ツツジの丘で

宮前葵

ツツジの丘で

 その少女は空を見ていた。春の、霞んだ低い空だった。


 公園の、ツツジがびっしり植わっている丘。その頂上に展望台が建っている。少女はそこの手すりに座って、足を空中に投げ出していた。


 危ないなぁ。俺は最初にそう思った。


 そして次に、少女はなんで空を見ているのだろう、と思った。


 彼女の足元には丘一面をツツジが埋め尽くしている。ツツジは今が盛りだ。桃色と白色を主体とした花の絨毯が丘を埋め尽くす様は圧巻で、さして花なんかに興味が無い俺がこの時期だけはなんとなく見に来てしまうほどだった。低い薄雲に覆われた空よりもやはり花の方が見るに値するのではないだろうか。


 高さ5mくらいの展望台。そこの手すりに外向きに座り、足をぶらぶらと揺らしている。その色は素足の色で、つまり彼女は靴を履いていなかった。


 セーラー服の、紺色のスカートだった。長さは膝上くらい。足を振るたびに少しなびいて膝の裏が見えた。それ以上は、見えない。つまり俺はなんとなく、いや、スケベ心が無かったとは言わないが、なんとなく、長い時間その脚の動きを眺めてしまっていた。


 突然少女が視線を向けてきた。


 目が合う。


 無言で非難していた。俺の事を。いや、俺のやや助平な視線ではなく、純粋に今の自分を見られたことを怒っていた。


 なかなか可愛かった。いや、表情が怖い事を鑑みれば、普通の顔をしている時の彼女はかなりの美人ではないだろうか。長い艶やかな黒髪が春風にかるく煽られて空に溶けていた。大きな瞳が俺の事を見つめていた。いや、睨み付けていた。


 形の良い唇が動く。声は聞こえなかった。出さなかったのかも知れない。


 み・る・な


 と、言うように口は開閉した。声は聞こえなかった。


 頬が少し赤いように見えた。遠すぎて良くは見えない。でも、なんとなく照れているのは分かった。テレながら怒っていた。俺はにへらっと笑った。


 馬鹿みたいに見えただろう。実際俺は馬鹿だったからそう見えても当たり前だ。しかも学校をサボって平日の真昼間。どこにも行くあてが無く、ぼんやりと公園をぶらぶらしている寂しい人。それが今の俺だった。


 少女はしばらく俺を見ていた。しかし、へらへら笑っている俺に呆れたのか、やがて視線を外した。そしてやはり空を見ていた。つまんない空を。


 声を掛けようか。そう思った。どうせやることも無い。あの少女も、こんな時間にこんなところにいるんだから学校を何らかの理由で休んだのだろう。つまり暇だろう。声を掛ければ遊んでくれるかもしれない。


 しかし俺は展望台の上に上がることはしなかった。階段の一番下に腰を掛けた。携帯電話を出していじった。メールが何通か来ていた。友人連中から。なんで学校を休んだのか、サボりか。先生が怒ってたぞ。内申が下がるぞ。


 俺は携帯電話を折りたたんでポケットに突っ込んだ。膝に肘をついて頬杖を突く。なんで休んだのかって?なんとなく休みたくなったからだよ。これが初めてではなかった。逃げたのは。たまに日常から後先考えずに逃げたくなる。理由は良く分からなかった。多分、馬鹿だからだ。


 階段を誰かが下りてくる音がした。振り向いたら、少女が階段を一段ずつ、ゆっくりゆっくりと下りてくるところだった。


 最初は気がついていないようだった。美しい相貌に氷のような無表情を貼り付けて、視線は空間に消えていた。ここではないどこかに気持ちを飛ばしてしまっている。そういう雰囲気を身に纏っていた。


 足が俺の背中にぶつかりそうになって、ようやく気がついたようだった。立ち止まってくれた。


「よう」


 俺は呑気に声を掛けた。不思議と緊張しなかった。ナンパなんてやったことは無かったし、本来女子と話す事には苦手意識があった筈なのに。


 少女は驚き、唖然とし、それからさっきと同じような顔で、何かを恥じているような表情で俺を睨んだ。


「暇なら遊ばないか。おごるよ、ちょっとなら」


 軽く言った。言いながら、緊張しなかった訳が分かった。


 断られても別に良い、と思っているからだった。少女が断って、少女が歩き去って、それでお終い。二度と会わない。あとくされが無い。だから大胆になれる。なるほど。旅先の心理という奴だ。地元だが。


 そう考えて気がついた。


 彼女の制服だ。セーラー服だが、地元の制服ではなかった。襟のラインが赤い。それと襟そのものダークグリーンだった。良く見れば胸のところにエンブレムが入っている。見たことが無い制服。つまり、彼女は地元の人間ではない。彼女が、旅先なのだ。


 少女は立ちすくんでいた。階段は狭く、俺が腰を掛け、半身を振り返らせているとほとんどそれで一杯だった。道を塞いでいるのだと誤解されてもおかしくない。ああ、俺は立ち上がろうとして、その動作だけで少女が警戒したのを察して、動きを止めた。俺はそーっと、両手を挙げた。


「別に、何もしない」


 警官に拳銃を向けられた不審者の様に、俺は両手をホールドアップしたままそーっと、ゆっくりと立ち上がり、彼女に向き直り、そのまま三歩下がった。ゆっくりと。


「ほら」


 へらへらと笑った。なんで俺はさわやかに微笑を作れないのだろうか。


 少女は警戒心溢れる表情で俺の事を見ていた。そしてゆっくりと階段を下り、下り切り、じーっと俺の事を見、そして身を翻して走り出した。ツツジの小道に飛び込んで行き、見えなくなった。最後に見えたのは漆黒の長い髪だった。


…まぁ、当然だな。俺はナンパ好きな友人が話していた成功率を思い出していた。見知らぬ少女に話し掛けて、いきなり関係が成立してしまうなんてことはそうそう起こるものではない。ましてや俺はその友人ほどイケメンでも無い。俺は軽く鼻を鳴らすと、もう一度階段に腰を下ろした。ここからでは目の前に咲いているピンク色のつつじの花しか見えない。油断すると咳き込んでしまうほど強い香りが漂っていた。


 そうして10分ほどボーっとしていたか。


 足音がして、突然目の前にさっきの少女が現れた。


 息を切らせている。額にうっすらと汗をかいている。そしてばつの悪そうな表情を浮かべていた。引きつったような笑み。俺もなんとなくわざとらしいような笑顔をつくってみせた。


「…おごって」


 それが俺、大内高志と真田絵美理との出会いだった。




 町一番のショッピングセンター。まぁ、こんな田舎町だから規模はたかが知れているが。俺と絵美理が向かったのはそこの外れにある軽食堂だった。その隣に以前あったファーストフード店の方が高校生らしかっただろうが、潰れてしまっていたのでいたしかたが無い。


 俺はラーメンを注文し、絵美理はクレープを注文した。


「そんなので足りるのか?」


 朝から何も食べていないと言っていたのだが。


「うん」


 絵美理は店員から出来たクレープを受け取るなり、いきなり齧り付いた。途端に口の端からジャムがこぼれた。おいおい。俺は慌てて、とっさに右手で受け止めた。


「座って喰え。みっともない」


 絵美理はなんだかやけに嬉しそうに微笑みながら(クレープから口を離さないまま)コクコクと頷いた。


 俺たちはテーブルに移動した。平日の、しかも昼時にはやや早い時間。客は他に誰もいない。必然的に店員たちは俺たちに注目しているようだった。無理も無い。制服、しかも一人は明らかにこの辺の学校の物ではない制服を身に纏った二人。


 俺はまぁ、いいかと箸で摘み上げた麺に息を吹きかけた。絵美理は一心不乱にクレープを咀嚼している。ウサギとかハムスターとか、そういった小動物を思い出すような姿だった。


 変な奴だ。美人だけど。


 そもそも、逃げておいてから戻って来て、挙句に「おごって」は無いだろう。流石に面食らった。続けて「お金が無いの。朝から何も食べていないの」である。どこの時代の行き倒れなんだ。俺は驚きを取り越して呆れて「じゃぁ、ついて来い」と言ったのだった。


 人の顔みるなり逃げ出したくせに、ひょいひょいついて来るのはどういう神経なんだろう。しかも満面の笑顔で。ふわふわふらふらと俺の後ろを歩いてきた。そのおぼつかない足取り。のろさ。いらいらする。しかし俺は時折立ち止まって待ってやった。


 俺は軽食堂の、まずくて値段のわりに量が少ないラーメンをほとんど一口で食べてしまった。腹は減っていなかったが、高校生の食欲である。スープを半分飲んで、心の中でご馳走様を唱えても、絵美理はまだクレープを齧っていた。


 遅い。のろい。女ってみんなこんなにとろいのか?いやいや、クラスの女子はみんな昼には、べちゃくちゃしゃべくりながらもあっという間に弁当を空にしているぞ。


 ほぐほぐ、口の中にクレープを入れ、もごもご、噛んで、んぐんぐと飲み込む。今どの段階なのかが見ているだけで分かる。遅い筈だ。


「高志、もう食べちゃったの?早い!」


「お前が遅いんだ」


 俺は言いながら手で早く食べろと促す。しかし絵美理は分かっているのかいないのか、相変わらずマイペースに口を動かし続けている。


 それにしてもいきなり呼び捨てかよ。俺はなんとなく気に入らなかった。良く知りもしないやつの事を呼び捨てに出来る女なのだろうか。そういうのは、なんというか、軽い感じがする。


 そう考えた後、馬鹿らしくなった。軽くて結構だろう。


 学校をサボった一日。暇つぶしにナンパした女の子である。行きずりの関係。適当に遊べればいいのだ。仲良くなるのに何日も掛かる、お互いを理解し合えないと心が許しあえないような関係はこの際求めまい。


 だから俺も呼び捨てた。


「絵美理はどっから来たんだ?」


「呼び捨てかよう」


 絵美理が不満そうに唸った。俺はずっこけた。


「お前が最初に呼び捨てにしたんだろうが!」


「じゃぁ、いいか」


 絵美理はあっさりと言った。俺はまったくと呟いた。話が逸らされた事には気がつかなかった。


「あたしねぇ、死にに来たの」


 絵美理が言った。小さな声だった。注目している店員の耳をはばかったのだろう。なので俺がその言葉を空耳ではないと確認するのに時間が掛かってしまった。たっぷり一分は掛かった。


「…へぇ」


「何?その感想」


 絵美理が上目遣いで睨む。冗談を言っている風では、無い。


「…いいんじゃねぇの」


 言うと、絵美理は目を丸くした。驚いている。予想もしない返答に。口の中に入っていたクレープを飲み下すと、俺の事をまじまじと見つめた。美人だなぁ。俺はそう思って絵美理を見返した。


「変なの」


「変なのはどっちだ」


「だって、死のうとしている人に『いいんじゃねぇの』だって。変よ」


「死にたい奴は死ねばいい。別に他人がどうこう言う問題じゃない」


 俺の言葉は物凄く投げやりだった。死ぬ奴は、多分だまって死ぬ。死ぬ、俺は、私は死ぬ、そう言い続けている奴は多分死なない。たから絵美理も、死なないだろう。死ねないだろう。


「ふ~ん」


 絵美理はようやく最後のクレープの欠片を口に入れた。それを信じられないくらいの時間を掛けて飲み込む。その間、二人の間には沈黙が流れた。


 ようやく、絵美理が口を開いた。


「ねぇ、どこかいい場所知らない?」


「何?」


「死ぬのに、いい場所よ」


 ああ、俺は彼女があの公園の展望台で何をやっていたのかを理解した。


「あそこで死ぬつもりだった?」


「花がたくさん咲いていて、良いかなぁと思ったんだけどね」


「あんな低いところから落ちても死ねないよ。痛いだけだ」


「まぁ、そうよね」


 ふん、俺は絵美理が小首を傾げるのを見ながら考えていた。死ぬのに良い場所か。そんな事、考えても仕方が無いのにな。死ねば消えてしまうのだから。


「分かった。心当たりを案内してやるよ」


「本当?」


 絵美理は本当に驚いていた。


「ああ、暇だからな。お前、この辺は不案内なんだろ」


「うん。適当にお財布のお金で行けるところまで行こうと思って来たから」


 ああ、その時俺は絵美理がどこから来たのかを聞きそびれていた事に気がついた。しかし、不思議ともう尋ねる気は無くなっていた。




 駅の自転車置き場から原チャリを引っ張り出して来ると、絵美理がきょとんとした顔をしていた。


「もしかして、あんたの?」


「そうだよ」


「高校生なのに、バイク?」


「こんな田舎、これがなきゃどこへも行かれねぇよ」


 校則違反だけど、みんな持ってる。まぁ、原チャリで行ける所なんてたかが知れているが。俺は座席の下から半キャップのヘルメットを二個出した。友人とつるんで出掛ける用にいつも二つ入っているのだ。一つを絵美理に渡す。


「被れよ。行くぞ」


 絵美理は明らかに怯んでいた。


「心配ねぇって。いつもダチ乗せてんだから」


 そういう問題ではない、と瞳が語っていた。そもそも原チャリ自体が怖いのだろう。こわごわ手を伸ばし、シートに触れている。


「飛ばして、風を切るとな、気持ち良いぞ」


「本当?」


「ああ、何もかも忘れられる」


 ふーん、絵美理は呟き、乗る気になったようだった。シートに俺がまたがると、絵美理はその後ろに横座りした。躊躇無く俺の腰に手を回し、ぐっとしがみつく。暖かい。というより、熱い。女の子というのは熱いんだな。


「いくぞ。しっかり捕まって」


 絵美理がより一層力を込める。俺はアクセルを捻った。改造チャンバーが甲高い音を上げる。加速感が俺の頭を後方へと引き寄せた。風が起こって、ヘルメットに入りきらなかった絵美理の黒髪が渦を巻く。


 愛車は駅から横に建っているホテルの前を通り、引込み線の小さな踏切を抜け、細い路地へと入って行く。竹やぶを掠め、古くてぼろい舗装の上を跳ねるように走る。絵美理は俺の背中に頬を押し付けながら、兎に角振り落とされまいとしがみついていた。


 とりあえずの目的地はそれ程遠くではなかった。原チャリでも二分ほどのところにある賃貸のマンション。みずいろの、古臭いマンションだ。一階は店舗になっているのだが、借り手がいないのかこの何年か空き店舗のままだった。


 バイクを止めると絵美理が顔を上げ、怪訝な顔でマンションを見上げた。


「ここ?」


「まぁ、とりあえず近いところからな」


 俺は原チャリを適当に停め、絵美理を促してマンションの入り口へと向かった。受付や管理人がいるような上等なマンションではなかった。しかも平日の昼時で、マンションの周りには人気が無かった。俺と絵美理は暗い、トンネルのような通路を通り、エレベーターへと向かった。


 この町にはエレベーターのある建物が2つしかない。一つはさっき行ったショッピングセンターで、あれは二階建であるにも関わらず荷物運びの利便性のために設置されているものだから、厳密に言うと本格的なエレベーターと言えるようなエレベーターはこの町に一機しかないのだ。ガキの頃は、単にエレベーターに乗ってみたくて、あの浮遊感が味わってみたくて、何度も用も無いのにこのマンションに来たものだった。


 八階。俺たちはエレベーターに乗り込むとボタンを押した。五人乗りの狭いエレベーター。しかもかなり薄汚れている。ゴムの匂いがした。俺たちは無言で、エレベーターが最上階にたどり着くのを待った。


 エレベーターを出ると、そこは通路だ。マンションの各部屋へ続くドアと窓が等間隔に並んでいる。ここはマンションの北面にあたる。太陽の光が遮られているせいでいつも薄暗い。


 その代わり、そこから眺め下ろす町は春の日差しに輝いていた。小さな町。その周囲はようやく田植えが終わったばかりの緑。そしてその向こうには山が霞みながら見えている。


「へぇ!」


 絵美理は感嘆の声を上げた。


「良い眺めね」


「まぁ、そうかな。冬の乾いた空気なら、もっと遠くまではっきり見えるんだが」


 言いながら、俺は別にそんなに喜ぶほどの風景じゃない、と思っていた。


 小さい町。さして高いとはいえないこのマンション。高台にあるとはいえ、たかが八階建てのこのマンションから一望どころかはみ出してしまう町。背景に聳え立つあの山だって、偉そうに見えるがたかだか標高1800mぽっちしかない。


 つまらない。本当につまらない。


「で、この景色が見せたくてここに来たの?」


「いや…」


 俺は首を横に振って、下を、手すりの向こうの下を指差した。


「ここからなら間違いなく死ねる。この町には高い建物がほとんど無いから、飛んで確実に死ねるのはここくらいなんだ」


 絵美理は下を見た。駐車場が見えるはずだ。ここから見えると車がマッチ箱の様に見える。人の顔は、判別出来ない。


 絵美理の表情は、無感動そのものだった。


 恐れとか、興奮とか、逡巡とか、そういう分かり易いものは無かった。ごく普通に、下を見て、ロジカルに飛ぼうかどうしようかと考え込んでいるようにも見えた。


「どうする?」


「う~ん、ここみたいな高いところなら、別に近所に一杯あったのよね」


 冬の名残のような冷たい北風が正面から吹いた。絵美理の長い髪が彼女の背景を形作った。それは、闇だった。黒く、溶けるような。


「なんかつまらないのよ。高いところなら、天国に近いのかしら。なら、もっともっと高いところで死ねば天国に行けるのかしら」


「富士山の頂上なら天国に近いかもな」


「馬鹿ね。飛行機はもっともっと高いところを飛んでいるじゃない」


 ああ、そうかもな。つまり、ここは絵美理のお気に召さなかったらしい。まぁ、いいさ。


「じゃぁどんなところが良いんだ?」


「綺麗なところが良い」


 絵美理は頬を少し染めながら言った。


「この辺ならあるんじゃない?御伽噺に出てきそうなくらい綺麗な場所。私、そういうところで死にたいの」


 なるほどね。そういうのは、女ならではなんだろうか。俺なんかは、場所の綺麗さよりも、その時自分がどうなるか、どういう風に見られるか、感じられるのかを考えてしまうのだが。


「じゃぁ、他の心当たりに行くか。少し遠いぞ」


「うん」


 俺はエレベーターの方に歩き出そうとし、つい絵美理の手を取ってしまった。


 絵美理が頼りなく見えたからだろう。絵美理の手は熱く、なんとなく強く握るのが憚られた。絵美理は特になんという反応を示す事も無く、ただ俺に手を引かれてついてきた。エレベーターの中でも二人は手を繋いだままだった。




 原チャリで5分も走れば町を抜けてしまう。


 本当に小さな町なのだ。町を抜ければひたすら田んぼ。この間出来たばかりのバイパスは特に田んぼを切り開くように、真っ直ぐ伸びている。リミッタを解除してある原チャリは、二人乗りでも多分70kmくらいは出る筈。しかし、俺はゆっくりと原チャリを走らせていた。


「あの時計台みたいのは何?」


 絵美理が尋ねてきた。絵美理の声を聞き取るには、このスピードが限界だった。絵美理の声は小さい。


「ああ、米を農家が納める倉庫かなんかだよ」


「なんで大きな時計がついているの?」


「知らない。農作業の時、周りから見えるようにじゃないか?」


「ふ~ん」


 原チャリ二人乗りにも大分慣れたらしい。周囲を眺める余裕も出来てきたらしかった。そうすると絵美理は時折、見えるものについて尋ねてくるようになった。


「あの家、いいね。森に囲まれてる。田んぼに浮かぶ島みたい」


 島?面白い感想だった。俺にとっては生まれた時から見慣れている風景だったから、そんな風に考えた事など無かった。あれは単なる農家で、森は防風林。


「あ、川があるよ。魚、いるかな?」


 絵美理の声が弾んでいる。


「ああ、魚はいる。釣りすれば釣れる」


「釣った事あるの?」


「ああ。中学の時な」


 そういえば、高校に入ってから、正確には高校受験に取り組み始めてから、それまで頻繁に行っていた釣りに行かなくなったのだった。今なら、原チャリで釣り場まであっという間に行けるのにな。


「へ~!いいなぁ」


 絵美理が羨ましがる。


「釣りがしたいのか?」


「ていうより、そういう風に自然の中で遊ぶ遊びがしたかったなぁ」


「他に出来る遊びが無かったんだよ」


「それでも羨ましいよ」


 絵美理の表情は勿論見えなかったが、声は、どこと無く寂しそうだった。


 寂しい。絵美理の声はいつも寂しげで空虚だ。俺の耳に届かなかった分は、全て空中に消えてしまうような。だから俺はなんとなく一生懸命絵美理の声を聞き取ろうとした。


 交差点を左折して山の方へ向かう。田んぼは減り、林が増えてくる。このあたりは林檎農家が多い。


「林檎?」


「シーズンなら林檎狩りをやらせるとこも多いな。やったこと無いけど」


「なんで?やったこと無いの?」


「林檎なんて幾らでももらえるから」


 シーズン中のお使い物の八割は林檎だ。友人の家に遊びに行くと、帰りには必ず林檎を山ほど持たされる。あんなもん、わざわざ買って喰うものじゃない。


「でも、自分でもいで、それを食べられるんでしょう?楽しそうなのに」


 そうなのかもな。最近この辺りにも増えてきた苺農家がたまにやっている苺狩りのビニールハウス。子供の頃一回だけ連れて行ってもらった。あれは楽しかった気がする。自分で摘み取って、食べる。ああ、そうだな。


「楽しいかもな」


「そうよ」


 僕らは声を合わせて笑った。


 原チャリは谷間を抜け、峠道へ差し掛かった。つづら折の坂道を登る。左右はコンクリートの傾斜壁になっていて、結構圧迫感がある。一人でこの連続ヘアピンコーナーに来れば、やたらとスピードを上げて突っ込むところなのだが、絵美理がいたのではそんなわけにも行かない。止まる寸前のスピードでよいしょ、と曲がった。


 坂道を上がり切ると、湖が見えた。緑色の水面が木々の陰にチラチラ見える。結構大きなダム湖。岩を山と積んで造った様なダムが足元にあり、谷底へ向かって裾野を広げている。


 とりあえず、一休みした。湖の傍には湧き水が湧き出しているのだ。絵美理は、きっとこういうのを喜ぶだろう。


 喜んだ。


「おいしい!」


 そうなのか?ちなみに、このダムの水は家の水道水の元になっている。この水が美味いなら家の水道水も美味い道理だ。


「おいしい水ね、素敵…」


 コップなど無かったから手ですくって飲む。絵美理は何度もすくって口へと運んでいた。しかし良く見ると、ほんの少し口をつけているだけだった。一度に飲めないらしい。小さな唇を水につけちょっと吸う。小鳥のようだ。味わうように、感じるように瞼を閉じている。長い睫が頬にまで影を伸ばしている。


「いい所ね」


「ああ、まぁな。人が多過ぎて、死ぬには向かないけどな」


 実際、俺たちがこうしている時にも、水を汲みに来た軽トラのおっさんがじろじろとこっちを見ている。学校サボってなにやってんだ、と目で言っている。


 新緑の季節。ここにも山ツツジがちらほら咲いている。風は生暖かく、ぬるく、柔らかく、優しい。ぼんやりと、座っていた。絵美理が俺の事を見ていた。俺も、絵美理の事を見ている。長い長い、黒髪。白い頬。大きくて切れ長な黒い瞳。整いすぎて人形の様。いや、そうじゃないな。何かが欠けている。だから人形のように見える。


 俺は絵美理を促した。絵美理が頷いて、原チャリにまたがった俺の背中にしがみついた。熱い。人形ではあり得ない熱さだった。




 峠道が続いた。ガソリンは、昨日の帰りに満タンにしたから余裕はある。後は二人乗りでこんな山道を登ってオーバーヒートしないかどうか。


 木漏れ日の中を、暖かい空気を巻き上げながら原チャリは走った。絵美理はただひたすらに木々や鳥や光に見惚れている。気配で分かる。俺も話し掛けなかった。


 道は細くなったり、いきなり広くなったりした。俺もあんまりこの辺りには来ない。山なんて、高校生が来ても面白いところじゃない。中学生のときは遠足でこの山の自然の家とやらに泊まった。虫の声がひたすらうるさかった。


 やがて道は下りになった。途端にスピードが上がる。


「大志、速い。怖い」


 絵美理が俺の腹に回す腕に力を込めた。


「転んだら死ねるかもな」


「そんな死に方、嫌」


 長い下り坂の終わりに、また湖が見えた。今度の湖はけっこう大きい。対岸が薄く霞んでいた。俺は門を潜って原チャリをダムの横まで走らせた。


「入っていいの?」


「いいんだ」


 原チャリを駐車場で停める。エンジンを切ると、突然世界は静かになった。どこかで、何かが唸るような音が聞こえる。ダムの下の方で水が流れ落ちる音。それ以外は静寂。俺たちは手を繋いだまま、ダムの提体の上を歩いた。


「凄いダムね」


「そうかな」


「だって、さっきのマンションより全然高いよ」


 ここから湖の水面まで約15mといったところだろう。反対側の谷底までは40mくらいか。


 湖の深くて静かな風景も好きだったが、谷の方の眺めも俺は好きだった。まるで自分が谷を舞うトンビになったような気分がする。ダムが無ければここは完全に谷の上空で、それこそこの風景はトンビにでもならなければ見ることが出来ない風景だったろう。


「ここがあなたのお気に入りの場所?」


 絵美理が聞いた。


「…ああ、そうだな。ここなら、死ぬには良い場所だ」


「そうね、確かに、御伽噺に出てきそうな雰囲気ね」


 彼女は湖の方を見ていた。春の日差しの下、湖は穏やかに凪いでいた。


「早朝に来れば霧が立ち込めていたりして、もっと雰囲気があるんだけどな」


「そう、でも、こういうのも好きよ」


 そして、絵美理は小さな声で言った。


「ありがとう大志。ここでいいわ」


 俺はちらっと絵美理の顔を見た。


 絵美理は、無表情だった。というより、何かに耐えていた。頬が赤く、額に汗が浮かんでいる。気がつけば、絵美理は俺の手を強く握り締めていた。熱い。汗が滲んでいる。


「…怖いのか?」


「死ぬのは、怖くない」


 そう言うと同時に、絵美理の身体が揺らいだ。倒れる寸前、手すりで身体を支える。


「怖くない」


 声が震えていた。


 様子が変だった。俺は絵美理の肩を抱いて助け起こそうとした。


 熱い。それは異常な熱さだった。熱湯を入れ過ぎた湯たんぽのようだ。俺の額にも一瞬で汗が浮かんだほどだった。この時、俺は初めて気がついた。


「…病気か?」


 絵美理は笑った。俺の鈍さを笑ったのだろう。


「そうよ。私、もうすぐ死ぬの」




 そういえば、絵美理は死にに来たとは言ったが、自殺をするとは言わなかった。


「病気でね。もう何回か手術をしたし、いろいろ治療もしたけど、良くならないの。もう、手の施しようが無いんだって」


 絵美理は熱い息を吐いた。


「死ぬんだって、本当に死ぬんだって分かったから、だから、死ぬ場所を探しに来たの。病院のベッドの上で死ぬなんて面白くないじゃない?だから、ありたけのお金を持って、病院を逃げ出してきたのよ」


 絵美理は今や体中から汗を流していた。身体から湯気が上がりそうだ。それなのに青白い表情で絵美理は笑った。


「ここは本当にいい所。ありがとう大志。ねぇ大志。本当は、あなたがここで死にたかったんじゃないの?」


 俺は沈黙した。絵美理は笑っている。


「ああ、そうだ」


 俺は嘘が吐けなかった。


「死ぬ時はここから飛ぼうと思っていた、取って置きの場所だ」


「そう、ごめんね。先に私がここで死ぬわ」


 俺は渋い顔をしていたに違いない。絵美理はそんな俺を見て華やかに笑った。俺は思わず言った。


「死にたいのか?」


「そんな筈無いじゃない。死にたい訳じゃない。でも、死ぬの。分かるのよ。身体の中で何かがボロボロと剥がれ落ちるのが分かるのよ」


 絵美理はもうぐったりしている。俺は絵美理の腰を抱えて支えた。


「そうね。こんなに苦しければ生きていても仕方が無いのかも。でも、生きてもいたいかな。でも死ぬの。ねぇ、大志、私を殺して」


「死なねぇよ!」


 俺は思わず吐き捨てるように言った。


「お前はまだ死なないよ」


「…なんで…?」


 俺は絵美理を抱えるように歩き出した。




 絵美理は朦朧としていたので、後ろに乗せるのは無理だった。なので胸の前で抱えこむようにして俺はバイクを操った。幸い、目的地は遠くない。湖の別のところにある公園で、ここにも湧水を汲める場所があり、平日なのに結構な人がいた。俺が奇妙な格好で原チャリを駐車場に乗り込ませると、奇異の視線が集中した。


 俺はもう意識不明に近い絵美理を抱き上げて、公園のベンチに寝かせると、自動販売機でスポーツドリンクのペットボトルを買った。


 絵美理は眠っているように見えた。静かに生暖かい空気に溶けつつあった。俺は彼女の頬を軽く叩いた。


「おい、薬はどこだ」


「…くすり?」


「持っているだろう?薬だよ」


「…知らない」


「持っている筈だ」


 絵美理は薄目を開けて、俺を非難するような顔をした。最初に見た顔。どうして自分を放って置いてくれないのかと訴えている。俺は首を横に振った。


 俺の親戚が末期の癌で入院していた時の事を思い出す。


 その親戚も最後は何も治療が出来ず、ひたすら薬を大量に飲まされていた。末期の患者には、最早治療ではなく、苦痛を軽減する薬を処方する事しか出来ないのだと聞いた。


「熱を強制的に下げる薬とか、痛みを抑える薬とかな。今は熱さましが切れたんだろう。だけど、その内今度は痛み止めが切れる。そうしたら、そんな風にのどかに寝ていられなくなるぞ」


 親戚は結局、一昼夜苦痛にうめき声を上げ、のたうちまわって苦しんだ挙句、死んだ。


「そうなったら流石に俺も119番しなけりゃいけなくなる」


 絵美理は俺の事をじっと見ていた。悲しげな、泣きそうにも見える表情だった。


「私を、置いて行くの?」


 絵美理は綺麗な、凍るような美しい面差しにこの世の悲しみを集めたような表情を浮かべていた。俺は、目を逸らさなかった。


 「そんなことは、しない」


 絵美理は手を開いた。薬をもう持っていた。


「まだ死なせてくれないの?」


 俺は彼女の手から薬を取り、パッケージから出して、口の中に押し込んだ。ペットボトルを開けて、絵美理の口に当てる。口の端から透明な液体がこぼれた。彼女の喉が動くのを見て、俺は安心する。


「結局、生きる事も死ぬ事も、自分ではどうにもならないのね」




 薬を飲んで数分後には、絵美理の熱はあっさりと治まっていた。ずいぶんと我慢していたのだろう、ほっとした表情だった。


「良かったな」


 俺は言って、ペットボトルに口をつけた。喉がからからだった。残りを絵美理に渡した。絵美理は俺を睨みながら奪い取るようにペットボトルを掴み、残りを一気飲みする。


「大志。薬は水で飲まなきゃいけないのよ」


「それは、すまなかった」


 俺が謝ると絵美理は意外そうな顔をした。前髪の隙間から力を取り戻した、深い闇色の瞳が俺を見上げている。よく見れば痩せているというレベルを超えてそげている頬。尖った顎。何より、痛々しいまでに青白い肌が、彼女の運命を物語っている。


 俺は安易な事を言いたくなかった。励ましや、慰めの言葉は、絵美理に相応しく無いだろう。なにより、俺は俺が信じてもいないことを言いたくなかった。


 俺は立ち上がって絵美理を促した。


「行こう。ここは人が多過ぎる」


 俺たちはまた原チャリに二人乗りして走り出した。絵美理は俺の背中にしがみついたまま、口を開かなかった。俺も声は出さなかった。ただ、お互いに鼓動や、息遣いでなんとなく通じ合っているような、そんな気がした。気がしただけかもしれないが、それでも良いのだった。


 俺は原チャリを山の上の方へと向かわせた。峠道の急坂を登る。道は細く、曲がりくねり、そしてまだ色の薄い緑で頭上を覆われて薄暗かった。少し、麓より冷たい空気だった。原チャリの燃料のことがちらっと過ぎった。いいさ、最悪、帰りは下り坂を惰性で転がせばいい。


 車はほとんど通らなかった。ただ、原チャリのうるさい排気音だけが響いた。光がモザイクになって頭上から降り注ぐ。道路は単なる黒の単色ではなく、砂で白かったり水でより黒かったりした。走り屋がつけたタイヤマークがヘアピンコーナーに何本も残っている。道端にもまれに山つつじが咲いていた。


 なんでそこへ行こうと思ったのかは良く分からない。最初に会った場所があそこだったので、彼女はもしかしてその花が好きなのかも知れないと無意識に考えたからかもしれない。それとも、単に俺が行きたかったからかもしれない。俺はその花がわりと好きだったし。それとも、高いところで死ねば天国に行けるのかと言った絵美理の言葉を覚えていたからかもしれない。


 山頂に近いところに山つつじの群生地があった。駐車場が整備されていている。俺が向かったのはそこだった。突然森が終わり、空が一気に広くなる。満開のつつじの花がお出迎えだ。


「へぇ・・・」


 絵美理が感嘆の声を上げる。


 山頂駐車場には車がいなかった。このシーズンでは珍しいことだった。時間が遅かったからだろうか。日差しは既にかなり傾いていた。円盤に螺旋階段が絡みついたような、不思議な形の展望台があった。それも薄くなった日差しにオレンジ色に染められていた。




 展望台に二人で上った。絵美理の足に合わせてゆっくりと。螺旋階段は永遠に続くようで、それでいてあっさりと終わった。金属の手すりに囲まれたコンクリートの円盤。足元に夕日に染められて七色に輝くツツジが一面に咲き、遥かな麓には小さな町が、ぼんやりと浮かんでいた。


 視界を塞ぐものが無いせいで、空を飛んでいるようだった。少し強い風が吹くと展望台は少し振動しているようだった。それで、空を飛んでいる船に乗っているような感じがした。そんな事を思いながら二人で手を繋いで、風に吹かれていた。絵美理の黒髪が時折風に巻かれて俺の頬を打った。風は、少し冷たくなってきていた。


「ここが?」


「そうだな。最後の心当たりかな」


「ふふ、確かに、ここはいい所ね」


 絵美理は俺から離れて、手すりにもたれた。彼女の背後に夕日がある。逆光の中で彼女は笑っていた。俺には、俺の事をあざ笑っているように見えた。


「それで、どうするの?」


 俺は沈黙した。言葉を用意していなかった。俺は何を期待して、何を望んでここに彼女を連れて来たのだろう。


 慰めるため?引き止めるため?俺にそんな権利があるものか。


 言葉を失って立ち尽くす俺を、やはり絵美理はあざ笑ったようだった。


「さっき薬をのんじゃったから。しばらくは死ねないわ。ここからじゃ、飛び降りても死ねないかもね。それとも」


 光を背負って闇に隠れた絵美理の表情。白い歯が光った。


「あなたが殺してくれる?」


 ああ、それも良いかも知れない。唐突に思い至った。彼女を殺して、自分も死ぬのだ。彼女を救って、自分も救う。それは素敵で、感動的なアイデアだと思った。思わず笑ってしまった程だった。


 そうか、俺は絵美理を殺すためにここに来たのだ。その瞬間、確信に近いほど俺はそう思い込んだ。


 俺が殺してあげる以外に、絵美理は救われない。自然に死のうとすれば苦しい。生きたいのだから自殺も出来ない。しかし、生き続ける事も出来ない。生きる事も死ぬ事も出来ない。ならば、殺してあげるしかないではないか。


 俺なら、殺してあげられる。なぜなら、俺は死にたいから。彼女を殺せば、それが理由になる。今まで散々躊躇していた、一線を越える理由になる。彼女を殺した償いに、自分も死ぬ。


 そして、彼女も望んでいる。自分が殺される事を。自分には得られない死を、俺に与えられる事を望んでいる。彼女は感謝して、俺に感謝して死ぬだろう。


 絵美理が両手を左右に大きく広げた。俺を迎え入れるように。


 俺は進み出た。彼女の首に両手を伸ばす。その細くて白い首を力一杯握り締めれば、苦も無くそれは砕けて何もかもが終わり、二人は幸せになる。


 しかし俺はそのまま手を、彼女の首の左右に通過させ、両腕で彼女の頭をかき抱いた。


 溜息が聞こえた。


「やっぱり、あなたは死の使者じゃなかった」


 絵美理も俺の背中に手を回していた。


「一目見た時から分かってたけど」


「なんで」


「笑ってたから」


 絵美理は俺の胸に顔を埋めて、俺を見ないようにしている。


「きっと、私を連れ戻しに来たんだって。そう思った。だから、付いて行きたくなかった。でも、結局、付いて行っちゃった」


 弱いんだなぁ。絵美理は呟いた。


「やっぱり、生きたい。生きて、いたいんだなぁ・・・」


 俺は絵美理の暖かさを感じながら、彼女の震えを感じながら、何も言う事が出来なかった。彼女に、何か言ってやることが出来るほど、俺は人生経験が豊富でもなかったし、人生の幸福も、未来の美しさも信じてはいなかった。


 むしろ、絵美理の事が羨ましかった。死に場所を探しながら、それでいて死にたくないと訴える彼女が羨ましかった。死にたくて、それでも死ぬ勇気が無い自分にとっては。生きたいと。叫ぶ事が出来る彼女。羨ましくて眩しかった。


 だた、同時に思った。彼女を。絵美理を死なせたく無いと。生きていて欲しいと。同情でも、共感でも無く、ただ単純に、俺は俺が望むが故に彼女に死んで欲しくなかった。理由は・・・。


 絵美理が顔を上げた。やはり夕日を背負っていた彼女の表情は良く見えなかった。しかし、瞳だけは見えた。潤んだ瞳が、柔らかな何かを浮かべながら俺の事を見ている。


 どちらとも無く、顔を近付けて唇を交わした。


 顔を離して、くすりと、笑いあい、もう一度。


「・・・本当は、他のものもあげたいけど」


 絵美理は、俺の事を見上げて、この時ばかりは女子高生らしくいたずらぽい笑顔を見せた。


「あたしの身体、手術で傷だらけなの。だから見せたくない」


「別にいいけどな。それでも」


 絵美理は声を上げて、可笑しそうに、楽しそうに笑って、俺を突き飛ばすように離れた。


 そのまま、スカートの裾をなびかせながらクルクルと回った。両手を広げて、舞った。彼女を藍色の夜が包み込もうとしていた。最後の残照が横顔を照らしていた。絵美理は笑っていた。




 駅に着いた時にはすっかり夜だった。電灯の下、自転車置き場にバイクを停める。ヘルメットを取り、シートの下に入れる。絵美理のも受け取ろうと手を伸ばす。差し出そうとした絵美理の手が、途中で止まった。


「大志、これ。もらっても良い?」


「え?」


「持って帰る」


 そんなものもらってもどうしようも無いだろうに。だが、絵美理は大事そうに半キャップヘルメットを胸に抱いて、笑っていた。絵美理の手を引いて、暗い歩道橋を渡る。その下には線路。ふと、俺は南の方を見た。線路が真っ直ぐに伸びて闇に消えている。絵美理はそっちへ行くのだ。


 駅で切符を買う。絵美理が告げた駅は聞いた事も無い名前だった。路線表から名前を見つけるのに苦労した。だが、思ったより近い。


 スポーツドリンクを買い、もう一度絵美理に薬を飲ませた。もう絵美理も何も言わずに飲んだ。食事は、途中のコンビニで食べた。電車の中で飲むようにと、飲みさしのペットボトルをそのまま持たせた。絵美理はヘルメットをハンドバッグのように肘から提げ、そこのペットボトルを入れて、おどけてみせた。


 電車が来るまでにはまだ間があるようだったが、俺たちは手を繋いでホームへと出た。まだ夜になると少し冷えた。セーラー服一枚の絵美理は寒そうだ。


 なんとなく座る気になれず、立っていた。ホームの端で。言葉はほとんど交わさなかった。寒いね。うん。風が吹いてきたね。うん。電車来ないね。うん。そんな感じ。


 俺は絵美理の手を握りながら、上の空だった。絵美理は電車が来たら、それに乗って、そのまま帰る。


 そして二度と会わないだろう。いや、会えないのだ。絵美理がどこに住んでいて、どの病院に入院しているのか、俺は知らない。だから、会いに行きたくても会いに行けない。絵美理も、俺がこの町のどこに住んでいるのかは知らないだろう。


 そして、絵美理は程なく死ぬのだ。今日、死に損ねたからには、病院で。恐らく医者と彼女の家族や友人に囲まれつつ。俺の知らないところで、俺の知らない瞬間に死ぬだろう。


 当たり前で、その方が良いに決まっていて、そして不条理な話だった。


 引き止めたかった。


 俺はこの期に及んでそんな事ばかりを考えていた。彼女を行かさないために、どんな方法があるだろうか。焦燥感に近い思いを抱えながら、俺は必死で考えていた。そんな方法があるはずも無いのに。


 その時、アナウンスがホームを貨物列車が通過すると告げた。北の方から列車のライトが煌々と光り、俺と絵美理を無遠慮に照らし出した。その時、絵美理が俺の腕を抱いた。


「一緒に、死んであげようか」


 呼吸が止まった。


 それは衝撃的なまでに甘美な誘惑だった。


 絵美理と共に今ここで、貨物列車に身を投げる。俺と絵美理は二人揃って肉片となって事切れる。そして、二人は永遠に離れる事は無い。


「良いよ?あなたとなら」


 死んでも。


 死にたくないと言っていた絵美理が、自ら死を選んでも良いと言っている。俺となら、死んでも良いと言っている。俺は絵美理を見た。絵美理は霞むような微笑を浮かべていた。俺を促すように、俺の腕を掴む手に力を込めている。


 知っているから。あなたが死にたがっている事を。知っているから。だから望みを叶える。一人では死ねなかった。でも二人なら。死にたい男と死ぬ定めにある女。惹かれあい、別れを望まぬ二人なら。何もかもを叶える死を。すぐにそこにある死を。


 絵美理の瞳に吸い込まれそうになりながら、俺は絵美理に抱かれているのと反対側の手を伸ばして絵美理を抱きしめた。そして・・・。


 そのまま立ち竦んでいた。その横を貨物列車が規則的な振動を刻みながら通り過ぎる。長い貨物列車が通過し終わるまで、俺は絵美理の髪に鼻を埋めていた。


 貨物列車が通過して、駅に静寂が戻る。しばらくして、アナウンスが今度は上り列車がやってくると告げる。絵美理が乗る列車だ。


「・・・どうして?あたしのため?」


 絵美理が僅かに失望したように言った。俺は絵美理を抱きしめながら、首を横に振った。


「違う」


「何故?」


「・・・忘れてしまった」


 俺はちょっと呆然としていたのだ。


「考えたんだ。瞬間に。俺は、なんで死にたかったんだっけ、って」


「それで?」


「そうしたら、なんで死にたかったのか、忘れてしまった。そうしたら怖くなった」


 絵美理はくすっと笑った。そして俺の背中に手を回した。


 列車が到着した。人がほとんど乗っていない車両。絵美理は俺の胸から名残惜しげに離れると、列車に乗り込んだ。そのまま入り口に立って俺を見下ろしている。


 見慣れないセーラー服。風になびく長い黒髪。暗いホームでは彼女の顔は良く見えなかった。


 俺は、何も言えなかった。さっき彼女のいる岸辺から離れてしまった俺は、もう彼女に何を言う権利も無いと思ったのだった。初めて会った時の様に、へらへらと笑っているしかなかった。


 発車のメロディが鳴る。


 その時、彼女が手に持ったヘルメットを俺に見せた。そしてメロディに負けないくらい大きな声で叫んだ。


「手紙!書くよ!」


 ドアが閉まって、列車は動き出した。絵美理の最後の行動に呆然としていた俺を置き去りに。絵美理は今まで見た中で一番晴れやかな笑顔を浮かべて静かに手を振っていた。


 風を巻き起こして列車は遠ざかる。線路の先に、沈む闇の中に明かりが溶けて行く。今更ながら俺は二三歩、その後を追った。


 ヘルメット。そういえば、名前と住所を書いておいたんだった。ミラーに引っ掛けておくとよく盗まれたので、頭に来てでかでかと。貸したら友人が文句を言うくらい。


 絵美理が、俺の住所と名前が書いてあるヘルメットを持って帰った。手紙を書くと言っていた。


 俺はその事実を噛み締めながら、列車が消えていった線路の先を見続けていた。そこは見慣れれば、闇というほど暗くないのかも知れなかった。


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