第12話 My fair lady
レディは呼吸を止めた。――ねぇ、何を言ってるの。何を知ってるの。
「キリスト教徒は国内に絶対数が少ないし霊園も多くない。一基の墓代はどうしても高くつく。君のお祖父さんが残したお金じゃ火葬するだけで精一杯だったはずだ。そもそも仏教徒と違ってお墓って形にこだわりのないキリスト教徒は、お墓を建てるより自身が所属する教会の納骨堂に入るほうが圧倒的に多い」
その通りだ。一つ一つ理論的に述べる斗真の言葉は正しかった。けれどレディはそれ以上言われたくなくて、小さくやめて、と口にする。
斗真は立ち上がり、祭壇を見つめた。正確にはその奥にあるであろう納骨堂を。そしてしゃがみ込んだまま項垂れるレディに追い打ちと言わんばかりの言葉をかける。
「お祖父さんを愛してる? 離れたくなかった?」
「違う、斗真はなにか勘違いをしてるわ。私はただ家族として……」
「神の御前で、その言葉を?」
レディが息を呑んだ。大きく酸素を吸い込んで磔のキリストを見る。いや見られてる。レディの浅ましい心ごと。レディは顔を背けて声を荒げた。
「そうよ! 嘘じゃないわ!」
「かもね。でも君が死に向かっていっているこの現状を、本当に彼が喜ぶと思ってる?」
――
繰り返し言われ続けたその言葉がレディの脳裏を満たす。彼はいつだって孫娘の幸せを願っていた。優しかった。この状況を彼が喜んではいないことくらい、斗真に言われなくてもわかっている。
何度だって、どうして、とレディは冷えていく死体に問いかけ続けた。――どうして死んじゃったの、どうして私を置いていったの、私が、あなたなしで幸せになりたくないことくらい知っていたくせに。
「……うるさい! 何がわかるのっ斗真に、斗真なんかに何がわかるの!」
だから嫌だった。自分が嫌になった。過度な依存のせいで、神にただ従って生きてきた正しい人さえ汚してしまう真っ黒な自分が、レディは大嫌いだった。レディは痩せた足に力を入れて立ち上がり斗真の肩を殴る。
「レディ」
レディの細腕にいくら殴られても、全く痛みを感じない斗真が、レディの手首を捉える。これ以上やって傷つくのはレディの方だった。レディは感情を抑えきれずに叫ぶ。
「っ最初に会ったときから、あなたは私のことを何もかも知ってるみたいだった! 本当は何も知らないくせに!」
「……」
「もし本当に私のことを、……私の醜さを知っているなら、好きだなんて言わない! 愛しているだなんて言わない! 絶対、絶対に言わないっ!」
レディは激情を溢れさせると、斗真の手から自分の聖書を奪い取り、蹲った。
斗真が心配してかがむと、レディは一瞬だけ強い瞳で斗真を睨んだ後、なだれ込むかのように倒れ、意識を失ってしまった。貧血か、この様子だと栄養失調もあるだろう。
倒れたレディを、斗真が抱きかかえようとすると、メモ紙がパーカーのポケットからこぼれ落ちた。
それは斗真がレディと初めて身体の関係になった日に置いていった書き置きだ。
【僕は現金をあまり持ち歩かないので、これだけ置いていきます。意識があるときは受け取らないだろうから、寝てる間に。また会いに来ます】
そして、最後に綴られた一文。
【My fair lady】
斗真は、これがレディに対するきっかけになればいいと思った。ほとんどカマをかけたようなものだが、こうしてレディが持っているということは、斗真の予想は間違っていなかったということだろう。誰にも見られないようにするには、自分で持っているのが確実だ。
彼女が普段使っている名前【レディ】は、実は本名ではない。友人も、周りの大人達もレディとしか呼ばないのは、この街に来てすぐの頃から、レディ自身がそう強く望んでいたからだ。彼女の呼び名の何が出典かを考えた時、老人の趣味嗜好を踏まえれば、英国の童謡から拝借したと考えるのが一番妥当だった。
「My fair lady……か」
斗真がレディを抱き抱えると、それはもう羽根のように軽かった。人一人の体重があるとはとても思えない。手に触れる部分は骨ばっていて、ウエストラインのくびれは酷い有様だ。
「……軽すぎる。そうまでして君は……」
隠さなければいけないことがあるから、偽らないと生きていけない。自分の心にだけ正直に、周囲の全てを偽って、謀って、愛すべき神にさえ背を向けて。それでも彼女が守りたかった大切な気持ち。斗真は妬まずにはいられなかった。
「たとえ本当に醜かったとしても、変わらず愛してあげる。ずっと昔から変わらない――俺の
◆
「レディ、どこにいるんだい」
しゃがれ声はいつだってレディを追い求めていた。
焼けてしみだらけの肌、痩せた首筋、増えていく白髪。彼は、レディにたくさんのことを教えてくれた。
紅茶のゴールデンルール、金糸雀の育て方、お祈りの仕方、教義、歴史。
「いい時代になった。軍国主義の日本で、この信仰は敵国文化でしかなかった。私は憲兵から隠れて神に祈ったんだよ」
目がもう見えないのに、それでも老人の淹れる紅茶は完璧だった。ただ手元が危なっかしくて怖いので、レディは何度か教えてもらって自分が淹れるようになった。
老人が久しぶりに入れてくれた紅茶を堪能したレディは、神の素晴らしさを説く老人に、本当に信じることは意味があるのか訊ねた。
「祈りは届いたの? 奇跡は起きた?」
「もちろん。届いたとも。奇跡は万人に降り注ぐ」
皺くちゃの顔は、微笑むとさらに皺が深くなる。目尻に刻まれた皺には、かつて彼がいかに笑っていたかを物語っていた。娘夫婦とあれだけ不仲だったのに、何が彼をそうさせたのだろう。そして彼に降り注いだ奇跡とは、一体何だったのだろう。レディには最期まで、わからないままだった。
――嘘つき。
目を覚ますと、彼のいない現実が待っている。何度この朝に絶望したら、彼のもとに行けるのだろうか。レディは虚空に手を伸ばして、やがて力なくその手をおろした。
「奇跡なんか起きないじゃない。パパとママのときもそう、同じ名前でも、似た顔でも、私は、彼女にはなれない……」
「……涙を拭こう。まりあ」
レディは目を見開いてベッドサイドに椅子を置いて座っている斗真を見た。既に諦めていたことだったが、往生際が悪すぎた。当たり前だ、後見人になろうという人が、レディの本名を知らないはずがなかった。もう一度まりあ、と確認するように呼ぶ斗真にレディは目頭が熱くなるのを感じた。
「まあ、知ってるわよね。書類、とか? もう、見たんでしょうから……」
斗真はそっと手を伸ばして、人差し指でレディの目尻の涙を拭った。レディの言う"彼女"が誰なのか、斗真にはもうはっきりわかっていた。レディの祖父が傾倒した、聖母マリアのことだろう。
どういう経緯でレディが親に"まりあ"と名付けられたかはわからないが、少なくともその名前と、まるで生き写しかのように聖母マリアと似て整った顔貌は、信仰に生きる人の心を揺らがせる。
無論、レディは無力な少女でしかない。それでも奇跡を願い、奇跡を起こせなかった。心の拠り所が信仰しかなかった少女が、自分を責めるには十分だったのかもしれない。いやこれは想像の域を出ないな、と斗真はこめかみを手で抑えた。
「なんであなたが辛そうなの」
レディは斗真のこめかみを抑える手を優しく撫でた。そして周りをぐるりと見まわす。
高い天井、豪華な内装、シックながら大振りな家具たち。レディの家に置いたらすぐに部屋がパンクしそうなそれらが、ゆったりとスペースを空けて配置されている。レディの肩までかかっている寝具は、深い紺色だ。女性ものの寝具ではなかった。ここは斗真の部屋だろうか。
ここは寝室のはずなのに扉が二つある。どちらが出口か分からない。そしてもう一つは一体どこに通じているのかも。テレビで見るホテルのスイートルームのようだとレディはため息をつく。
「ここは僕の部屋だよ。まりあ、君は倒れて――」
レディの心を読んだかのように状況を説明する斗真に、レディはやっと意識がはっきりした。そして斗真に触れている自分の手を慌てて引っ込めて上半身を起こした。
瞬間、くらりと目眩がレディを襲う。貧血だろうか。ろくに食事を摂っていないから当然か。それでもレディは虚勢を張ってベッドから出ようとする。
「助けてくれたのね、ありがとう。でももう大丈夫だから、私、帰る」
足を地面に下ろすと少し浮いたような心地がした。フラフラしているのが自分でもわかる。レディはそれでも気力だけを振り絞って立ち上がろうとするが、細い肩を斗真に掴まれて動けなくなった。
「帰るなとは言わないからせめて食事をとっていって。面接前に死なれたんじゃ話にならない」
面接は一週間後だ。確かにレディは斗真に頼らなければもうどうにもならないところまで来ていた。
レディはぼんやり斗真を見つめ、ゆっくり首を傾げた。
「どうして後見人なの?」
斗真はレディの質問に切なそうに笑うだけで、言葉は何も発さなかった。レディは畳み掛ける。
「遠回しだったかもしれないけど、伝わってないとは言わせないわ。私はあなたの好意に応えられない。面倒な手続きして、無駄にお金をかけて、私を生かす価値はないの」
レディは早口で捲し立てた。ちゃんと斗真には言ったはずだ、好きな人がいる。こういう関係は続けたくない。斗真のために嘘はつかない――。
斗真がいつから計画してたかはわからない。だが、予定通りレディを裏切り仕事をやめさせ、そして後見人になる手続きを裏でしていたのだとして、レディが斗真に告げた言葉には何の意味もなかったということだろうか。レディの意志なんてどうでも良かったということだろうか。
レディはぎっと唇を噛み締めた。昼間に噛み切ったばかりの生傷が開き、口内に蔓延る鉄の味。
斗真は右手の親指でレディの唇から血を拭い、そして赤く染まった指をぺろりと舐めた。
倒錯的なその様にレディの背中がゾクリと反応をする。
斗真はレディの反応に気を良くして、小さく笑った。そして感情的になったままのレディを落ち着かせようと両手でレディの手を握る。
「そうだな……じゃあ毎月手紙を書いてくれる?」
突拍子もないように聞こえる言葉だが、レディはすぐにそれがとある児童書の内容だと気づく。レディが自分から言ったことだからだ。ずばり、斗真のことを、あしながおじさんみたいね、と。
「私はジュディみたいにあなたを好きになったりしない」
「うん。でもそもそもあしながおじさんは、ジュディに振り向いてほしくて支援をしたわけじゃない」
ならばどうして、
斗真は、一体どうなんだろう。レディは俄に興味をいだいた。レディの何が斗真をここまで動かしているのだろうか。
初めて会ったときは、斗真がレディの婚約者だと嘯いて家賃を半年分払ったときだ。出合い頭に結婚してくれと言われて面食らった日。
レディは斗真のことをあしながおじさんに例えて、自分をジュディだと思った。境遇が似ている、と。全てはあの日から始まっている。あの日、斗真はなんて言っていたっけ。三年前、レディを緑地公園で見かけた。見かけたって、どの程度――なぜ印象に残った? レディは少し考えていた。
「三年前、私は緑地公園で何してたっけ?」
緑地公園にはよく祖父と出かけた。季節ごとに咲く色とりどりの花を見に。けれど祖父には見えなかったから、もっぱら目を閉じて風の音や花の香などを楽しんだ。あの時間はレディにとってとても幸せなひとときだった。しかしまさかそれくらいで――。
レディが訝しげに顔を顰めると斗真は笑い声を口に出し、レディの頬を撫でた。少し前まで柔らかい感触が指に返ってきたはずなのに、今は痩せこけている。斗真は一瞬だけ眉をひそめ、すぐに笑顔を作り上げた。
「僕の世界は少し退屈だったけど、君と出会って色めいた。詩的かもしれないけどそれが真実」
「詩的というか、抽象的ね……」
その言葉だけでは何がきっかけだったのかわからない。けれど斗真にとって衝撃的だったことは間違いなさそうだ。
「僕は僕の世界を輝かせてくれた人にできる限りのことをしたいだけだよ」
「無償の愛? くだらないわ」
「同じものを君も持っていると思うけどね。そうじゃなきゃ、視力のない老人とたった二人で生きてはこられなかったはずだよ」
大切な人にできる限りのことをしたい。レディは祖父が歩くたびにその手を支え、気を遣った。食事を作り、風呂を手伝い、老人の代わりに教会を手伝った。それは紛れもなく、祖父が大切な人だったからだ。
レディは俯いた。どう言い返せばいいか、わからなくなった。
「少しは、落ち着いて話ができる? なにか飲むものを用意しよう」
斗真は立ち上がって、俯いたレディに優しく問いかけた。
「紅茶がいい」
「ふふ、だと思った」
斗真が部屋を出ていく後ろ姿をレディは見送って、そちらが出口側の扉か、と的外れな感想を抱いた。
じゃあもう一つの扉はどこに繋がっているんだろう。例えば続き間になっていて、女性がいたりするんだろうか。レディは突拍子もない妄想をして情けなさげに笑った。確かめる勇気はない。
レディは一頻り妄想を楽しんだ後、平常心を取り戻して何度か足で床を踏んだ。フローリングの感触を確かめ、なんとかまだ足に感覚があることに感激しながら、レディは渾身の力を入れて立ち上がった。
本当なら逃げ出してしまいたいが、流石に今のレディにそれは不可能だ。レディは暗い部屋の中を手探りで歩いた。
ベッドのまっすぐ向かい側の壁にはクローゼットと思しき扉と、壁がけの大きなテレビ、豪華な音響設備が揃っていた。壁とベッドの間の空間には、丸絨毯の上に大きなソファとローテーブル。仕事をここですることもあるのか、ノートパソコンが置きっぱなしだ。
ベッドを背にして右側は斗真が先程出ていった扉、壁には大きな絵画。ベッドの隣にはサイドテーブルとその上にレディが斗真から奪い返した聖書が置いてあった。普段はこのテーブルでスマホの充電をするのかケーブルが見える。
そして左側は大きな扉と、天井につくほど大きな棚。棚の中は大量の書物と、レコード類だった。
レディは棚に歩み寄った。部屋は暗いが、月明かりが明るいので背表紙の文字も近づけば読めた。ほとんどハードカバーばかりが、作者の名前順に陳列されている。斗真の几帳面さが現れていた。
「……あら思ったより知っているものもあるわ。祖父と趣味が似てるのね……」
そう独り言を言いながら人差し指で目線の高さにある本の背表紙をなぞっていると、目に留まるタイトルを発見した。他のハードカバーに比べれば薄く、装丁も簡素だ。しかし何度も読み返されたのか、背表紙に白い線がついている。
レディはその親しみのあるタイトルを思わず手にとって開いた。古い映画の原作だったはずだ。ロンドン訛りのある庶民の少女が、公爵夫人になっていくシンデレラストーリー。
高校生には少し難しい洋書だがレディは読めた。月明かりだけが頼りの中、ほとんど暗記で内容を覚えているので、記憶を字で補えばよかった。そして気がつくと童謡を口ずさんでいた。
「London Bridge is broken down broken down broken down……」
お馴染みのリズムに合わせて口ずさみ、同じフレーズをもう一度繰り返す。
「……My fair lady」
レディが童謡の一番を歌い切ると、部屋が急に明るくなった。眩しさに思わず目を瞑る。
「レディ」
ゆっくり目を明るさに慣らしながら瞼を持ち上げつつ振り返ると、ティーセットをキッチンワゴンに乗せた斗真が部屋の入口に立っていた。
「――やっぱりそっちの呼び方のほうがいい。”聖園まりあ"を知っていてもいいから、レディって呼んで」
「君がそう望むなら」
「……いい香りね」
レディが部屋に充満しつつある紅茶の香りに鼻を鳴らすと斗真はキッチンワゴンからティーセットを持ってローテーブルに置いた。
「ありがとう。レディが紅茶を好きだって知ってから、淹れ方を覚えたんだ」
「そうだったの」
レディは手に持った洋書を棚にしまい、斗真を手伝おうとゆっくり歩み寄る。床をきちんと確認して歩かないと、足元から崩れてしまいそうだった。
ティーポットの中は既にジャンピングをしていて砂時計はもうすぐ紅茶が淹れ終わることを示していた。レディがティーカップに触れるとよく温められていたのでこれなら温度を維持できるだろう。レディを見かけたのが三年前だとして、それから淹れ方を覚えたなら斗真は上達が早い。
斗真はレディの趣味嗜好をよく理解している。興信所でも雇って調べたと考えるのが妥当だろう。そうでなければ、いくら近所とは言え唯一の肉親を失った少女が三年前に見かけた少女だとすぐには結びつかない。
レディがあれこれ考えている間に砂時計は落ちきっていた。斗真はティーポットの中を一度だけ混ぜて、ティーストレーナーを用意する。
「ソファへどうぞ。僕が注ぐから」
そう促され、レディはソファに腰掛ける。総革張りの上質な素材がレディの背中や臀部を包む。
斗真は慣れた手付きでポットの中身を二杯分注ぐと、やはりベストドロップの入ったほうをレディに差し出した。
いつもの重厚感のある香りとは違う、独特の華やかな香りはアッサムではなくダージリンだろうか。レディは受け取ったカップに口をつけ、丁寧に味わって考える。
斗真はレディが座るソファの向かい側のクッションの上に胡座を組んだ。家主は斗真なのだから、隣に座っても構わなかったのだが。
「さっきの歌は、"London Bridge is falling down"だね」
「正確には、"broken down"よ。そっちはアメリカでついた名前なの」
レディの詳しさは、自分の呼び名の出典がそれだと物語っているようなものだったが、斗真はあえてそれを質問にした。
「君の"レディ"はその童謡から?」
「さあ。話す義理はないわ」
冷たくあしらうレディに覇気はない。ティーカップを持つ手が少しだけ震え、カチャと音を立てた。
レディは慌ててティーカップをソーサーに乗せ平静を装う。不審な行動は、図星を突かれたからだ。
斗真はレディの様子を見て、それ以上の追及はしなかった。決して追い詰めたいわけではない。
目を伏せて、両手をついて体重を後ろにかけると、斗真の部屋着のカーディガンが肩からずり落ちた。斗真は片膝を立てて、レディを見つめる。
「――明後日」
「あさって?」
「時間を作って欲しい」
明後日は決して面接の日ではない。レディは怪訝な表情を作って首を傾げる。平日に一体何をしようというのだろう。
「学校は休んで。ごめんね」
「別に、しばらく学校なんて行ってないから」
斗真に謝られるとレディは拍子抜けしてしまう。斗真は強引かと思えば優しいし、優しいかと思えば裏切ってくる。何を信じていいのかわからない。
「でも君はこのまま学校をやめたいって思ってるわけじゃないはずだよ」
「手酷く裏切った人に言われるとは思わなかった」
「そうだね……責任はとる。もちろん学費は
そういうことを言いたいわけではない。レディは憤然としたが、そもそも斗真に金銭的な関係を求めたのは自分だったと思い出して俯く。
「そうじゃなくて。まあ、それもだけど、とっくに授業には置いてかれてるの。蘭にも顔を合わせにくいし……」
「僕を恨むのは良い、でも君に自分を責めなきゃいけない理由は何もない。仕事のことも、学校や友人のことも、お祖父さんのことも、だ」
レディは顔を上げて斗真を見た。そして視線を落として自分の痩せた手のひらを見た。何も持たない、何も出来ない自分を責めずにいられなかったレディの幼さを斗真はとっくに見抜いている。
「奇跡は、万人に降り注ぐんだってあの人は言ったけど、私は奇跡を起こせなかった。まりあなのに……」
無力感がレディを包んだ。
祖父が死んだのは自分が悪いせいなんだと、冷えていく身体に触れながら言い聞かせずにはいられなかった。彼は正しく生きてきたはずなのに、自分のせいで、神は見捨てたのだと。そう思い込まなければ、レディは己の悪魔に身を委ね、神さえ呪っていた。
斗真は深く息を吐いて首を振った。その様は悄然として萎れているようにも、またレディに呆れ返っているようにも見えた。バカにされているような、子供扱いされているような気がして、レディは苛立ちを募らせていく。
「それも君のせいじゃない」
「じゃあっ!」
レディは思わず立ち上がって斗真を見下ろしていた。激情がレディを包む。簡単に言わないで、とレディの中の炎が揺らめいて燃え上がる。
「じゃあ誰のせいで死んだっていうの!」
ヒステリックになりながら、その場から一歩歩きだすと、レディは足元から崩れ落ちた。斗真が心配し、慌ててレディに駆け寄る。
レディは支えようと伸ばしてくる斗真の手を、振り払いながら立ち上がろうとする。しかし足には力が入らない。
「パパとママもっ! あの人も……っ」
レディは首を何度も振る。勝手に涙が溢れてくる。上手くいかない。何もかも、一人で生きていくことも出来なければ、誰かを助けることも、救うことも出来ない。無力で世間知らずで愚かで――罪深い。
「私のせいじゃなかったら、一体何のせいで……っ」
「運命のせいだ」
斗真ははっきりそう言うと、抵抗するレディを強く抱きしめる。そして唸るような声色で皮肉混じりに笑った。
「都合がよくていいじゃないか。誰かのせいにしたいなら運命のせいにしよう。君はもっと自分のために嘘をつきなよ」
「嘘は、大切な人のためにだけ――」
「だからだろ。僕は君自身を大切にしろって言ってる」
斗真はいつもより幾段か厳しい口調と低い声でレディに言い放った。レディはその言葉をゆっくり咀嚼して飲み込む。
「……だから、斗真は嘘も受け入れちゃうの……? 私に嘘で好きって言われても喜べちゃうの?」
レディの意外な言葉に、斗真は何度か瞬きをした。今そんなことは二の次だったのだが、レディにはそういう意味も含めて伝わったらしい。
斗真は軽く笑うと、身体を少しだけ離して、レディの頬を両手で包む。
「はは、それが本当ならどれだけ嬉しいか分からない。でも嘘だとしても、君が僕を傷つけない為にする嘘なら、きっと喜んじゃうと思うよ」
「どうしてそんなに好きなの? 私の知らない間に、一度見かけただけなんでしょ?」
たったそれだけの相手にどうしてそこまで想えるのか。大切な人への無償の愛は、何の飴もなしに育むものなのだろうか。
レディはわからなかった。斗真がどうしてここまで、強く優しくレディに接してくれるのか。どうしてこんなに愚かな女を、何の見返りも求めずに愛してくれるのか。
「うーん、僕が"レディ"を認識したのは、三年前の一瞬。僕は君をずっと知っていて、変わらず好きだったんだよ」
それは少しの言葉遊びを孕んでいたが、とっ散らかったレディの頭では言葉のままにしか理解できずに、三年前に何があったかを思い出そうとする。
しかし、いくらなんでもここまで風貌の目立つ人と、強烈な出会いがあったのなら、決して忘れはしないはずなのに、ちっとも思い出せずにいる。
「……私は斗真を知らないわ……」
やはりレディにはそれ以上の結論にたどり着けない。けれど一瞬だけ、斗真が悲しそうな顔をしたのを、レディは見逃さなかった。
「そうだね。この話はまた別の機会にしよう。今大切なのは、君が本当の意味で自立するために、過去と別れを告げることだよ」
「わかれ?」
「そう、お祖父さんへの過剰な依存をやめるんだ。レディ、君は自分の意志で、ちゃんと立って生きなきゃね」
斗真の言葉はレディの絶望と諦念に満ちた心にゆっくりと語りかける。一人で何もかもを背負い込んで、人に頼らず生きようとして、そして着実に死へ向かおうとする少女に。過去への決別と、心の自立を。
「立って……」
「そうだよ、立たなきゃ」
「足に、力がはいらないわ……」
ボロボロと泣き崩れながらしゃがみ込むレディの足には本当に力が入らなかった。今までの虚勢が嘘のように弱々しく、レディは自分の頬を包む斗真の両手に手を添え、そしてその腕に縋りついた。
「それだけ痩せてちゃね」
斗真はそう言うと軽く笑ってもう一度レディを優しく抱きしめた。レディは斗真の強く太い腕の中で、ゆっくり意識が混濁していくのを感じながら、両手を伸ばし斗真のカーディガンを握りしめた。
――生きたい。ちゃんと、自分の意志で、自分の足で立って。
「一緒にご飯を食べよう? 初めてのモーニングデートの時みたいに好きなことを話そう。たくさん、たくさん話すんだよ。大丈夫。レディ、君は独りぼっちじゃない。僕がいる」
斗真の柔和な声がレディの耳を支配する。嗚呼、何だか昔もこんなことがあった気がする。バイオリンをとても上手に引く男の子。大好きだった。初恋だった。もう後ろ姿しか、覚えていないけれど。
――安心して、一人じゃないよ。まりあちゃんには、僕がいる。
レディは何かを思い出しかけて、やがて力を抜くかのように意識を失った。
◆◆◆
自分で読み返して、何度も泣くくらい思い入れの強いのがこの十二話です。
十八、九の女の子の少し背伸びして強がるところ。感情の振れ幅が激しいところ。
急にヒステリックになっちゃうところ。でもやっぱり最後は素直なところ。
女なら、誰しも多少は経験があるんじゃないでしょうか。
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