【06】暗闇の地獄
これは夢だ……。
沼地の畔にある芦の茂みが、がさがさと揺れ動く。
「やめて……やめて」
恐怖に濡れた悲鳴。
ミレアがぬかるんだ地面に背中をつけて四肢を激しくばたつかせている。
その彼女を組伏せているのは、あの深緑の
「ミレア!」
ぼくは叫んだ。
すると、その緑衣の人物が、ミレアの細い首に指をかけながら、ゆっくりとこちらを向いた。
そのフードの奥に隠されていた顔は……。
「うわあああああッ!!」
ぼくは悲鳴をあげて目覚める。
悪夢を見ていた様な気がした。覚めはあまり良くない。
この施療院は聖術の結界により、ある程度の保温はなされているが、それでもかなり冷える。
ぼくは上半身を起こすと窓の外を見た。
一面の銀世界。 今はあの生け垣の向こうには誰もいない。
あれは白昼夢だったのか……。
頭の中がぼんやりとして、判然としない。
やがて用務員がトレイに乗せた朝ごはんを運んで来た。朝食を食べる。
それが済んだあと、ぼくは考える。
あのアメリアという女の人は言っていた。
ミレアはまだ行方不明だと。
あれからどれだけの時が経ったのかは良くわからない。でも彼女の死が確認されていない限りは、ぼくは絶対に諦めない。
そこで、昨日の怪しい男の存在だ。
あの男が不気味な
彼女へ到る手がかりを探りに、ぼくの元へとやって来たのではないだろうか。
もしも、そうならばミレアはまだやつの手には落ちていないという事になる。
まだ望みはある。ほんのわずかに射し込んだ光明に、ぼくの胸は少しだけ温かさを取り戻す。
思い出すんだ。彼女がどうなってしまったのか。
ぼくは、頭蓋の中に漂う記憶の断片をスープのようにすくいあげる……。
「待っとれ。今、火口箱を出して火を起こす……予備の明かりあっただろ?」
「お嬢だ……お嬢が持っている」
ギンベの言葉にジョンソンが答えた。
「クソ。とりあえず、乾いた布でも何でもいい。火を灯せ」
ギンベは舌打ちをする。
魔法で明かりをつける事の出来るミレアに予備の照明を持たせていた辺りも彼らの経験の浅さだろう。
もっとも、こんな状況におちいる事など、想像する事も難しいだろうが……。
ミレアだって普通の箱入り娘などではなく、それなりに場数は踏んでいる。
普段ならば取り乱す事などないだろう。
しかし、酒場で見た不気味な
ぼくもまさか、彼女が逃げ出すとは思っていなかった。
「それにしても、いったい何で明かりが……」
ジョンソンがぼやく。
「知るか! 何かが飛んできて
ギンベは手探りで火打ち石と火打ち金を打合せながら声を荒げた。
ともあれ、しばらくの間、暗闇の中で、かちっ、かちっ、という音と共に火花が散る。
「やっぱり誰か、そこにいるのか?」
ブラウンの声だ。そのときだった。四方から足音が聞こえて来る。それも沢山だ。素足で小さい。ゴブリンだろう。
思ったより数が多い。きっと三十はいる。こちらに迫って来る。
ジョンソンも気がついたらしい。
「……やばいぞ。囲まれている」
「クソ。ゴブリンか……」
ブラウンが舌を打つ。さっきのミレアの叫び声で集まって来たのだろう。
「司祭! 早く火を灯せッ!」
ブラウンが叫ぶ。
「ちくしょう! 焦らせるなッ!」
……ぐげげっ
……げらげら
……ひひひっ
四つ辻から延びたそれぞれの方向から、無数のゴブリンの笑い声が聞こえる。
その小汚ない妖魔たちの瞳には、ぼくたちの姿がはっきりと見えている事だろう。
彼らは夜眼が効く。
ぼくは覚悟を決めて、肩にかけていた
この
ぼくは、いつも以上に神経を集中させた。
「来るぞ……」
圧し殺した声でブラウンが言った。
それが開戦の合図だった。
ゴブリンたちの雄叫び。
無数の足音がぼくたちに群がる。
地獄の様な乱戦が今始まった……。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
誰かの荒い息。
これはブラウンだろう。
案の定、彼の声がした。
「おい……生きてるか?」
流石のぼくも疲れて返事をする事ができなかった。
でも多分ゴブリンは、ほとんど殺やったはずだ。
ぼくが数えた限りでは三十二匹。
この状況下で、これだけの数のゴブリンを殺れた理由は三つある。
ひとつは、ブラウンとギンベが予想以上に頑張ってくれた事だ。
ゴブリンを倒したのは、ほとんどぼくだったが、ふたりが充分に敵を引きつけてくれたからこそだった。
特にギンベの防御の術や癒しの術は、かなり効果的に働いた。
ふたつ目は、ゴブリン側の統率が取れていなかった事。頭数はいても所詮はゴブリンだ。ぼくたちのチームワークには敵わない。
若いゴブリンがほとんどだった事も幸いした。歳をとった個体は、もう少し
最後のみっつ目は、ぼくが暗闇で動けるのをゴブリンたちが知らなかった事だ。やつらは、ぼくを舐めていて油断していた。
「おい……司祭……生きていたら頼む。怪我をした。かなり、酷い……くっ。血が……血が止まらない」
ギンベの返事はない。
「おい! 司祭ッ!」
ギンベは答えない。
何故なら彼は、ぼくの足元に転がっているからだ。もうこと切れている。
ジョンソンは……わからない。
乱戦の最中、狂気じみた彼の叫び声が聞こえて来た。
かなり錯乱していた様だ。
「司祭ッ!! お願いだ……癒しの術を……」
ぼくの息づかいを彼のものと勘違いしたのだろうか。
ブラウンがぼくへと向かってやって来る。
おぼつかない足取りで、一歩、二歩と……。
そしてブラウンの肩が、ぼくの肩に触れる。
その瞬間だった。
「うわああああああああっ!!」
暗闇を切り裂く音。
ぼくは屈んで無造作に振り回された
そしてブラウンに抱きついて彼を押し倒した。
「落ち着け! ブラウン。ぼくだ」
彼の肩を押さえつけ、必死に語りかける。しかし彼は完全に混乱しているらしく聞く耳を持ってくれない。
「あぁあぁあぁああああっ!! やめろっ!! やめてくれっ!!」
四肢を振り回し暴れるブラウン。
苦痛に顔をしかめ、立ち上がり、飛び退く。
「いったい、何が目的なんだっ! お前いったい何なんだよ?!」
どうやら彼も恐怖に侵されてしまったらしい。
「落ち着け。ブラウン……ギンベはもう死んだ。残念だけど」
「五月蝿い! 何を言っているんだ! 死ねッ!! 死ねッ!! 死ねッ!!」
どうやら仲間の死が受け入れられないらしい。
ブラウンがぼくの方に飛びかかって来た。
暗闇の中、風切り音がした。ぼくも右手の
けたたましい金属音。
ぼくはすぐにブラウンを突き飛ばして距離を取る。
「どこだッ!! 出てこいッ!! お前なんだろッ!? 明かりを割ったのは?!」
暗闇の中、地面に寝転がったまま剣鉈を振り回しているらしい。完全に我を忘れて錯乱している。
「落ち着け……落ち着くんだブラウン」
「五月蝿いッ!! 貴様、あの酒場の男だろッ!!」
闇はすべてを狂わせてゆく。
でも、あとから思えば、これは不気味な
「違う。落ち着け……ぼくだ」
「くそっ! 血が……血が……ごほっ、ごほっ……」
彼の湿った咳が響き渡る。
「ブラウン。落ち着いて。まずは、彼女を……ミレアを探して来るから。君はここで待っていて」
ぼくは、むせ返り続けるブラウンに優しく語りかける。
「君にも解るはずだ。今の状況が……」
正直に言ってしまえば、このとき優越感を覚えていた。
「この暗闇で明かりのない今、自由に動けるのは、ぼくだけだ」
この窮地でミレアの元へと駆けつける事ができるのは、ぼくだけなのだ。
昨日、宿屋で密やかに彼女と愛を語らっていたブラウンではなく、ぼくなのだ。
「ブラウン……君はここでおとなしく待っているんだ」
「ちく……しょ……う……ごほっ、ごほっ」
ずっと、鳴り響いていたブラウンの咳が止まる。
「ブラウン?」
ぼくは彼の名前を呼んだ。
「ブラウン……」
もう一度、呼んだ。
静寂。
彼の呼吸の音が聞こえない。
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