたけれど、私が聞き取れる声で発してはくれなかった。
夕焼けが目に染みる。カラドリオスの盆地まで、なんとか今日中に辿り着けたのに無駄にした。
周囲をカラドリオスさん達が取り囲んでいる。食い入るように見つめられている気がして、頬を嫌な汗が流れたんだ。
「光栄だな」
兄さんは私に聞こえる声でそう吐き出し、手の甲を踏み続けた。
りず君とらず君が腕の中で震え、ひぃちゃんが肩で威嚇してくれる。
あぁ、兄さん。
私は夕焼け色が濃くなるのを目に焼きつけるしか出来なくて、無力な自分が嫌になった。
時間は止まらない。止まらないから、空から黒が伸びてくるんだ。
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