十三・忍逆深令は打ちのめす

 七月二十五日(日)


「真刈君も怖がったりするんだね」忍逆が大笑いする。だがすぐに真面目な顔に戻る。「彫元さんの生首か。本当に和賀祓さんが見たかどうかは怪しいね。人は主観でしか物を見れないから、その生首が実はマネキンだった、なんてこともあるし」

 彼女とはいつものランニングの帰りに公園で落ち合った。

 そしてそのままマンションまでついてきた。

 Aさんとどうしても話がしたい、という彼女の願いの元、俺達はまたAさんの部屋を訪ねた。インターホンを押しても反応はなく、ドアが開く様子もなく、何も変わりがなかった。ただ俺達はドアの前に立ち尽くすだけ。本当に住んでいるのかどうかも怪しいくらいだ。

 時刻は七時を回った。まだ外は明るいが、西日もそろそろ地平に遮られてこのマンションを照らせなくなる。そのタイミングよろしく、通路に一斉に電灯がつく。

 俺達はまだAさんの部屋のドアの前に立っている。言うまでもなく彼女の発案だ。もう少し粘ろう、と彼女は言うけれど、天気さんですら会ったことがないという幻の住人に会えたならばどんなにいいか。

「そこまで考えてたらキリがないって、昨日思ったところだったんだけどな」

「キリがない、ねぇ」ふてくされたように、目を細めてこちらを睨む。意見を違える者を敵視するような目つき。「でも、普通は、殺人事件を解決するのに幽霊の存在なんて考えないよね? もう「キリがない」みたいな領域にまで私たちは考えちゃってるじゃない?」まるでもう戻れないところまで来てしまったかのような物言いだが、そういうレベルにまで連れてきたのは忍逆の方だ。

 そして、事件解決のために俺はそれを容認した。

 推理の幅をどこまで広げても、それを止めることはできないってか。

「帰ろ」突然彼女が俺を置いて引き返す。観念したらしい。だが心の流れが今一つ読めない。あまりにも決断が突然過ぎる。「さっきお願いした通り、停電が起きたら、すぐに私を配電盤のところまで連れて行ってね」

「仰せのままに」もうどうにでもなれという気持ちがある。彼女の考えるまま思うまま行動するままに、今日のところはついて行ってみようと思う。

 Aさんとの対話を諦めた今、彼女は停電を待っている。

 昨日も一昨日も停電は起きた。二度起こることは三度目も起こる。天気さんは、もううんざりという表情で業者を呼び、焦げた配電盤をまた修理してもらっていた。二度目の停電もまた配電盤のショートが原因だったらしく、焦げ跡は広がっていた。天気さん曰く、「壁を塗り直さないとねえ」と。修理費は馬鹿にならないと言いつつも、金を出すのはマンションの本来の持ち主である例の資産家なので、天気さんとしては痛くも痒くもないと言う。ただ、対応が面倒なだけで。

 停電を待つ間、夕飯を作り、忍逆と食べる。「たまには友達の作ったご飯ってのもいいね」いたくその夕飯に感激し、あっという間に完食してしまった。

「なあ、質問なんだけどさ」皿を洗いながら俺は少し気になったことを訊く。「忍逆さんがいる神社って、どこにあるの?」

「ああ、それ話してなかったよね。シノビザカ神社って言うんだけどね。「忍逆」って名字もそこから来てるんだよね、「忍ぶ坂」って書くんだけどね」

 忍坂神社。

 和賀祓さんのリサーチにも引っかからないという、まさに知る人ぞ知る神社か。

「あー、多分、あの人は知ってると思うよ。調査とかって話で神社に来た人で思い当たるの、あの人しかいないもん」

「会ったことあるのか」

 忍逆は首を横に振った。「私が学校に行ってた時のことだったらしくて、その時は母さんが筆談で対応したってさ……その時は口寄せをやってるだなんて話はしなかったって聞いたよ。だから単に、知らないだけなんだと思う」

「なるほどね」そういうからくりだったか。それじゃあ和賀祓さんのリサーチに引っかからないのも当然か。

 もしかすると、彼女が口寄せを行うこと自体が、入念な調査でも得られないほど厳格に秘匿されている情報であるということなんだろうな。

「忍逆さんのお母さんは、忍逆さんが口寄せができるってことを知ってるのか?」

「勿論。お母さんもやってたし。私にもできるだろうって母さんは言ってたかな」遺伝的に彼女もそれができる、ということか。

「待って」急に気色の違う声を彼女が発する。ドアの方を一心に見つめる。

「来る」

「何が」

「停電」彼女が十からカウントをする。じゅう。私を担いでと急に言う。きゅう。咄嗟に俺は彼女を抱き抱える。はち。いわゆるお姫様抱っこの要領だ。なな。そしてそのままスタンバイ。

 ろく。このまま玄関へ言ってと彼女が叫ぶ。

 ごお。俺は玄関へ行く。

 よん。彼女を抱えたまま靴を履く。

 さん。

 彼女の目は、いつもよりも開いていた。

 にい。

 彼女の顔は、いつもより強張っていた。

 いち。

 彼女の体温は、いつも通り冷たかった。

 ぜろ。

 部屋が真っ暗になる。

 同時にドアを開ける。

 同時に俺は駆け出す。

 マンションの通路部分も階段部分も暗かった。

 何階だか、住人の甲高い悲鳴が短く聞こえた。

 一カ所。

 ただ一カ所。

 火花を散らしながら、不規則に点滅する部分。

 やっぱりショートしていた。

 火花が焦げた配電盤を照らす。

 その光に照らされても尚、配電盤は真っ黒だった。

 ショートした配電盤めがけて突撃するが如く。

 彼女が突然に飛び跳ねる。

 俺の腕を離れる。

 宙に飛びかかる。

 彼女が舞う。

 何かが空を切り裂いた。

 何もない所から音がした。

 何故か彼女の手から火花が散った。

 文字にならないような短い声。

 鬨の声。

 叫び。

 俺は彼女の飛び跳ねた反動に耐えられずに転んでしまっていた。

 地に足を着ける。

 地から足を離す。

 ジャンプを繰り返しながら彼女は相変わらず手から火花を飛び散らす。

 蝶のように宙を舞う。

 蜂のように空を刺す。

 そして綺麗な着地。

 華麗で見事な着地。

 恐らく終わった。

 何かとの戦い。

 終戦である。

「倒したよ」

 その一言には妙な安心感があった。

「終わった。一先ずね」

「一先ず、か」俺も気が動転していたらしく、なかなか立ち上がらずにいた。「これで終わりってわけじゃなさそうだな」

「彼一人じゃないかもしれない」

「彼……ね」俺には何も見えない。焦げた配電盤はまだ火花を放つ。電気も緊急の予備電源に切り替わったらしい。周囲が明るくなっていく。

「あ、ごめん。見えないんだっけ」と、俺の手を握ってくる。女の子に手を握られるのは初めてだが、その恥ずかしさよりも冷たさが先行する。俺はつい、手を振り払う。

「ああ、ごめん」

「いや、いいんだ」俺はなんとなく頬を触る。一瞬にして冷え切った手を頬に当てたその判断は恐らく正しかった。急な運動で熱くなった顔には最適だった。俺の体自身も、急激な運動による温度変化についていこうとして、汗を大量に出す。

 少しだけ触れて、すぐに手を離したにも拘わらず、俺の眼には得体の知れないものがハッキリと映った。今までそこには何もなかったのに、急に現れた。

 俺は「何だこれ」と呟いた。

 変なものが目の前に足元に横たわっている。彼女と必死の戦いを繰り広げた末に敗れて気を失っているのだろうか。僅かに、ゆっくりと、膨らんだり萎んだりを繰り返している辺り、呼吸をしているということは推測できる。生きてはいる、ということも。

 横たわったそいつはこのマンションの白い床と殆ど同じ色をしたスーツのようなものを着ている。それは宇宙服のようであり、むしろ宇宙服よりも洗練されたデザインだと思った。ヘルメットのようなものもかぶっていて、もうほとんど俺達人間と変わらない。気色の悪さや不気味さよりも、不思議な感じばかりがそのスーツからは漂ってくる。

 明らかにこの世界のものではないと、俺の中の思考が何の疑問も持たずに判断している。

 この世界ではないどこかの世界から外れた何者かであると、思考は疑問を持たずに判断している。

「これは何なんだ」

「わからないけど、なんとなくわかるよ」彼女は平然とわけのわからないことを言う。「私達が住んでる次元の世界とは違う、別の次元の世界の住人だと思う」直喩なのか暗喩なのかわけのわからないことをやっぱり平然と言ってのける。およそ理解のできる発言ではなく、理解しきれる発言ではない。

 得体の知れないそいつの体が透けていく。「なあ、これ、消えてくけど」

「嘘」

「いや、ホント」

 ああ、と一人納得して彼女はまた俺の手を握る。冷たさに耐えられずまた俺はごめんと謝りながらその手を振りほどく。氷よりも冷たいものに触っている気分だ。

 だが消えかかっていたそれはまた姿をハッキリと現した。

「こいつが、停電の原因なのか?」

「考えられる中では、それが最有力かもね」彼女はそいつに一歩踏み出してヘルメットに触れる。何かが起こるわけでもなく、彼女はただ淡々とヘルメットを脱がそうとする。

「……手伝って」すっかり冷静になってしまったその声に、俺は従う他なかった。彼女も俺も、両手を使ってヘルメットを引っ張る。ひんやりと冷たい無機質なそのヘルメットは、彼女の手ほどではなかったにせよ、およそずっと触っていたいほどの温度ではなかった。それは冷たさのせいではなく、ハッキリと感じ取れてしまう不快な感覚のせいだ。

 ヘルメットはゆっくりと確実に脱げていく。嫌な予感がする。着実にそれは俺の中で姿を現していく。ヘルメットの下から徐々に出てくる人間の顔。俺はそれを恐れている。手は止められない。彼女が止めない。俺の手が動かなくなってももう遅い。彼女の力だけでも脱げるところまで来てしまった。

 そうして、ヘルメットは脱げ、顔が現れた。

 普通の人間だった。

 普通の。

 ふつうの。

「この人が、彫元さん……?」

 俺の予感をいち早く読みとった……或いは察した彼女が推測する。それは俺の主観で言えば完全に当たっており、俺の記憶の中の顔そのものだった。俺は彼女の推測に首肯する。記憶の中で曖昧だった顔の輪郭が修正されていく。

 彫元夕城。

 彼女が戦った、俺に見えないその敵は、彫元さんの顔をしていた。

「なるほど。確かに、口寄せの時に出てきた顔じゃない。女性と見間違うほどの顔立ちでもないし……この人なんだね。そうなんだ」俺は彼女の口寄せの記憶を直接見ることができないので、彼女がどういう顔を見たのかが気になった。

「なら、見せてあげようか」

「できるのか?」

「私は大丈夫だけど……」語尾が濁る。「その、真刈君が耐えられるかどうか」

「耐久性には自信あるけどな」伊達に毎日走っているわけじゃない。

「持久力と勘違いしてないよね……?」

「そっちにも自信はあるから平気だろ」

「そう……?」自信なさげに確認してくる。そこまで慎重になられると、俺も身構えるしかない。

 後ろでドアの開く音がした。「おやあ」天気さんだった。

「何度も申し訳ないねえ、まーたショートしちゃったのかあ」仏の顔も三度とは言うが、天気さんの反応は三度目も変わらなかった。怒りの感情よりも落胆しているようだ。怒りとは言え、誰がショートさせたかも天気さんはわからない(人為的なものとすら考えていないかもしれない)ので、やり場のない怒りではあるだろうけど。

「原因不明の停電が三日も続くってようじゃあ、これはいよいよ、ハコザキさんにも本格的に相談しないとねえ」

「ハコザキさん?」

 あ。天気さんが口を塞ぐ。勢い余って塞いだせいか、乾いた音が聞こえた。目も丸い。やってしまったか。

 恐らく、このマンションを建てさせた資産家の名前の一部だ。名字だろうか。天気さんは困ったように、眉間に皺を寄せて、眉をハの時にして、目を閉じていた。口に出してはいけない名前だったらしい。

 観念したように、天気さんは口を開く。

「このマンションをデザインした、資産家の名字さ。ハコって漢字が、普通考えるようなやつじゃなくてさあ、カタカナの「コ」の逆を書いて、その中に「甲羅」の「甲」って書くんだけどねえ、ほら、『魍魎の匣』の「匣」だよ」

 俺はその『魍魎の匣』を知らないが、つまり「匣崎」か。

「それで、住人の人らには全く話してないんだよねえ、話す必要がないって言われちゃったから」

「彫元さんはその人を知っているようでしたけど」和賀祓さんも、脅迫程度だがその人を知っていると聞いた。

「まあ、あの人は例外というか……元々知り合いだったようだしねえ」

 資産家・匣崎さんか。ネットで検索すればすぐに情報が集まりそうなくらいには、希少で希有な名字だ。

「……二人とも、怪我はなかったかい? いきなりの停電だったからねえ、私もいろんな所をぶつけちゃってねえ」

「俺たちは大丈夫でした」

 忍逆は何も喋らない。そもそもこちらを見ていない。ずっと焦げた配電盤と、その下にある何もない空間を交互に見続けている。俺にはすっかり姿が見えなくなったが、まだそこに何者かが横たわっている、ということは十分に伝わった。

「よかったよかった。とりあえず、明日また業者さんに連絡しないとねえ。またたぶん警察が来るんだろうなあ」

「警察ですか?」

「そうなんだよお、あの部屋ではまだ捜査が続いてるのさ。停電が起きて、何事か! って感じで私の所まで来るのよ。一昨日も昨日もそうだったし、今日も来るんじゃないかなあ……君らも警察来る前に家に帰っといたほうがいいかもねえ」

「そうします」

 天気さんは、忍逆の所作に触れることはなく、「というわけで、また明日ねえ。おやすみなさい」とあっさり帰っていった。

「まだそこにいるのか?」

 彼女は頷く。彫元さんの顔をした何者か。そいつは微動だにしないらしい。「生きてるか?」

「うん、まだ生きてる。気を失ってるだけみたい」

 へえ、と俺は返す。「俺にはもう姿が見えなくなったみたいだが……触れるのか?」

「完全に見えなくなるまでは触れるけど、その分だともう無理そうだね」彼女は手を差し出す。「握って」

 冷たさに耐えつつ彼女の手を取った瞬間に、そいつは姿を現した。姿が見えなくなる前と体勢は変わっていない。

 その顔はやっぱり彫元さんそのものだった。

 昨日の和賀祓さんから聞いた彫元さんの顔の目撃情報を思い出す。死相が全面に写し出されたような顔だったとか何とか言っていたっけ。到底生きている人間の顔ではないと。今足下で気を失っている彫元さんの顔には、死相など全く出ていない。表情も強ばっていない。穏やかな顔で気を失っている。

 和賀祓さんが見たというあの顔は、作り物だったのだろうか。すると、彫元さんの部屋で発見された首切り死体はどうなる?

 いや、あの死体の身元はニュースでもハッキリとは報道されていない。いまだにあの死体が彫元さん以外の誰かであるという可能性が辛うじて残されてはいるわけだ。

 しかし、仮に身元が判明したとして、その死体の持ち主が彫元さん本人だとしたら、いよいよ訳が分からなくなる。何しろ、彫元さんの顔をした人間が二人いることになってしまうのだから。そんなことはないだろうけど。

「あり得ない話じゃないかもよ」俺の手を握る彼女はふとそんなことを言う。

「双子だとか?」

「三つ子かも」

 双子だというのならまだわかる。死んでない方が片割れということになり、目の前で横たわっているこの男はもう片方。という仮定。

「双子でなくて三つ子なら、どうしてそう考えるんだ」

「三つ子とは言え、必ずしも性別が同じとは限らないでしょう」

 先の男二人の兄弟に加えて、新たに生まれも育ちも殆ど変わらない三人目を女性として仮定する。三つ子の新しい片割れであるそいつが、霊体となって忍逆に取り憑いた。

「大胆な推理でしょう?」

「本当に大胆だな」何千分あるいは何万分の一の確率で、彫元さんが三つ子(尚かつうち一人は性別が違う)である可能性はある。

 だが、仮に三つ子であったとして、そのうちの一人がこうして次元の違う世界の存在となっているのは何故だ?

 それについて考えてみる前に、俺たちはこの場所から移動した方がいいらしい。警察が一昨日も昨日も天気さんの所に駆けつけてきたのならば、もうすでに配電盤のショートが原因だと知っているはずだ。俺たちが配電盤にいるのは、なんとなくまずい気がする。李下に冠を正さず、というやつだ。疑われる前に退散しよう。

「一旦、戻ろう」

「ついでにこの人も連れて戻ろう」

 そりゃあ、いい考えだな。

 放置するわけにもいかないか。

 彫元さんもどきを運ぶべく、そして冷たさに耐えきれなくなったこともあって、俺は手を離す。まだ姿は見える。彼女は寒そうに首を引っ込めていた。俺には蒸し暑いこの階段裏も、彼女にとってはやっぱり寒いらしい。一体、冬はどうやって過ごしているのだろうとますます気になった。

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