冬眠 / ネッカーの寝覚め
柚月 智詩
冬眠
プロローグ
僕はベッドの上で本を読んでいた。午前0時。エアコンの室外機がゴウ,ゴウと音を立てる。階段の横に佇むカエルの人形は,あるものは虚ろな目をして,ある者は物憂げな表情で見下ろしている。ああ,あれは大学時代に学園祭で買ったカエルたちか。そう思いながら僕はそっと目を閉じた。Natsuki
1
僕は朝目を覚ました。時間は午前10時。時計が狂っていたのだろうか。自分が狂っていたのだろうか。ひとまず今日も遅刻だ。高校の頃は無遅刻無欠勤で表彰されたこともある僕が,大学に入ったら遅刻魔になっている。JRを乗り継いで新橋についた。休日なのに人が多い。人,人,人。波が押し寄せる。Natsuki
2
人の波を抜けた先の,眩しい世界へやってきた。おしゃれの町として名高い表参道。普段の僕ならば滅多に足の向く場所ではないのだが,今日は友人との待ち合わせ。この町でアルバイトをしていて,バイト上がりに会う約束をしたのだった。ファッション,起業,海外旅行。目の前の友人が語る話は,完全に別の世界のようだ。そんな別世界の住人が,今僕の目の前に座ってにこやかに語らっている。どこか不思議な感覚を抱きながら,休日の昼は過ぎていった。Natsuki
3
私は友人と別れた後,大学の研究室に戻った。卒業論文の提出まで後1ヶ月しかないので,ラストスパートの追い込みをかけている。1年間休学してどこかの授業の延長で作った高齢者の外出支援のアプリを元にベンチャーを立ち上げた。そのベンチャーが大体軌道に乗ってきたので,他の人間に任せて,自分は去年の4月に復学し,卒論を書いている。基本的に順調に進んでいるのでこのまま提出しても良いのだが,色々と論を補完するデータを集めるために,休日も大学に通い詰めている。何かを生み出すことの快感と幸福感は何にも勝る。そういえば,あの友人とはいつ頃知り合ったのだろうか...。Asuka
4
友人との話をしていたら昔が懐かしくなり,久しぶりに大学を覗いてみることにした。しかし相変わらず人が多い。これではまるで観光地だ。もっとも,僕がそんなことを言えた義理ではないが。しかし,いつきても威厳のある門や建物に気圧される。やはり僕には不相応な場所なのだ,と卑屈になってしまうが,今は前に進まなければいけない。沈む気持ちを抑え,僕は思い出の場所を後にした。Natsuki
5
凍てつく寒さをしのぐために,厚手のジャケットを着て,マフラーを巻く。一昨日都内でも初雪が降ったとネットで流れていたが,確かにそう聞いても驚かないくらいには寒い。けれども,私は冬の方が好きだ。夏のように素肌を焼かれることもなく,厚手の服を着ると誰かに包まれているようで,寂しさも和らぐ。何より服を着込めば着込むほど,私は私自身を隠すことができる。昨日の私は,卒論を書く学生。今日の私は,気分転換に銀座に繰り出す若者。こうやって私は私を使い分けて生きている。あの人と出会ってちょうど1年だと思いたち,今日は何か買おうとこの街に出て来たのである。Asuka
6
僕は冬が嫌いだ。といいつつ夏もあまり好きではないのだが,夏は暑い暑いと文句を言いながらも動くことはできる。しかし冬になると物理的に縮こまって,動けなくなってしまうように感じられるのだ。ほら,原子レベルの世界だって温度が下がるとものは動かなくなるだろ,自然の摂理なんだよ。などという冗談を頭の中でつぶやきながらも,今日は無理やり自分の体を動かしている。やはり,立ち止まっているわけにはいかないのだ。
そんな風にあちこちに思考を迷走させながら,僕の身体はまっすぐに大きな繁華街にやって来た。相変わらず気乗りはしないが,このタスクだけは済ませておかなければならない。
そそくさと店を出ると,いくらかホッとした。しかし,冷たく鋭いビル風が僕を現実に引き戻して来た。まだまだ難題は立ち塞がっているのだ。でも,少しくらいは息抜きも必要か。そう思った僕は店に戻り,少しばかり高級な価格設定の喫茶店に足を踏み入れた。Natsuki
7
私は, 大通りからちょっと外れた馴染みの店に入る。ヴィトンのバッグだとか,ティファニーのネックレスだとか,ブランドものの良さは私にはわからない。むしろ,路地裏から店を発掘していくのは,アイドルのプロデューサーとか考古学者や歴史学者にも似た感動が味わえる。卒論を「東南アジアの灌漑の歴史」という農学部の中でもちょっとマニアックなテーマにしたのも,歴史学への憧れがあった。
いや,今日は卒論を書く学生じゃなく,銀座に繰り出す企業で金を稼いだ若者を演じねば。あの人に何を買おう。指輪は流石に大げさすぎるか。そういえば,私は今日マフラーを忘れたんだった。自分と色違いのマフラーを渡すのもちょっと粋だ。早速帰りにつけて帰ろう。
帰りがけに,時計を売っているお店を見つけた。大学に入ってから社会人になっても遅刻ぐせがなかなか取れない,とぼやいていたことをふと思い出す。目覚まし時計でも買ってやるかと,追加で一つ買い物リストに加えた。Asuka
8
いつからだろう,失敗をしたときに必要以上に引く地に感じるようになってしまったのは。やはり就職活動だろうか。正直この名前を口に出すのも,頭に思い浮かべるのも不愉快極まりないのだが,自分が変わってしまったとしたら,そしてその原因を過去に求めるなら,このイベントを無視するわけにはいかないだろう。...あまり思い出したくもないのだが,ひたすら自分を否定され続けるという日々というのは端的に言って地獄でしかない。人間というのは苦痛に晒され続けるとおかしくなる生き物だ。もう深く考えるのはよそう。僕がやりたいのは過去に浸ることではなくて,未来へ進むことだ。
多分ここで大丈夫だろう。 相変わらず気後れはするが,今回ばかりは背伸びが必要なのだ。自分の中の不安を宥め,煌びやかな大都会・新宿の隅に佇む小綺麗な店の予約を取ることにした。Natsuki
9
LINEを見ると,新着のメッセージが一件あった。
「来週の日曜夜に,新宿のお店を予約してみたんだけど,一緒にいかがですか?確か空いてるって言ってたので...。」
私は一呼吸置いて,スマホの画面をもう一度眺めた。いつもだったら,こんなかしこまった文面を送ってはこない。ただならぬ雰囲気を感じる。最近仕事がうまく行っていないと聞いたから,その辺の愚痴を言いに来るのだろうか。それならいつものように「最近職場の上司が,何かと僕をバカにして来るんだよね」とか,軽い調子で会話が始まったはずだ。
あれこれ色々あらぬ思考を働かせてしまう。私の悪い癖だ。どちらにしろ色々話したかったというのもあるし,何より結構時間をかけて買ったプレゼントも渡したい。私は,LINEの送信ボタンを押した。
「いいですよ。どこに行けば良いですか...那月くん」Asuka
10
努力の甲斐あって,この時間を楽しんでくれたようだ。まずは一安心。しかも向こうからプレゼントまで貰ってしまった。中身が気になるが,開けないでと言われたので仕方ない。楽しみにしておこう。とても楽しいひと時だが,今日はここで満足してはいけない。未来へ進むのだ。それになんともくだらない話なのだが,家を出るときにいつも目に入るカエルの人形が,今日は笑っているように見えたのだ。彼らもまた,僕を応援してくれるのかもしれない。意を決した僕は,こう切り出した。
「今日はもう少し付き合っていただけますか?一緒に行きたい場所があるんです。...明日香さん。」Natsuki
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私は冬が好きだ。暖かい服を着て自分を隠すことができる。厚手のコートを深く着て,今日はあのマフラーもつけてきた。あの時よりもすごく暖かく感じる。それは,今日マフラーをつけてきたからだけなのだろうか。
彼は冬が嫌いだと言った。冬は原子が動きにくくなるから何のと水素水の営業みたいな言い訳をつけて。本当に理系の私に何を言っているんだろう。
東京駅,行幸通り。去年工事が終わって綺麗に舗装されている。ストリートライブをやっている女の子が寒そうな服で元気に歌を歌っている。私が寒そうにしていると,彼はそっと手を握ってきた。私がプレゼントしたお揃いのマフラーをつけて。
来週末の東京は,数年ぶりに雪が積もるという。前に大雪が降ったときは家族で雪だるまを作って遊んだのを思い出す。
私は冬が好きだ。冬が終われば必ず春が来るから。Asuka
エピローグ
僕は朝目を覚ました。時間は午前10時。時計が狂っていたのだろうか。自分が狂っていたのだろうか。ひとまず今日も遅刻だ。昨日は長い夢を見た。夢の続きが気になるが,そうこうしていると3限のテストにも遅刻してしまう。彼らはその後どうなったのだろうかと,カエルたちに聞いて見ても答えは返ってこない。カエルなくせに答えが返らない。だが,これが彼の父と母の出会いの物語とだったと,その夜に聞かされることになる。
夏月は,そんなこと露ほども知らず,少し明るい顔になったように見えるカエルに見送られて、今日も大学に向かうのであった。Natsuki
(終)
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