第9話  キューピット

梅雨が終わり、暑かった夏もあっという間に終わり、初秋の澄み切った空気が溢れてきた9月の東京。

仕事帰りのサラリーマンでごった返す週末、金曜夜の西武新宿線。揺られながら、恭介は疲れた体に鞭打ってつり革につかまり、やっとの思いで西武柳沢駅に降り立った。

改札を出て、自転車乗り場に向かおうとしたその時、店主が行方不明となった後、ずっとシャッターが閉まっていたアクアショップ「コーラル」に、明かりが灯っていたのを発見した。

「あれ?ここって・・・。」

恭介は、恐る恐る、ドアのノブを押した。


ギイっと湿り気のある音を上げてドアが開くと、その中には、熱帯魚の泳ぐ水槽が所狭しと並べられていた。

「・・いらっしゃい。」

すると、奥から1人の男性がふらふらと歩きながら登場した。

「あ、あんたはウチでメダカを買った人だね。」

「店主さん!」

店主は、腕と額に包帯を巻いていた。

「どうしちゃったんですか?突然、店を閉めて、おまけに、腕と額・・。」

「ああ・・気にするこたあねえよ。」

「気になりますよ!こないだは警察が店の周りを捜査していたし。」

「・・・・そうか。」

そういうと、店主はしばらく考え込み、やがて、まっすぐ恭介を見つめながら、

「俺は、昔から熱帯魚が大好きでね。自分で飼ってるだけじゃ物足りなくなって、自分で店を開いて、売るようにもなった。けど、なかなか売れなくてね。借金もじゃんじゃん増えちゃってさ。元々は墨田区で営業してたんだけど、最近は借金取りから姿を隠すために、あっちこっち転々としながら商売していたんだ。」

「そうですか・・僕の知り合いは、千葉のお店でメダカを買ったみたいです。そこも突然閉店して、どこかへ行ってしまったようですけど。」

「ああ、千葉でも半年くらい営業したよ。まあ、すぐ借金取りに見つかって、逃げちゃったけどね。」

「やっぱり・・そうなんですか。」

「その後、大宮行って、そしてこの場所に来て、さらに横浜に行った。そこで営業しようとした矢先に借金取りに捕まって、ご覧の通り、ボコボコだよ。」

店主は笑いながら、額の包帯を指さした。

「うわあ・・大丈夫ですか?顔に青あざも残ってるし。」

「ああ、大丈夫。2週間入院して、少しは良くなった。俺を殴った連中は警察に逮捕されたし、警察もしばらくはこの辺をパトロールしてくれるみたいだし。ただ、借金は残ってるから、危険が去ったわけじゃあないけどね。」

店主は髪をかきむしりながら笑い声を上げ、やがて天井を見上げながら語りだした。

「けどさ、好きなんだよ。熱帯魚が。こいつらを置いて逃げるとか、誰かに店ごと売り渡して返済して、俺だけどこかに逃げるなんて出来ない。行くときはこいつらと一緒だって、心に決めていたんだ。」

「店主さん・・。」

「メダカ、元気にしてるか?」

「いや・・・ここで買ったメダカは、1匹だけになっちゃって。でも、千葉に住む、同じようにメダカが好きな子が、生き残ってたメダカを持ってきてくれて。そして・・。」

「そして?」

「その2匹、仲良くなって、最近、メスのほうが卵を産んだんですよ。ここで買って、唯一生き残った子が。」

「そうなんだ!そりゃ良かったな。卵、きちんと隔離しろよ?メダカは、腹が減ったら卵とか稚魚とか、口に入るものは見境なく食べちゃうからな。」

「そ、そうなんですか?そりゃまずい・・早速、隔離しますね。」

店主は、しょうがないなあと言いたげな表情をしていたが、やがて、何かを思い出したようで、カッと目を開いて、恭介に語りかけた。

「あ、そうそう。俺、謝るよ。あんたがヒメダカをここで買った時にさ、釣りのエサにしかならないヒメダカが良いのか?とか言っちゃって。」

「あはは・・気にしてませんよ。」

恭介は笑って答えたものの、店主に言われた当時は、正直ちょっと馬鹿にされたような気分であった。

「確かに、僕が買ったのは釣りのエサにしかならないヒメダカですけど・・彼らは、僕にたくさんのことを教え、もたらしてくれたんです。」

「ほう?何を・・?」店主は、興味深そうな表情で恭介を見つめた。

「小さなメダカでも、それぞれ性格があって、生き様があって、人間みたいに出会いと別れがあるってことを。そんな彼らを見てるうちにすごく愛おしくなって、慣れないながらも、大事に大事に育てたんです。そして・・」

「そして・・?まだ、何かあるのか?」店主は、大きく見開いた目を、さらに大きく開いて、恭介を凝視した。

「彼らは、僕と・・僕の彼女のキューピットになってくれたんです。」

「彼女??あんた、彼女居たのか?そんな風には見えないけど。」

店主は、そんなわけあるか、と言いたげな表情で、大声を上げて爆笑した。

「今、僕のアパートに週末遊びに来て、一緒に泊まったりしてます。こないだ、あちらの両親にも会ってきました。」

「マジかよ?あんた・・」

店主は大きく目を見開き、口があんぐり開いたまま、固まって動けなくなってしまった。

「店主さんが居なければ、僕も、彼女もメダカに出会えませんでしたし、メダカを通してお互い出会うこともありませんでした。本当に、本当に感謝してます。

今度、彼女を連れて、挨拶に来ますね。あ、彼女から、今日は僕の家に来て、夕飯の支度をしてるって言うLINEが来たから、そろそろ帰らないと!それじゃ、また。」

恭介は店主に一礼し、笑顔で手を振ってそそくさと店を出た。

「俺・・・何て言えばいいんだ?」あまりにも突然知らされた事実に、店主はしばらく何も言えず、固まったままであった。


「ただいま、さより。」

恭介がアパートのドアを開けると、カレーの香ばしい匂いがしてきた。

「お帰り。今日は遅かったのね。遅いときはLINE送ってよ。心配しちゃう。」

エプロンをしたさよりが恭介に駆け寄り、ちょっと怒った表情で恭介を睨みつけた。

「ごめんな。今日さ、俺がメダカを買ったお店、復活していたから、店主に挨拶してきたんだ。」

「え?あの長髪のおじさん?どこかへ逃げちゃったんじゃなくて?」

「借金取りに殴られて、入院していたんだって。でも、なんとか回復して、身の安全もそれなりに図られてきたから、営業再開したんだって。」

「そうなんだ。あ、そのお店って、私がメリーとジョリーを買ったお店なんでしょ?」

「そうだよ。千葉でも一時営業してたんだって。でも、借金取りに追われてすぐ他所に行っちゃったみたい。」

「ああ、やっぱりそうだったんだ・・。でもよかった、無事だったみたいで。」

「無事・・・だったのかな?」

恭介は複雑そうな表情になりつつも、スウェットスーツに着替え、用意されたカレーライスを食べ始めた。

「おお、だいぶまともになってきたな。こないだ初めてカレー作った時は、肉の煮込みが中途半端だったり、野菜が硬かったりしたのに。」

「まあね、最近は自宅で練習してるのよ、恭介くんから教えてもらった通りにね。」

さよりはエプロンを外すと、恭介の真向かいに座り、食べながら恭介に話しかけた。

「ねえ、ところでさ、今日、水槽、覗いてみた?」

「え?まだだけど。」

「ついに・・生まれたのよ・・メダカの、赤ちゃんが!」

「え?マジで??たえ子が卵を産んだの、つい1週間位前なのに・・早くね?」

恭介は突然の告知に、思わず手に持ったスプーンを落としてしまった。

「温かいからかな?孵化するのが早かったみたいね。」

恭介は、水槽に近づき、じっと目を凝らして卵のあった水草のあたりを覗き込んだ。すると、小さな針のようなものが何匹か、水底に浮かんでいた。

「これが・・赤ちゃんか。」

「やったね。ジョリー、たえ子、おめでとう。」

さよりの顔を見ると、赤ちゃんの誕生を心から喜んでいる様子だった。

そして、改めて水槽を見遣ると、何と、親メダカのうち1匹が、赤ちゃんメダカに近づき、襲いかかろうとしていた。

「あ、やばい、稚魚は親から隔離しないと、食べられちゃうんだった。」

「ええ~??じゃあ、早く赤ちゃんを助けないと!」

恭介は、まずジョリーとたえ子の2匹の親メダカを別な水槽に移し替え、その間に赤ちゃんたちを、水の入ったバケツに移し替えた。

そして、親2匹を元の水槽に戻し、赤ちゃんたちはバケツから、親たちを一時的に移していた水槽へと再移動。

「なんとか・・助かったかな?赤ちゃんは3匹だっけ?」

「そうだね。あとは居ないみたい。卵のついた水草も、念の為赤ちゃんのいる水槽に移しておいたよ。」

恭介とさよりは、ホッとした表情で、再びテーブルに戻った。


ご飯を食べ終わると、さよりは恭介と一緒に、SNSに今日のメダカの様子をアップした。

「無事、生まれました!」の大きな文字と、針のような赤ちゃんたちの写真が、堂々と大きくページに掲載されると、やがて、沢山のお祝いのメッセージが入ってきた。

『おめでとう。卵から孵るの早かったね。元気に育つようにしっかり世話してね。』

『生き残ったたえ子ちゃん、最後に幸せを掴んだね。やったね。』

『ジョリー、たえ子、おめでとう。いいパパとママになれよ~!』

そんなメッセージに交じって、

『kyodreamくんとguppyさんも、ジョリーとたえ子に負けずに、幸せになるんだよ!』というメッセージが入っていた。

2人は顔を合わせ、ちょっと照れながらも笑いあった。

「恭介くんが、他の子が死んじゃってたえ子ちゃんだけになった、と私にメッセージをくれた時、私もジョリー1匹だけだった。でも、うちのジョリーとたえ子ちゃんが一緒になれば、なんだか仲良くやっていけそうな気がしてたんだ。私と恭介くんのメダカだから、きっとお互い上手くいくかなあって思って。」

「え?」恭介はドキッとしながら、さよりの顔を覗き込んだ。

さよりはくすっと笑って、そして恭介の頬にキスした。

恭介は、さよりからの不意打ちのキスに、思わず顔が紅潮してしまった。

ジョリーとたえ子、2匹のメダカが仲睦まじく追いかけっこをしている。

たえ子は、以前ならば何があっても水底でじっとしていたのに、ジョリーが来てから、活発に泳ぐようになった。

「たえ子ちゃん、ジョリーが来てから、元気になったもんね。きっとジョリーに恋したんだろうな。好きなヒト・・じゃなかった、魚が現れるまで、じっとひたすら待っていたのかもね。なんというか、健気だよね。」

たえ子は、ジョリーと一緒に、水面にあるエサを食べていた。

「たえ子ちゃん・・きっと、私と同じ性格かも。というか、私、そのものかも。」

さよりは、クスッと笑いながら話した。

「え?・・たえ子が・・・さより?」

恭介は、あっけにとられ、しばらく考え込んでしまったが、さよりはそんな恭介の表情がおかしいようで、ずっと声を上げて笑っていた。


それから1か月後、恭介とさよりは婚約した。

両方の両親を呼び、都内の小さなレストランで、結納を兼ねて食事会を開いた。

恭介は終始緊張していたが、さよりはにこやかで、晴れ晴れとした表情であった。

恭介の両親は、まさかこんな美人と我が子が?という感じで、いまだに信じられない様子であったが、さよりの両親は、恭介との結婚を心から喜んでいるようだった。

ここまですべて順風満帆な2人であったが、恭介には1つ気になることがあった。

さよりって、僕が初めての彼氏なんだろうか?以前、付き合っていた人とかいたんだろうか?恭介はさよりが初めての彼女だと伝えてあるが、さよりは過去について何も話してくれず、謎に包まれたままであった。

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