第104話 嘘吐


 甲高い金属音が響き渡る。


 屍さんの手甲鉤てっこうかぎとりず君の刃が打ち合っている。


 私は距離を取りながら屍さんと交戦を続け、何とか鍵は死守している状態。それでも彼女の動きは早く、心獣の力を借りていないと言う事実には鳥肌が立った。どんなアスリートだよ。


 しかも屍さんの武器は手甲鉤。両手をフルに使える物であり、対する私はハルバード。


 別の武器を思い浮かべる暇が無いほど展開が早く、足がもつれそうになってしまう。


「ははは!! かっわい〜ねぇ〜、妹ちゃん!」


「ッ、ありがとう、ござい、ますッ!?」


 しかも、先程からずっと「可愛い可愛い」を連呼されては集中もあったものでは無い。


 揺さぶりか、これが油断を招くのか、そういう戦法だな。


 嬉々としてハルバードより内側に入り込もうとする屍さんに息を呑む。


 部屋の中を見渡せば、白玉さんの牙に対して拳を振るう梵さんや、時沼さんに向かって手裏剣を投げる翠ちゃんが見えた。


 祈君は闇雲さんと対峙して何か言葉を交わしている。


 帳君の周りでは風が舞い、兄さんの手からは徐々に光を強くする電気が見えた。部屋の中に雷のような音が響き始めている。


 これはどうする、このまま戦うのか、それでいいのか、相手を倒す。いやでも、あぁ駄目だ決められない。


「よそ見かい!? 横顔も綺麗だね!!」


「ッ!!」


 言われた瞬間、りず君が彼自身の意思で変形して屍さんの手甲鉤を防いでくれる。


 カエトラとなってくれたりず君に「氷雨!!」と叱咤され、私は意識を屍さんだけに向けた。


「ごめん、ありがとう!!」


「俺はお前の盾だかんな!!」


 りず君が言ってくれる。私は奥歯を噛んで笑い、盾の下で動いた屍さんの足を見た。


 蹴り、横、避けッ


 考える間に右の脇腹に蹴りが入れられる。


 痛い、気持ち悪い、鍵をまも、ッ


「氷雨さん!」


 ひぃちゃんの叫び声がして、伸びていた屍さんの手をすんでの所で躱してくれる。


 宙に逃げた私は咳き込んで、痛む脇腹を押さえるのだ。


「わーお、飛ぶんだね! 良いね良いねぇ!! 白玉!! カモン!!」


「あぁ」


「氷雨しっかりしろ!! 来るぞ!」


 屍さんとりず君の声を聞く。白玉さんは一蹴りで梵さんから離れ、パートナーに接近した。


 白い背中に屍さんは飛び乗って、スピードを落とさないまま白玉さんは壁を蹴る。


 建物を抉る脚力で跳躍した彼は私に向かい、ひぃちゃんが羽ばたいてくれた。


「叫べ!」


「いいのか?」


「いいよ!!」


 屍さんの指示が聞こえる。


 瞬間、部屋全体を揺らす程の咆哮が白玉さんから放たれ、私達の体が硬直した。


 全身の筋肉が固まり、らず君の目からは涙が溢れる。ひぃちゃんの翼も強張り、私達は真っ逆さまに落ちるのだ。


 部屋を見る。誰もが体を強ばらせて停止中。


 これは、落ちッ


「どっせいあぁぁぁ!!」


 りず君が叫び、硬直していた体を無理矢理クッションに変えてくれる。それに私達は沈み込み、耳の奥では恐ろしいほど早く脈打つ心音を聞いていた。


 やば、これ、りず君。


 指先が何とか動く。それを感じつつ、白玉さんに乗って近づいてくる屍さんを見た。


「すっごいね〜その子! そして氷雨ちゃん怪我ないかな? 落ちるの受け止めてあげようと思ったけど必要なかったねー!」


 返事をしたいのに口すら上手く動かない。


 どういう原理。白玉さんの咆哮、強い。身動きとか無理、震え。駄目だやれ。出来ないことなど、あるものかッ


 自分を叱咤して、伸ばされた屍さんの手を右手で弾く。


 それには彼女も驚いた顔をして、私の筋肉は悲鳴を上げていた。


 固まっていたものが解されていない、痛い、痛い、痛い、けどッ!


「らず、君!!」


 硝子の彼に光ってもらう。どうか私に動く力を下さいと。


 らず君ごめん、りず君ありがとう。


 針鼠に戻って震えるりず君を抱き上げる。立ち上がった足は鉛のように重たく、直ぐにもつれて転倒した。


 痛い、顔面からいった。でも立て、鍵を渡すな。


 唯一動ける屍さんから必死に距離を取ろうと試みる。彼女は至極楽しそうに笑っていた。


「可愛いな〜氷雨ちゃん! 必死に逃げるのもそそるわ〜! そんな君から鍵を貰って壊すなんて、超萌え展開だねー!!」


 どこがだ。


 言いたいが、口よりも這いつくばって動く方に力を送る。


 冷や汗をかいた無様なほふく前進だが、格好などどうでもいい。


 瞬間、顔の横を手甲鉤が通り過ぎる。


 床に突き刺さった刃は微かに私の左頬を切り、生暖かい血が流れる感覚があった。


 痛みが顔から体に突き抜ける。一瞬肩を強ばらせて呻くと、無理に反転させられて仰向けになった体を屍さんが跨いで立った。


 手甲鉤の爪が床から抜かれる音がする。その爪は私の首をなぞって少しだけ傷をつけ、鍵をぶら下げているチェーンにかかった。


 ゆっくりと鍵が襟から抜かれていく。それを止めたいのに、体は言うことを聞かなかった。


「可愛い顔に傷がついちゃったね〜。それでもやっぱり可愛いよ、氷雨ちゃん」


 私は何も言えない。


「この手甲鉤、素敵でしょ? ドヴェルグっていう住人がいるシュスで作って貰ったんだー」


 いつか聞いた名前が右から左へ抜けていく。


「切れ味もいいし、でもタガトフルムで持ってたら危ないものだよね〜。あ、そうそう、今の体が動かないのは白玉の力なんだ〜、凄いでしょ? 相手が動かなくなるから私は好きなんだけど、敵味方関係なく作用するのが傷だよね〜」


 うなじにチェーンがくい込んで引きつった音がする。


 高い音がすれば繋いでいた銀色は切れ、血の気が引いたのだ。


「鍵、まずは一個」


 言われる。


 止めて、返して、それをどうか――壊さないで。


「や、めッ」


 思い切り口を動かした時、豪風が巻き起こる。それは部屋全体に吹き荒れて机や椅子を攫い、屍さんの手から鍵が零れ落ちた。


 それを見て、私の手はやっと動くから。


 天井で割れた窓硝子の音や、勢いよく開け放たれた扉を確認した。


 揺れる茶髪が目に入る。


 帳君は思い切り空気を掻き乱し、りず君達を抱いた私は落ちた鍵を握り締めた。


「逃げるよ! こいつらとじゃ分が悪すぎる!!」


 帳君の声に弾かれるように走り出す。翠ちゃんや梵さんも駆け出して、祈君も同化を解いてルタさんと走っていた。


「白玉もういっちょ!!」


「させないわ」


 屍さんの合図で咆哮を放ちそうだった白玉さん。そんな心獣とパートナーに向かって翠ちゃんは勢いよく手裏剣を投げ、避けたルアス軍に銀の網が開かれた。


「うっそぉ!」


 屍さんが叫んだ瞬間、彼女を銀の拘束具が捕らえる。「出雲!!」と白玉さんは驚いて、捕まったパートナーを助けるか逃げる私達を追うかで足踏みをしていた。


「いいよ白玉!!」


「黙ってなさい、大きなワンコ」


 白玉さんが一瞬足踏みした瞬間を翠ちゃんは見逃さず、白い狼の足を網で捕らえてみせる。その網は白玉さんの鼻先も覆い咆哮を封じた。


「翠ちゃん、ありがとう!」


「いいえ、無事ね? 氷雨」


「うん。りず君、助かったよ、ありがとう!」


「どうってことねぇわ!」


 りず君が笑ってくれる。ひぃちゃんが翼を広げ、私は翠ちゃんと手を繋いだ。


 風から離れて同化した祈君は梵さんに足首を掴ませて、帳君は最後尾を低空飛行していた。


 ペリさん達の街を翔け抜ける。そこまで大きくない街は直ぐに端が見え、私達は輝く雲の原に出てしまった。


 大丈夫、雲の終わりは見えている、そこまで行って飛び降りろ。


 時沼さんは大勢を一度に転移はさせられないし、屍さんと白玉さんも直ぐには復帰出来ない。兄さんの電気を避けて、闇雲さんを躱して……。


 ――闇雲さんの能力ってなんだっけ。


 分からないまま逃げていることに心臓が冷えていく。と言うより、今ここで逃げれば私達は生贄探しだけではなく、兄さん達と会わないようにすると言う負荷が追加される。


 駄目だ考えるな。ここで交戦したって良い未来なんて無い。だから逃げていい、背を向けてッ


 考えていた時、隣を並走していた祈君と梵さんが突然止まる。胆が冷えた。


 ひぃちゃんに急停止してもらって振り返ると、梵さんの片足が――影の中から出ている手に掴まれているから。


 白い袖。何、あぁ見ろよ、後ろにはあの人がいないだろ。


「ッ兄貴!!」


 祈君がフードを被ったまま叫ぶ。


 鳥である祈君の足首を掴んでいた梵さんは、暫し自分の掴まれた足首を見つめていた。


 祈君は思い切り翼をはためかせ、それでも闇雲さんが梵さんの足首を離すことは無い。


 徐々に引きずり上げられるように影から上半身が出てきた闇雲さんは、両手で梵さんの足首を掴んでいた。


 だからだろうか。


 梵さんは祈君の足首を離して、その影に飲み込まれていった。


 梵さんが沈んだ、彼自身の影が消える。


 祈君は「ぁ……」と零して、地面に尻餅を着いてしまっていた。


「ッあの馬鹿!」


「闇雲!! 駄目よ飛んで!!」


「祈君、梵さん!!」


 翠ちゃんと手を離し、止まっていた体を元来た方へ向ける。


 翠ちゃんも走り出して、帳君は腕を振っていた。


 祈君の体が風に引っ張られる。


 その勢いのまま私の腕に投げ込まれた祈君の肩は震えていた。


 それを抱き締めて「祈君ッ」と切羽詰まった声で呼んでしまう。


 梵さん、貴方は無事ですか。影に、嘘だ、なんで、返して、返せッ


 思った時、私の体が影に沈む。


 それに一気に体温は奪われ、私を突き飛ばす翼に泣きたくなったのだ。


「祈くッ」


「氷雨さん!!」


 気迫ある声が私の肌を震わせる。


 影から出てきたお兄さんに抱き締められた祈君は、顔を歪めながら沈んでいった。


「止めて!!」


 伸ばした手が空を掴む。


 祈君が、影に引きずり込まれた。


 その影は消えた。あるのは綺麗な白い雲だけ。


 嘘、嘘だ、返して、嫌だッ!!


 らず君が震えてしまう。


 駄目だ負けるな。折れてはいけない。そんな弱さを二度と見せるな、氷雨。


「氷雨!」


 翠ちゃんの声がする。私の横に勢いよくしゃがんでくれた彼女も顔色が悪く、私は唇を噛み締めた。


「翠ちゃん……」


「ッ、分かってる」


 私の肩を翠ちゃんは叩いてくれる。


「今は逃げるわよ! ここで全員捕まったら、それこそお先真っ暗だわ」


「……はい!!」


 立ち上がる。向こうに兄さん達が見える。


 どうやって梵さんと祈君を救うか。その作戦を立てる為にも今は逃げろ、自分。


 私は兄さん達との間に立ってくれた帳君の背中を見て、反射的にその手首を掴んでいた。


 振り返った彼と目が合う。


 帳君は無表情だった。


「逃げて」


 そんな、言葉――


「帳君!」


「大丈夫、俺も逃げる。鍵を壊されちゃ堪んないからね。全員別々の方向に逃げよう。それでまた、会うんだよ」


 穏やかに微笑んでくれた彼は、私の黒い髪を撫でてくれる。


 その目に何も言えなくて、私は帳君の手首を離してしまうのだ。


「良い子」


 あぁ、そんなこと、言わないで。


 思った時、雷が落ちた音がする。


 低く空気を震わせる酷い恐怖の音。


 一気に視界が白に染められて、私達は悲鳴を上げていた。


「ッく、そッ!!」


「帳君!! 翠ちゃん!!」


「氷雨ッ……ぁ、ッ、エゴ!」


 目が見えない。


 白んで光が、影が、認識出来ない。


 手探りで伸ばした手を握ってくれたのは――帳君の手ではない。


 近くにいた筈の翠ちゃんの気配が無くなっていく。


「ッ!!」


「翠ちゃん!」


 返事が貰えない。


 徐々に景色を判断し始めた目の前にあるのは、白い服の影。


 そのスニーカーは最近ずっと一緒にいてくれた彼のもの。


「時、沼……さん」


「凩、ここにいる。大丈夫だ、直ぐに見えるようになるから」


 どこまでも優しい時沼さんの声がする。


 それが私に痛みを与えて、両目から熱いものが溢れてしまった。


 背中で震えるひぃちゃんが、肩で呻くりず君とらず君が私の心を表している。


 私の手を握る時沼さんの手には力が込められていた。


「……鍵が目的だったんですね」


 聞いてしまう。確認なんてしたくないのに。


「そうだよ」


 間を開けずに時沼さんは答えてくれる。


「歴代の戦績、知ってるだろ? ディアス軍はルアス軍にほとんど勝ててない。今回だってそうだ。俺達は勝つ……だからさ、もう、しんどいの止めようぜ、凩。大丈夫、時雨さんが言ったみたいに、残りの祭壇数が一桁になってきたらちゃんと連絡を、」


「私達の未来を、貴方達が決めないでッ」


 時沼さんの手を振り払う。


 色が戻ってきた視界だが、まだ時沼さんの顔は判断出来ない。


 貴方は今一体、どんな表情でそこにいるの。


 怖くて聞けない、そんなこと。


 あぁ、なんて私は弱いんだ。


「……凩、俺さ……友達らしい友達って、お前が初めてだったんだ」


 頭を撫でられる。滲む視界の先で、何となく時沼さんが笑っているのが確認出来た。


「絆創膏、本当にありがとう。嬉しかった。だから俺はさ、これ以上友達に苦しんで欲しくねぇわけだ」


 鍵を握り締めている手を時沼さんが開こうと触れてくる。


 それを拒んで、私はハルバードとなってくれたりず君を振るうのだ。


「ッ、苦しいのなんて、戦士になって、生贄を捕まえた時から決めていました。覚悟していたんです!! 揺れることが多かったけど、崩れたことだってあったけど、だからって、終わりを誰かに左右されるような人生なんてあんまりだ!! もしも負けるなら私は、汗だくになって泥まみれになって、血を流して、もう走れないってなるくらいまで頑張って死にたい! 貴方が、貴方達が、今までの私達を否定するなんて許さない!!」


 震える足で立ち上がる。


 時沼さんも立ち上がったのがシルエットで確認出来て、彼はやっぱり笑っているようだ。


「やっぱ、凩は強ぇな」


 憂いを纏った声がする。それは私に傷を与えて、息苦しさが増していた。


 ―― 友達らしい友達って、お前が初めてだったんだ


「……私にとっても時沼さんは、大切な友人なんです」


 口にする。表に出せば揺らいでしまうと思っていた言葉を。しかしながら、既に足元が覚束無いこの状況では微々たる動揺しか与えては来なかった。


「……そっか、ありがとう」


「……はい」


「……ごめんな、凩、お前に嘘吐いた」


 時沼さんを見る。


 色が戻った視界の中にいる彼は、肩を竦めながら笑っていた。


「生贄を祀ってた祭壇を壊したの――俺なんだ」


 私の中で、大きく崩れる音が響く。


 時沼さんとの間に私が勝手に築いていた、信頼というものが崩れた音だ。


 それを直視したくなくて、視界に入った赤に気がつく。


 なんで、その赤は何。黒い人の形。茶色い髪。


 ――帳君。


 私は帳君の所に何とか近づいて、倒れている彼に触れるのだ。


「帳君、帳君!」


 触れた彼は言葉を発しない。


 落ちている血を指先で辿れば、熱くただれた帳君の左手に辿り着いた。


 耳の奥で雷の轟が再生される。


 嘘だ、そんな、なんで、こんなッ


「後もがくのは……氷雨、お前だけだぞ」


 背中側から聞こえた兄さんの声。


 私は肩を震わせて、八割戻ったと言っても過言ではない視界で振り返った。


 冷ややかな瞳。ポケットに両手を入れた兄さんは首を微かに傾けている。


「足掻くな、見苦しい」


 あぁ、どうして、なんで、貴方の言葉はそんなにも鋭いんだろう。


「……足掻くよ。私は……私達は……今まで必死に足掻いて、ここまで来たんだから」


「どうせ負けんだよ、ディアス軍は。お前、今までの決着までの過程とか知らねぇんだろ?」


 口を噤む。


 歴戦が終幕した過程。そんなの知らない。知っていたってどうしようもない。知るよしなんて無かったんだよ。


「短くて三ヶ月、長くて半年。三ヶ月で終わることはまぁそうねぇらしいが、四ヶ月で一気に増える」


「……どういうこと」


「四ヶ月で祭壇が増えなくなるんだよ」


 兄さんの言葉の意味が分からなくなる。彼は私を見下ろして、長い睫毛を伏せていた。


 白玉さんに乗った屍さんが合流してくる。時沼さんも近づいてきて、ずっと地面にあった黒い影から闇雲さんが這い上がってきた。


「どういう原理かは知らねぇがな」


「いいよ、そんなの知らなくていい。知ろうと思ったら自分で見つけるから。それよりも闇雲さん、三人を返してください、お願いします」


 兄さんから闇雲さんに顔を向ける。


 彼は微笑みながら首を横に振って、片手の中には三本の鍵がぶら下がっていた。


 喉が締め付けられる。


 私は闇雲さんを見つめて「ごめんね」なんて言う彼に苛立つのだ。


「返せないかな。あ、でもこの鍵を壊したら返すよ。ね、時雨さん」


「長く捕まえてても意味ねぇからな。他人が作った祭壇に生贄を祀ろうが、ダミーに祀ろうが、壊せばそれだけ追い詰めていける」


 闇雲さんは兄さんに向かって鍵を差し出す。兄さんの掌では静電気が可視化されており、私は奥歯を噛み締めるのだ。


「ひぃちゃん」


 お姉さんを呼ぶ。


 いつも冷静で、私の道を切り開いてくれた刃の一つ。


 背中から飛び上がった緋色は、牙を向いて兄さんの腕に噛み付いていた。


「ッ!!」


「時雨さん!」


 兄さんの手首にひぃちゃんの牙が突き刺さる。


 服は徐々に溶け、血が流れ、それに驚いた闇雲さんの手首をひぃちゃんの長い尾が叩き落としていた。


 ひぃちゃんの尻尾に三本の鍵が引っかかり、お姉さんは空へと舞い上がる。


「時沼」


「っす」


 手首を押さえながらも、兄さんは冷静に時沼さんを呼ぶ。


 空中に転移した時沼さんはひぃちゃんに手を伸ばすのだ。


「りず!!」


「恨むなよ、ひぃ!!」


 ひぃちゃんの指示が飛び、私の肩から瞬時に伸びたりず君がお姉さんを弾き飛ばす。


 その突然の動作に時沼さんは目を見開き、ひぃちゃんは弾かれた勢いのままペリの天園から姿を消した。


「ッ追います」


 少し離れた所に転移した時沼さんが言っている。


 行かせないッ


 私はりず君に鞭になってもらい、時沼さんの目に巻きついてもらった。


「凩ッ!!」


 時沼さんは行ったことがある場所か、目で見えている範囲にしか転移出来ない。


 どうかひぃちゃんを見つけないで。お願いだから追わないで!!


 願う私の肩を思い切り掴んだ兄さん。


 彼の目には、決意を揺らがされたような色が浮かんでいるのだ。


「邪魔するな、氷雨」


「嫌だ」


 私の肩に兄さんの指が食い込む。自分の鍵を握り締めて、起きない帳君にもたれてしまいそうになった。


「鍵を寄越せ、お前と後ろの空気使いのだ」


「渡さない、絶対」


 奥歯を噛み締めた音がする。兄さんは眉間に皺を寄せて、肩には微かな電気が走って痛みを覚えさせてきた。


 それに耐えて、ひぃちゃんが見えなくなったであろうと判断した時に時沼さんの目を解放する。


 針鼠に戻ってくれたりず君は、震えるらず君にすり寄ってくれていた。


 両手で自分の鍵を握る。


 その手をこじ開けようと、兄さんの指が手にくい込んだ。


「言うこと聞け、氷雨」


「嫌だ」


「お前が生きてても、笑ってても、努力してても、誰の為にもならねぇんだ。もう足掻くな」


 言われた瞬間、体が傾いてしまいそうになる。


 私は顔を下に向けて――笑ってしまった。


「りず君」


 私の思いをりず君は受信してくれる。


 彼は躊躇しながらも帳君に巻きついて、重りのようになった先を勢いよく伸ばし、天園から落としていた。


「氷雨、また会おうぜ」


「うん、またね」


「ッ屍!」


「おっとマジか妹ちゃん!!」


 白玉さんが、重さによって一気にいなくなるりず君に噛み付こうとする。だから私は兄さんを突き飛ばして狼を殴り止める。


 補助してくれるらず君は、必死に光ってくれていた。


 りず君を突き刺そうとしていた手甲鉤の下に潜り込み、屍さんの体に正面から抱きついてみせる。


 そうすれば彼女は見るからに動揺して、私は足を踏ん張るのだ。


「りず君!!」


「あぁぁぁ一世一代バンジージャンプじゃおらぁぁぁ!!」


「くっそ!!」


 叫ぶりず君を掴んだ時沼さんと闇雲さんだが、落下の勢いを止められずに弾かれる。


 私はそれを確認しながら、反対側に走り出した。


「氷雨!」


 兄さんに呼ばれる。


 それを無視して、私は天園がそこまで広くなかったことに感謝した。


「さぁ、飛ぼう、らず君」


 一世一代、バンジージャンプ。


 命綱は無い。


 無事でいられるなんて期待しない。


 それでも、私の最後は私が決める。


「凩!!」


 私の真後ろに転移した時沼さんから逃げるように、私は雲を蹴った。


 宙に投げ出された体を反転させれば、顔を真っ青にした時沼さんがそこにいる。


「もう、会わない方がいいですね」


 伝えれば、時沼さんが転移する。


 私を抱き締めるように手を広げた彼は、やっぱりどうして分からない。


 殺すか生かすか、どっちかにしよう。


 思った時、時沼さんが私を掴む前に――私の体に緑の物が巻きついた。


 植物。


 なんで。


 思う前に、急速な勢いで私は植物に連れ去られる。行先も分からないまま、理解も追いつかないまま。


 ぐんぐん遠くなる天園が見えなくなった時、私は森の地面に穏やかに下ろされた。


「――ご無事ですか?」


 声がする。


 見上げれば、いつの日か火刑から逃げた――彼がいた。


「……貴方、は……」


「俺は、泣語ながたり音央ねおと申します」


 はにかむよう笑った彼――泣語音央さんは、地面に座っている私の前に膝をついていた。

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