第85話『“ さよなら ” は言わない』



 ルーシーはリゼに抱き着かれ、衝撃で「おっと?!」とよろめく。



 一方のリゼは顔をルーシーのお腹にうずめ、まるで動物にじゃれつくかのように、頬を満足げに擦りつける。


 しかし、感じていたはずの懐かしさが消え失せ、リゼは目の前の少女が、自分の探している人ではないことに気づく。




「あれ? ——違う、お姉ちゃんじゃない……似てる匂いなんだけど……。


 でもすッごく良い匂い!


 あったかくって、甘くて、いろんな種族の、いろんな人たちの匂いがする! 素敵ね!」




 唐突にそんなことを言われては、ただただ困惑するしかない。だが目の前の幼女からは、悪意は感じなかった。良くも悪くもただひたすらに純粋で、元気で、それでいて無垢であった。



 ルーシーはしゃがみ込むと、視線の高さを合わせつつ、優しい口調で訪ねる。




「ありがとう。あなた、お名前は?」



「リゼはね、リゼだよ! リゼ・ルーテシア・オルディーヌ!」



「あら! 元気なお返事! そしてとっても素敵な お名前よ」



 自分の名前を褒められ、リゼは少し照れくさそうに笑った。しかしあることに気づき、再びクンクンとルーシーの匂いを嗅ぎ始める。



「ん?  あれれ? ……あとほんの少しだけど、魚屋さんみたいな、くちゃい臭いがするよ……」



 それを聞いたルーシーは、ギョッとした表情を浮かべ、思わず自分の服の匂いを嗅ぐ。思い当たる節はあった。地下訓練場に赴く際、下水処理場の近くを通った――その際に服に染み付いたのでは? と、彼女は思ってしまったのだ。



 しかしルーシーの嗅覚では、指摘された臭いは判別できなかった。



 そうこうしていると、「待ちなさーい!」という声と共に、エリシアが姿を表す。



 彼女は病室に駆け込むやいなや、リゼを捕まえようとするが、ひょいっと躱されてしまう。そしてルーシーを壁代わりに、グルグルと 追いかけっこの攻防戦を繰り広げる。



 最終的に白旗を上げたのはエリシアだった。




「も、もうだめ――」




 ここまで全力疾走続きだったエリシアは、ぜぇ ハァ と肩で息をしながら、へなへなとしおれていってしまう。



 それとは対象的に、リゼは天真爛漫、無限エネルギーの塊かのように元気いっぱいだった。これ幸いと、リゼはお姉ちゃん探しのため、匂いを頼りに走り去っていく。



 エリシアは 逃してたまるか! と、産まれたての子鹿のように脚をガクガクさせながら立ち上がり、弱々しい足腰でリゼの追跡を再開する。



「ぜぇ、ぜぇ、――……ま、ま、待ちなさいこらぁ! だからぁア! 病院内をぉ! 走らないでって言ってるでしょぉお!!」



 ルーシーはリゼが何者なのか、どういった経緯で彼女と知り合ったのかを、エリシアに問いたかった――しかし口から出たのは問いではなく、「あの……水、飲みます?」という労りの言葉だった。



 しかしエリシアには、もはや答える力すら節約したい様子で、ジェスチャーのみで『お気遣い ありがとうございます。全然大丈夫ですから。あの子、捕まえなきゃいけないので』と、サイレントボイスで語り、病室を去っていった。



 ルーシーは、


『いや、どっからどう見ても 全然大丈夫そうじゃないんですけど……』



――と思ったが、どこかエリシアの背中は、迷いが晴れ、なにかが吹っ切れたような清々しいものに見えた。


 なぜそう思えたのか、それはルーシーにも分からない。


 ただ不思議と、今のエリシアは抑圧から開放され、ありのままの少女に見えたのだ。



 彼女エリシアの身に、いったいなにが? あのリゼという幼女は何者なの?



 そんな疑問が浮かぶが、今はフェイタウンを――ジーニアスを救うのが先決だった。




 リゼに出鼻を挫かれてしまったが、ルーシーは仕切り直す。目を閉じて深呼吸を数回行う。――そして頬をパンパン!と叩き、「よしッ!」と気持ちを入れ替えた。




 決意を改め、横たわるジーニアスに『行ってきます』と、別れを告げる。




 ルーシーの瞳には、揺るぎない意志が宿っていた。病室を去り行くその足取りは、静かで、迷いなく力強いものだった。



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