第3話 ハニートラップの失敗
私の文句に素直に答えてくれるのならばまだしも、いや今になって答えてくれた所でもう遅いのだがこんな気持ちにはならなかった。
よくもまあサラリーマンが務まる物だと思うぐらい、あの男は鈍感だ。未だに自分だけ温かい家庭の中にいて、これほどまでに私を放置しておきながら自分の中だけでは愛しているつもりなのか。真夏の照り付く日差しが自分だけを容赦なく照らしているように思えて来る。
「そうだな、プールにでも連れてってやるか。暑いからな」
自分だけ理想の家庭の中にいて、私の孤独と憎悪を全く理解していない、頭から水でもぶっかけて酔いを冷ましてやりたい。その本音を目一杯の配慮をもってオブラートに包んでたまには水にでも浸かって来たらと言ったら、あの男は全く悪意に気付く事なく満面の笑みを込めてそう答えて来た。そしてその言葉に呼応するかのように娘はわーいと心底楽しそうな声を上げている。一人で行けと言いたかったが、娘に積極的に乗られては手の打ちようがない。娘の不興を買っては本末転倒だ。
「実際そうだから仕方ないだろ」
こっちは爆発しそうなほどの悪意を心の中に溜め込んでいるのに、向こうには髪の毛の先の単位の悪意もありはしないらしい。じゃなければ今一番人気の女優が出て来るドラマを一緒に見ながらお前よりは不細工だなんて抜かすはずがない。折角人が入れた茶をテーブルにぶちまけさせるような歯が浮くセリフをよくもまあと思う。こんな事を抜かす人間に離婚を申し出せばこっちは一方的に亭主を捨てた薄情な女じゃないか、もちろん娘にも受け入れられない。何とかしてこの男の愛情を冷めさせなければいけない、しかもなるべく娘を傷付けさせない形で。そう考えるだけで肩が凝って仕方がない。
一応人並みに運動はして来たつもりだ、でももっともっと鍛え上げなければいけない。これから先一生二人きりで過ごす事になっても、あるいは誰か新たな男を見つけ彼と暮らす事になっても、体力があるに越した事はないのだ。
だが実際体力を付けるのは難題だ。鍛えるような場所がないとか、時間がないとか、金がないとか、その手の問題はない。ないのは道具とプライバシーだ。もっとも道具なんぞそんなに高い物ではないのだが、問題はもう片方だ。部屋に籠って体力を付けようとしてもできる事は限られている。自然、外に出なければならない。外を不用意に走り回ろうものなら自分と同じくゴシップが大好きな奥様連中の噂の的となる事は必至だ。なぜわざわざそんな事をする必要があるのかと聞かれるだろう、いくら健康の為だの美容の為だのはぐらかした所で必ず誰かがあらぬ深読みをしてくるに決まっている。その上に資格の勉強もしなければとなると家事を含め時間がいくらあっても足りない。
「どうしたの、ねえどうしたのママ?…………パパにもいっちゃダメ?」
自分一人誰にも話せない思いを抱え懊悩する中、資格の教材を締まっている棚を開けようとした娘に絶対開けちゃダメと怒鳴り付けてしまった。声の音量こそ小さかったもの、娘は自分が穏やかならぬ物に触れてしまった事を鋭敏に感じ取ったようだ。その後の目はいつにも増して物憂げで生気に乏しかった。
いっそこの子も捨ててしまえば楽になれるのに、と思ってしまった自分が怖くなった。あの男の遺伝子が入り込んだ娘と考えると可愛いと思えなくなって来る、でもだからと言って邪険に扱えば不利になるのは自分ばかりだ。どうしてママが自分にならばともかくパパに隠し事をするのか、そんなのは嫌と言っているように思えて来る。傍から見ればなんと健気な娘なのだろうと思うだろうが、私にしてみればその健気さこそ一番の障壁だ。
(何とかして、娘の心をあの男から私の方へ引きずり込まないと……)
子はかすがいとか言うが、自分にしてみれば豆腐にかすがいだ。どんなに懸命に繋ぎ止めようとした所で、私の心はもう完全に離れている。倦怠期とか言う次元ではない。娘が後押しするのであればとっくに別れているぐらいの状態だ。だが今ここで離婚を言い出せばどうなるか、おそらくあの男はどうしようどうしようと慌てふためき騒ぎ回るだろう。それだけならばまだいいざまだが、当たり前ながら近所の人間や私の両親にも私が離婚したいと言い出したと言う話が届く。ここ最近のまぐれ当たり連発でいい会社員いい父親いい夫になっているあの男とどうして離婚するのか多くの人間は理解しないだろうし、理解した所でなぜここまで我慢したのにいよいよこれからと言う時でと私の早合点を責めるのが落ちだろう。そして母は男の怠惰に目を向けず私の行動だけを咎め全力をもって離婚を阻止にかかるだろう、仮に離婚できたとしても親不孝な私の元には置けないとばかりに孫娘を握って離すまい。それでは全く意味がない。
「可愛いだなんて…ありがとうございます、いやそんな読者モデルなんて」
近所で一人暮らしをしている大学二年生の女の子。正直随分と若くて可愛い子だが、ここまで可愛いと嫉妬なんて言う次元を通り越してしまう。正直テレビに出ている同い年ぐらいの芸能人よりずっと可愛い。
今の大学生は二年生の時から就職に奔走しているらしい。少しでも伝手が欲しい、伝手を見つけていい会社に入り込みたいと考えるのは彼女を含め皆同じだろう。だから彼女をあの男に紹介した、あの男の務める会社を案内させてやって欲しいと言う名目で。
(私は女よ、同じ女として嫉妬する気にすらならないほど可愛い二十歳の娘を気に入らないなんて男としての料簡を疑うわ)
要するにハニートラップだ。女性である以上いつまでも若い子には負けたくないと思う物だが、彼女には正直歯が立たない。恋愛対象としてかはともかく、あれを気に入らない男と言うのはどういう趣味をしているのか自分でもわからない。
そして念には念を入れ、何もかも頼っていいのよと言い含めさせておいた。そうやってあの男の心をくすぐらせる。彼女にその気が芽生えようが芽生えまいが、あの男を誘惑させ心を惑わせる。そうやって私から気持ちを離させ、ここぞと言う所で爆弾を爆発させる。これで完璧のはずだ。
「そうか、そんなに熱心なのか。何とかして会社に引き込まないとな」
不本意ながら、目一杯めかし付けてやった。馬子にも衣装だ。あの娘を引き付けさせるには少しでも見た目がいいに越した事はない。新婚の時でもしなかったような丁寧なコーディネイトをしてやるのは正直気が進まなかったが、これで自由になれると思えば腹立ちも少しは紛れると言う物だ。
いい手段でない事は分かっているけど、もう私にはそんな余裕はない。戦いにおいて相手の失敗を期待するのは間違いだが、相手の失敗を誘うのは立派な戦術だ。あれだけ年下の女子大生に欲情するような男なればこちらも余裕で離婚を宣言できるし、娘も母も納得するだろう。
「最近何段跳びかで課長さんになったそうですけど、本当なんですか。正直信じられないんですけど、あんないい人がどうして…もちろん仕事のできるできないはあるんでしょうけど、あんな人当たりが良くて笑顔を絶やさない人なんてもう少し早く出世しても良さそうな物なのに」
次の日、あの男に会社案内をされた彼女の声は弾んでいたと言うより戸惑っていた。あんないい人なのにどうして出世しないのかだと、いい人だけで世の中が渡れるのならばこの星から戦争なんぞとうの昔に消えている。いい子だと思ったがまだ学生、世の中の苦さや汚さを知らない。滅多に会わないであろう女子大生に浮かれ上がっているだけだ。
「それから帰り際に、奥さんに何か買ってやりたいんだがいい物はないかって。自分の感性じゃ不安なんでって。奥さんの事をとても気にかけてらっしゃるんですね、本当に羨ましいです」
羨ましいと思っているならば持って行ってくれと思う、と言うか持って行かせるために接近させたのだからある意味思惑通りではあった。だが相手の反応が思惑と違った。今年で九年目だと言うのに結婚記念日を祝われた事なんか一回しかない、そんな冷たい男だからこそ別れようと決めたのだ。それが急に何だ、まるでこちらがその事を武器にして斬りかかろうとしていたのを察したかのようにそんな事を言い出すとは。あんな情けない男が急に武道の達人になったように思えて来る。
「気に入ってくれたみたいでさ、三年後絶対採って下さいって。ああいう真面目な子が入ってくれるとうちの会社も頑張れそうだよ。顔は……まあいいんじゃないかな、お前ほどじゃなかったけど」
私の仕掛けたハニートラップが失敗に終わった事を雄弁に示すセリフを聞かされた時は正直力が抜けた。彼女の前で言ったんじゃないでしょうねと言い返してはみたものの、それ以上のセリフを言う気力は湧かなかった。
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