第17話 月輪


「秋水、安心して。これは回復系のアイテムだって、あなたも知ってるでしょ」


 ティケが緑色の水晶柱を手の平から解放すると、それは空中で小さな音と共に弾けて蛍光の粒子が母親の胸元へと降り注いだ。


「そして回復魔法ヒーリング!」


 ドラゴンメイスで十字を切ると、暖かな煙のような光が母親を包み込んだのだ。


「ティケ……? ゲームそのまんまじゃないか。これは本当に現実に起こっている事なのか?」


「ふふっ……ディアブルーンでの日々を思い出すでしょ」


 母親が混濁した意識を取り戻したようだ。服は爪跡に引き裂かれたままだが、出血は止まり傷口まで跡形もなく消え去っていた。


「母さん……」


「秋水? ……私こんな所で何してたのかしら? やだ! 道端に転んだままで、みっともないったらありゃしない。それに服まで破けちゃってるじゃない、も~う」


 すっくと立ち上がった母親は、脱げた靴の片方に足を突っ込むと、しきりに服の破れを気にして体を捻り、無理に背中側を見ようとしている。


 秋水が呆気に取られていると、ドラゴンメイスを戻したティケがテキパキと説明した。


「こちらの世界じゃ見る事はできないけど、お母様のHPは全回復したはずよ」


「そ、そんな……ゲームじゃあるまいし……」


「お母様には悪いけど暗示魔法サジェスチョンもかけたので、さっきの記憶は綺麗さっぱりと消えているはず。大丈夫……。今後、悪い影響も何もなく、普通の生活に戻れるよ」


 ティケが不敵な笑顔から優しい笑顔に変えて秋水を見遣った時、立ち上がった彼は俯いたままで、心なしか小刻みに震えていた。予想外の反応に、彼女は一瞬どうしたらいいか迷って、後ろ手に隠していた物を披露する。


「……? ほら見て、秋水! 結構良い剣が手に入ったよ。レベル高めの奴だったから……」


「………………」


「それに銀行口座にも……」


「……何が大丈夫だ」


「え? 何、秋水?」


「何が大丈夫だって言ってんだろ! 普通の生活に戻れるだって? これのどこが普通の中学生の生活なんだ!」


「!……秋水……」


「いい加減にしろよ! 君に出会ってからというもの、僕の日常生活は本当に良くも悪くも滅茶苦茶だ!」


「そんな……」


「僕の穏やかだった日常生活を返してくれよ! 退屈でも刺激がなくったっていい! それでも結構、僕は幸せだったんだ」


 ティケは涙の跡が残る秋水の目を、まともに見ることはできなかった。母親はキョトンとしたままで、秋水が美少女に対し、何でそこまで怒っているのか分からない様子だ。


「大人がいなくなった世界なんてもう沢山だ! それに何だ、あのバケモノ達は?! 僕は悪い夢でも見ているのか?」


「………………」


「あんな奴を一撃で倒すなんて、本当は僕よりずっとレベルが上なんだろ? まだゲームを始めたばかりだって言うから初心者のパーティーに入れてやったのに。レベル10なんて嘘だろ、どうやったか知らないけど僕を騙したな」


「落ち着いて、秋水」


「これが落ち着いてられっかよ! 返してくれよ、僕のささやかな生活。それに、それに……母さんの結婚指輪!」


 その時、秋水は母親から右頬を思い切りぶたれた。


「秋水! いい加減になさい! 女の子に対して、そこまで怒鳴るなんて最低よ!」


「ぐっ!」


 ティケは制服姿にミスマッチな長剣を手にしたまま、暫く目を閉じたままだった。そして左手で涙を拭うような仕草を見せた。


「……ごめん。ごめんね、秋水……」


「……ティケ……」


「私のせいで随分と秋水に迷惑かけちゃったね、本当にごめんなさい!」


 彼女は後ずさりした刹那、振り返りもせず自宅マンション方面に向かって走り去った。誰もいない月明かりの中、鞄も何もかも置きっ放しにしたままだ。

 母親は、女の子が夜に1人で感情を昂ぶらせて去った事を自分の子供のように心配した。

 その後、まるでタイミングを合わせたかのように、消えていた街灯が全て復活したのだ。




 ――ごめんね、秋水……。


 ティケが最後に残した言葉が、やけに秋水の耳に残った。それは彼の胸の内側をちくちくと刺激し、のべつ幕無しにザワつかせるのだった。

 やるせなくて夜空を見上げると、月輪がちりんが灰色した雲の輪郭を黄白色に照らし出しているだけであった。




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